3-7 霞音ちゃんも芸能界(こっち)に来てみない?
「霞音……お前、本当にリリアの神歌唱のあとに歌うのか……?」
「はい。せっかくの機会ですので」
言いながらも頭上の毛はどこか嬉々として揺れている。
カラオケは霞音ははじめてだと言っていたが……そんなに自信があるのか?
ほどなく画面に曲名が映し出された。
今流行っている深夜アニメの曲だ。良い曲だが、歌うのにはかなり難易度が高い気がしたが……。
「あ! 霞音ちゃんアニソン歌うんだ? ボクこの曲好きー♡」
リリアが机の隅に置かれていたタンバリンを手にとって、目をきらめかせる。
(おいおい、大丈夫か? しかし表情をみるに、あのリリアの歌唱をきいたあとでもひとつも気後れしていないようにみえる……まさか、霞音のやつ)
言われてみれば、俺は霞音の歌声をきいたことがないのだ。
蓋を開けてみれば心配など無用で、リリアにも見劣りしないほどに上手いという可能性もある。
ゆっくりとマイクを手に立ち上がった霞音のことをみると、表情も『むふう』と自信に満ちあふれている。
(こいつはもしかすると、もしかするかもしれないな……!)
俺は期待を込めて固唾をのむ。
前奏が終わって、最初の歌詞が表示された。
霞音が短く息を吸う。
まるで世界が止まったようだった。
刹那の静寂の後に。
音は。声は。
霞音の唇から――零れた。
『~~~♪ ~~~~♪』
「っ!」
『~~~♪ ~~~~♪』
「……っ」
『~~~♪ ~~~~♪』
「っ! っ!」
俺はたまらず息をのみ固まった。
なんてことはない。
霞音の歌は下手だった。
無理に原曲に合わせようとしているのか、喉から絞り出したような声で、聞いていてひどく不安な感情をかきたてる。
(う……まったく聞いていられないというほどじゃないが……やはりさっきのリリアと比べると、落差がものすごいな……ん?)
感想をどう伝えたものかと今から困惑していたら、そのリリアがタンバリンを机の上に戻し、すっと立ち上がった。
1番が終わって間奏が流れだす。
霞音はといえば『むふう』と得意げな顔をして俺の方にちらちらと目線を向けてくる。『どうでしょう。私の美声は。リリアさんにも劣っていないでしょう?』とでも言いたげだ。残念ながら劣っているぞ。
そんな霞音に向かってリリアが近づいていく。
頭の上に『?』マークを浮かべる霞音に向かって。
リリアはごく自然な流れで――
後ろからぎゅうと抱きついた。
「ふあっ!? な、なにをするのですかっ」
悲鳴がマイクで拡張され、ハウリングが起こった。
リリアは気にせず白い腕を前にまわし、霞音の身体をまさぐりはじめる。
「やっ、ひゃっ――、な、なにをっ、やめてくだ、しゃいっ!?」
「おいおい、何をしてるんだ!?」
眼の前で繰り広げられる禁断たる百合色の楽園の光景(いささか思春期男子には刺激が激しすぎる)を俺は止めようとするが。
「しっ。しずかにしてて」
リリアは俺と霞音の両方を制するように言ったあと、霞音の腹や背中、喉――果ては胸にまで白い手をむにむにとした動きですべらせていく。そのたびに『んっ』『にゃっ』『やっ』などと、ふだんの霞音からは想像できない赤裸々な声があがっていて、俺はたまらず目を背けた。(耳は塞いでいないことがポイントだ)
「声」とリリアがふと言った。
「え?」
「だしてみて」
おそるおそる、と言った様子で霞音が発声する。
「あーーーーー」
「うん。いいね。そのまま」
リリアは背中から腕をまわしたまま身体の傾きを固定するようにしたあと、『ここに力いれて』『その角度でキープ』『こっちはもうちょいリラックス』などといくつかの指示を出していった。
最初は辛そうにして拒否すつ素振りも見せていた霞音だったが、途中からはその指示を素直に聞き入れていく。
結果として。
「あーーーーー……あ。……! なんだか、良い感じかもしれません……!」
「うんうん。全体的に余計なところに力が入りすぎてたんだ。そのイイカンジのまま、歌ってみて」
画面に目を戻すと、2番のサビが始まるところだった。
霞音はリリアに後ろから抱きしめられた状態のまま歌いはじめる。
『~~~~~~~♪』
「っ!」
俺はふたたび絶句した。
今度は。下手だったからなんかじゃない。
――霞音の歌が、格段に良くなっていたからだ。
霞音も信じられないように目を広げながら歌っている。
その声をきいて安心したようにリリアが身体を離す。
霞音は視線をちらちらとリリアの方に向ける。
リリアは親指を立てて微笑んだ。
「うんうん、やっぱりリリアの耳に狂いはなかったみたい。とってもイイカンジ♡」
もちろん世界の歌姫と比べたら若干の素人っぽさは残るが――逆にいえば、あのリリアの歌声とも比較可能なレベルにまで、霞音の歌は改善――否、進化していた。この短期間で。それはもちろん、リリアによる〝肉体さわさわ直接指導(※思春期男子立ち入り禁止)〟によるものであるのは明白だった。
「わー、めっちゃよかったよー♡」
曲を最後まで歌いきり、ぱちぱちとリリアが拍手をした。
「信じられません。最初と違って、声をとてもスムーズに出すことができました――せんぱい? その、いかがでしたしょうか」
「あ……ああ。うまかった。すごく」と俺は正直に答えた。「すごく良かった」
「そう、ですか」
霞音は小さくつぶやいてから口角をほのかに緩め、頬を上気させた。
「それでしたら、満足ですっ」
霞音が浮かべた微笑みに、俺の胸がとくんと高鳴った。
「お、おう。ま、俺は何もしていない。ただ聞いていただけだ」
俺は視線でリリアのことを指し示す。
霞音は気づいて、あらためてリリアの方に身体を向けて、
「あ、あのっ……ありがとう、ございました」
ぺこり。
頭を下げた。
「あは。いいのいいの。最初に歌声聴いたときにボク思ったんだ。この子、磨けば光るーって! どう? 霞音ちゃんも芸能界に来てみない?」
「そ、それはっ……結構、です」
「そう? 霞音ちゃんの見た目で歌もできるってなったら、どこの事務所も放っておかないと思うけど」
「……興味がありませんので」と霞音は繰り返す。
まさしく。霞音ほどの美貌だ。
ふだんから街を歩けば業界へのスカウトは絶えないが(実際、俺も話しかけられる現場に居合わせたことが幾度とある)……やはり〝すべておことわり〟の態度はかたくならしい。
「ふうん、そっか。もったいない――ま、でもいっか。ライバルが減ることになるし♡」
その発言はつまり『絶対偶像の御伽乃リリアの立場を危うくさせる可能性があると認められた』ということにもなる。おいおい。それってとんでもないことだよな……? 霞音はその自覚があるのか?
「あーでもよかった。安心したよー。はじめて霞音ちゃんからお礼の言葉を聞けたし」とリリアはいたずらっぽく笑ってつづけた。
「そ、それと〝せんぱいのこと〟とは話が別ですからね? せんぱいの彼女は、あくまで私なのですから」
「あれ? 別にボクはユートのことはなにも言ってないけど」
「っ! リリアさんが恋敵とおっしゃったのではないですか……!」
「ユートのことが大好きだから、譲るつもりはないってこと?」
「当然ですっ! ――で、ではなくて」霞音はそこで俺の方をちらりと見て、「せんぱいが譲るつもりはないと仰っています。そうですよね、せんぱいっ」
「ん? ああ、そうだ……なっ!?」
どう答えたものかと曖昧に濁していると、目の前にカラオケのデンモクをつきつけられた。リリアだ。
「はい♡ つぎはユートの番だよ?」
「な。俺も、歌うのか……?」
こくこく、とリリアはうなずく。「当然でしょ?」
霞音はまだ納得いかなさそうにしていたが、やがて首を振って賑やかしのマラカスを手に取った。どうやら霞音も俺の歌を期待しているらしい。
「ちょっと待て! 俺はふたりのあとに歌う勇気はとても――」
「いいからいいからー♡」
リリアに押し切られるようにして、渋々タッチパネルで曲を探し始める。
ふむ。しかし何を歌えばいいものか……いっそのこと童謡でも入れてネタに走るか? どうせあのふたりのあとだ。芸能界からは程遠い平々凡々たる俺が何を歌っても、白けた空気になってしまうだろう。
「……お」
適当に『ヒットソング特集』のページをスクロールしていたら、最近どこかで耳にした曲を見つけた。古めの曲(俺たちが生まれるよりもずっと前だ)ではあるが、以前にこのあたりのジャンルにハマって聴いていたことがある。俺はやれやれと首をふってから、どうにもでもなれとその曲をタップした。
「わ! ボクの着信音!」
まさしく。
入れた曲は『Change The World』――リリアが着信音に設定していた、ギターの神様とされるクラプトンがアコースティカルに奏でる洋楽の名盤だ。
「え? ユートが歌うの? てゆうか、歌えるの!?」
リリアは期待の混じった驚きをあげた。
霞音はといえば曲にぴんときていないらしく、目を不安げに細めている。
「お前たちに比べたら、きっと月とスッポンだろうがな」
なにもこれで死ぬわけじゃない。
俺はため息を吐いて批判を覚悟し、歌い出す。
「ま。お手柔らかに頼む」




