3-24 やっぱり好きだな、キミのにおい
「な、なにをしてるんだ、リリア!」
驚きも無理はない。
俺はリリアによって、右腕とベッドのフレームを手錠で固定されてしまったのだから。
「言ったでしょう? さすがのボクでも、ここまでしたら『異常』だって分かるよ?♡」
リリアは得意げに胸を張ってみせた。
「自慢するところじゃないだろうが! くっ……!」
だれかに助けを求めようにも、御用聞きのウェイターたちの姿はもうどこにもない。今この寝室にいるのは俺とリリアのふたりだけだ。
「冗談、だよな?」
「冗談、だと思う?」
リリアの笑顔もまた、手錠と同じで。
蝋燭の灯りに照らされ不気味に紅く染まっている。
「こんなことして、どうするつもりだ。俺たちがしているのはあくまで恋愛の練習だろ? 世間一般のふつうのカップルが、こんなことをするようには思えないが」
「うん。だからさっき言ったでしょ? これまではボクにとっては『ふつうの恋愛』だったけど……すこしは『異常な恋愛』も経験しておきたいなって思って。――最後の夜に、ね♡」
「っ……!」
リリアの目はどこまでも本気だ。
それにしたって異常が過ぎる。もう一度腕に力をこめてみるが、手錠はがちゃがちゃと無機質に鳴るばかりで、どうにも外れる見込みはなさそうだった。
気がつけば音楽がかかっていた。部屋の隅にあるスピーカーからはクラシックの曲がかかっている。たしか音楽の授業で習った……モーツァルトだっただろうか。いずれにせよ、その華やかな旋律と今の状況は似つかわしくない。いや……逆にそれが不協和音のようにもなって、目の前の異常さを引き立てていた。
「それじゃ――はじめよっか♡」
リリアの透明感のある笑顔が、今や恐怖にしか感じられなかった。ごくり。喉が鳴る。口の中がからからに乾いている。それでも汗がにじんでくる。
どうしようもなく不可避的に。
身体の奥がじっとりと熱をもってくるのを感じる。
「なにをする、つもり、だ」おれは途切れ途切れに言う。
「あは。しらばっくれちゃって。――ここはホテルの寝室。そのベッドの上に恋人関係の男女が一緒にいるんだよ? それなら、やることはもう決まってるよね?」
リリアはひどく大人びた、妖艶な笑みを浮かべている。
まるで恋愛映画の中のベッドシーンみたいだ。
どこまでが演技かがわからない。いや、演技であってくれ、と俺は思う。
「……や、やめろ。これ以上は、やりすぎだ」
「やりすぎ、か。でもユートだってわかったでしょ? ボク、夢が叶うんだったら、どんなことでも――」
考えが甘かった。
御伽乃リリアは、自らが芸能界で築き上げてきた地位を捨てさってでも、ひとつの夢を叶えようとするほどの異常者だ。そんなリリアなら、たしかに練習とはいえ、容易に一線を超えることも考えておかないといけなかった。
とはいえ。
今更逃げることはできない。
物理的にも。逃げることはできない。
身体が火照っている。頭の中がかき乱されている。
ふざけるな、と俺は思う。リリアはこれまで様々な経験を積み重ねてきた世界一のトップスターかもしれないが。俺はただの思春期男子高校生だ。それを忘れてもらっては困る。
そんな凡人たる俺が、こんなふうに絶対なる美貌を持つ御伽乃リリアから、ほとんど肌着に近いような格好で迫られれば――
どうしたって。
ふつうでは、いられなくなってしまう。
夢みたいな異常な状況に。
男の俺は。
リリアのことを。
どうしたって――
意識してしまう。
「――ユート」
「っ!」
ほとんど密着するようになったリリアが、俺の首元に鼻先を押し当ててきた。
声を出したくてもできない。今言葉を発したり、拒否しようとすこしでも身体を動かしたりすれば、リリアの〝いろんなところ〟に触れてしまいそうだった。
「ふんふん」
そしてリリアは、その鼻先を。
ひくひくと出会った初日みたいに動かした。
「うん。やっぱり好きだな、キミのにおい♡」
「っ……!」
「よいしょっと」
つづいてリリアは上半身を起こして、動けず仰向けになったままの俺の上にまたがった。
いわゆる馬乗りの状態だ。
「――70年」
「? ……なんの、数字だ?」
俺は喉から声を絞り出した。
リリアはこたえる。
「平均寿命までに残された時間だよ。――ボクはね、そんなかけがえのない時間の中で、みんなにボクのことを想う時間を増やしてもらいたかったんだ。そうしたらボク自身の肉体は、あと70年かそこらでなくなっちゃうかもしれないけど――みんなの記憶の中にボクのことが残れば、それだけボクという魂の寿命は延びたことになると思ってて。だからボクは、ボクがなくなっちゃったあとも、世界中のみんなの中で生き続けるために、芸能界に入ったんだ」
――人生は思ったよりも短くて。
リリアが転校してきた当日。
そんなふうに切り出した自己紹介を、俺は今でもよく覚えている。
「でもね――今は違うの」
「違う?」
リリアは表情だけで肯定して、
「今はね? ――キミに恋する御伽乃リリアはね。世界中のみんなじゃなくて――キミひとりだけでいい、なんて思ってるんだ。他の人の記憶の中でなんて生きなくてもいい。たったひとり。ボクの大好きなキミの中だけで、ボクの魂が残り続ければそれでいい。それで他のセカイがどうなっちゃったとしても、キミひとりの70年分が、ボクに捧げられたらどんなに幸せだろう。キミというたったひとに想われたらどんなに幸せだろう。キミが死ぬ瞬間まで。ううん、死んでからも永遠に――あは。今なら、ジュリエットの気持ちがよく分かるや」
そう言ってリリアは。
劇的に笑った。
――恋愛ってすごいよね。あなたのためなら死んでもいいやって思えるくらい、相手のことを好きになったりするんだもん。
いつかリリアが言った言葉を思い出す。
あの頃は分からなかったその気持ちが。
今ではよく分かるという。
実際にリリアの瞳からは――もはや正気の色が消え失せていた。
(だめだ、こいつ、完全に入りこんでやがる……!)
どこまでも異常な恋愛をする少女に。
築き上げてきた人生を捨ててまで、愛するひとりを選択する少女に。
ほかのすべてがなくなろうとも、たったひとりの魂を優先するという少女に。
そんな狂信的なカノジョの役柄に。
リリアは――
完全に入りこんでしまっていた。
とても演技とは、思えないくらいに。
「ねえ。だからキミも。もっと頭の中をボク一色にして――?」