3-14 ぜんぶ、わすれてください
「お願いです。リリアさんのことをこれ以上、好きにならないでください」
「なっ……」
俺は慌てて否定しようとする。が――それはできなかった。
なにしろ、霞音の病気を悪化させないためには、俺はあくまで『霞音の夢の中の俺』の振る舞いを、現実世界でもトレースする必要がある。
実際、これまでもそうしてきた。俺は霞音の夢の中と同じ――『霞音のことが大好きすぎる俺』を演じてきた。
しかし。
その前提が崩れてしまったとしたら?
霞音がみる『夢の中の俺』が。
――蝴蝶霞音よりも、御伽乃リリアに気持ちが揺れているとしたら?
俺はその夢の通りに。
霞音よりリリアに好意をもっている俺として。
霞音に接しなければならないことに。
ならないだろうか?
「あの子のことを、これ以上、好きにならないでください」と霞音は繰り返す。「ずるい、です」
「……ずるい?」
こくり。霞音はうなずく。
「あまりこのようなことを、恋敵に言いたくはありませんが……リリアさんはとても、素敵な方です。見た目はもちろん、とてもお美しいですし、たくさんの人を惹きつける魅力があります。才能があります。それを裏付けるだけの努力をされていることも、私には伝わってきます。それに……お料理だって、抜群にお上手です」
確かに。
高級食材を使っていたということは抜きにして、料理自体の技術も高いように思えた。
「カラオケだって……私の知らないせんぱいの好きな曲を、うたえます」
霞音は悔しそうにしながらつづける。
「それにくらべて、私は……私はっ……なにも、ないです」
「そ、そんなことはない!」
慌てて否定してやるも、霞音は首をふるばかりだった。
「私には、なにもありません。そんな私がリリアさんになど、勝てるわけがないのです。ですから……」
霞音は拳に力をいれて。
目をきゅうとつむって。
言った。
「きすを認めることにしたのですっ」
「なんでそうなるんだよ!?」
俺はすかさずつっこんだ。
「これ以上、せんぱいの気持ちをリリアさんにとられるわけにはいきません。せんぱいの気持ちを引き止めるには、これしかないのです……!」
「お、落ち着け、霞音……!」
一度は離れていた距離を、霞音はまた縮めてきた。
焦るようにして。迫られるようにして。霞音らしくない挙動で、俺のもとにぐいと近寄ってくる。
「……せんぱい、せんぱい……っ」
目の焦点が定まってない。薄暗くても分かる。顔どころか、全身が真っ赤だ。
「おい、霞音……のわっ!?」
ばたん。俺の上半身がベッドに倒される。
その勢いのままに、霞音が俺の上に覆いかぶさるような形になった。
「っ!」
霞音は一瞬目を見開くが……やがてこれが絶好の機会とばかりに、ごくりと喉をならして。
「霞音……? 冗談、だよな……?」
ベッドに倒れたまま動けないでいる俺の上で。
霞音は。霞音は。霞音は。
「うう……ひくっ」
涙を。こぼした。
「っ」
ぽたり。
俺の頬に雫が落ちる。
「かす、ね……?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……私、どうすれば良いのか分からなくて……」
声だけじゃない。霞音の身体もふるふると震えている。
髪の毛が顔の前に流れ、その瞳は見えないが……小さな涙だけが断続的にぽつぽつと落ちてくる。
そんな悲痛な様子をみても。
俺は。なにも。
答えることが。
できないのか。
「~~~っ……!」
歯がゆさで唇を噛み締めていると。
「…………せん、ぱい」
ふっと。
霞音の身体から力が抜けるのがわかった。
「っ……ごめん、なさい」
俺の顔は見ないようにして。
霞音はゆっくりと身体を起こすとベッドからおりた。
「すみません……たしかに、今日の私はへんだったかもしれません」
袖口で顔を拭ってから。
保健室の入り口の方へと向かうと、途中で立ち止まる。
「……ぜんぶ、わすれて、ください」
ぽつりと霞音は言って。
ふたたび歩き始めた矢先、途中でふらふらと力なく床に崩れ落ちた。
「霞音っ!?」
慌てて駆け寄ろうとするが、霞音に制される。
「だ、だいじょうぶですっ……気に、なさらないでください」
そう言ってゆっくりと、時間をかけて立ち上がったあと。
霞音は『ふうう』と長い息を吐いて。
いまだおぼつかない足取りで、扉から去っていった。
からから。ばたん。木製のドアが閉まる。
薬品の匂いがほのかに染み付いた薄暗い部屋の中に、俺はたったひとり、取り残される。
「……くっ」
拳で太ももを思い切り叩く。鈍い痛みがあるが、それは何の解決にも繋がらない。
頭をかきむしる。チャイムがなった。あと5分で昼休みは終わる。
しかし。俺の中でくすぶる想いは。葛藤は。異常は。
決して終わることなく、底なし沼みたいに青黒い夏の空の下で現実的につづいていく。
たぶん。これからも。
「俺はこの夢みたいな現実を、どう生きればいいんだ……」
そんなつぶやきは、だれの耳に届くこともなく、夏の校舎の音にかき消された。




