1-13 霞音ちゃんは好きな人はできたかしら?
「あ、せんぱい」
家庭教師のために訪れた蝴蝶家の前。
ドアをくぐろうとしたところで霞音が言った。
「ん?」
「私とせんぱいの関係性ですが――姉さんには秘密にしておきましょう」
関係性、というのはもちろん〝カレシカノジョ〟のことだ。
俺と霞音が(疑似の)恋愛をすることになってから、家庭教師は初だった。
姉妹とはいえ色恋沙汰は守秘的にしておきたいのだろうか。
(しかし、絵空さんに秘密もなにもな……)
当の絵空さんにはすでにばっちり知られていたが――
「ああ、分かった。善処するよ」
俺は極めて協力的なカレシを装って答えてやった。
♡ ♡ ♡
「ふたりとも、おかえりなさい」
リビングにいた絵空さんが俺たちのことを迎えてくれた。
「あらあら。でも〝ふたりで〟なんて珍しいわね」
「……あ」
霞音は『しまった』というように目を広げた。
「た、たまたまです。家の前で会っただけで、一緒に帰ったりなどしていません」
「あら? 別にあたしはふたりが『一緒に帰ってきた』だなんて一言も言っていないのだけれど」
「……あ」
と霞音はまた『しまった』と目を広げた。
焦っているのが見て取れて、視線はふるふると揺れている。
おいおい。初手からすでにボロが出まくりじゃないか? と俺は不安になる。
こんなことで無事に隠し通せるのだろうか。
「と、とにかく。せんぱいとは特にまったくちっともなんでもありませんから」
しかし、つづく言葉も強調しすぎて逆に怪しい感じになっていて、完全に先が思いやられた。
♡ ♡ ♡
ローテーブルに向き合って俺と霞音。その真ん中に絵空さんが座って、俺たちの勉強をみてくれていた。科目は数学だ。
そこそこに時間も経ったところで、ふと絵空さんが言った。
「ところで霞音ちゃんは――〝好きな人〟はできたかしら?」
ぶふう、と俺はちょうど飲みかけていたお茶を吹き出した。
「な、な、な――! 姉さん、急に何を言いだすのですか……!」
みると霞音は顔をトマトみたいに真っ赤に染めていた。
「ほら。霞音ちゃんっていつもこういう話題になっても、はぐらかしてくるじゃない? そろそろ〝良い人〟できたかしらと思って」
絵空さんはちらりと俺の方を見てきた。
その視線に含まれた色で俺は気づいた。この人、間違いなく確信犯だ。
絵空さんは霞音の反応を楽しむようにつづける。
「どう? 今は、好きな人」
霞音は一瞬困ったように俺の方を見た。
やがて震えていた唇をきゅっと結ぶと、こくりと喉を鳴らして答えた。
「……いません」
「あら、そうなの?」
と絵空さんがとぼけた声で言った。
「はい。わ、私は、そういう方は、とくに」
霞音は視線を自分の膝元に深く落として言った。
「ふうん、そうなのね」
絵空さんはいつもの優雅な笑みのなかに微かな〝悪戯さ〟をたたえて、今度は俺に視線を向けてきた。
「それじゃあ――ユウくんはどうかしら?」
「え?」
「好きな人。いるの?」
「な……!」
おいおい。俺にも言わせる気か?
てっきり絵空さんは、俺に対しては味方だと思っていたのに……。
霞音に目をやると、彼女は明らかに落ち着きを無くしてそわそわとしていた。
「ねえ、ユウくん。どうなのかしら?」
ぐい、と絵空さんが机に乗り出すようにしてきた。
もはや詰問からは逃れられそうにない。
「ん……い、いない、です」
俺はぎゅっと目をつむって、苦心の末に答えた。
「へえ。ということは、ユウくんは今だれのことも好きじゃないのね」
絵空さんはわざとらしく繰りかえす。
おそるおそる目を開けて、霞音の様子をうかがうと――
「…………っ」
霞音はふるふると身体を震わせて、この世の終わりが来たかのように寂しそうな表情を浮かべていた。
「な……!?」
まさかとは思うがこいつ――
俺が『好きな人はいない』と答えたことでショックを受けて凹んでるっていうのか……?
そんなものは誤魔化すための演技で今だけの嘘だ。まともに受け取るな!
などとも思ったが、霞音の全身からはどんどん生気が抜けている。
「え、絵空さん! すみません。……嘘、です」
そのまま灰になって消えてしまいそうな霞音の様子に、俺は耐えきれなくなって前言を撤回した。
「います。本当は――好きなひと」
そこまで言って霞音のことをみると。
今度は顔を真紅に染め、嬉しそうに微かに頬を緩ませていた。
おいおい。こいつ、どこまでわかりやすいんだ……。
「あら! ユウくんはやっぱり〝好きなひと〟がいるのね! それだったら他にもききたいことはたくさんあるわ。ええと――」
絵空さんが両方の掌を顔の前で合わせて、何やら考えはじめた。
これ以上絵空さんを放っておくと何を言われるか分からなかったので、俺は一時停戦に持ち込むことにした。
「あ、あの!」
「うん? どうしたの? ユウくん」
「……問題、終わりました」
ずい、とノートを絵空さんに向けて見せて霞音に視線を向ける。
「霞音はどうだ? お、もう終わってるじゃないか」
「え? ……は、はいっ」と霞音も慌ててノートを差し出す。
「あら、そうだったのね」
絵空さんは俺たちのノートを見比べて、しばらくしてから言った。
「うん。ふたりともばっちりね。それじゃ解説はあとにして、しばらく休憩にしましょうか」
ふう、と俺は安堵の息を吐く。
これでひとまずは絵空さんの詰問から逃れることができるだろう。
「それじゃあ、あたしはおやつの用意をしてくるわね」
「あ、でしたら私もこーひーを」
霞音がつづくように立ち上がった。
絵空さんはそれを制して、
「いいのいいの。たまにはあたしにも淹れさせて? だからふたりは、お部屋で待っていてちょうだい。ね?」
絵空さんは意味深に微笑んで、俺にウインクを飛ばしてきた。
そのあと部屋の扉を開けて、鼻歌を歌いながらキッチンの方へと去っていく。
「「…………」」
残された俺と霞音の間に、妙な気まずい沈黙がおりる。
「あ、あの」と霞音が最初に口を開いた。「すみません。なんだか妙なことになってしまい」
「いや、問題ないさ」
本当は問題大アリだったけどな。
まったく。絵空さん、あとで覚えていてくださいよ。
「ですが、姉さんにはうまくごまかすことができましたね」
霞音が得意げに言った。
どこがだよ、と俺は思った。
「とにかくも。色々と非常事態はありましたが、」
霞音は『こほん』と仕切り直すように咳をしてつづける。
「せんぱいは、いたんですね――好きなひと」
「ん……ああ。そうだな」
「それは一体ぜんたい、どなたなのでしょうね」
霞音はぴこぴこと頭上の毛を揺らしながら、得意げな微笑みを浮かべている。
「……ったく。分かってるくせに」
俺は〝霞音のカレシ〟として不足ないよう、そんな風に答えた。
「ふふん――あ、そういえばなのですが」
霞音が壁のカレンダーを見ながら思い出したように言った。
「週末の件は、せんぱいにお任せしてもよろしいのでしょうか?」
「ん? ……週末?」
俺は急に出てきた身に覚えのない約束に眉をひそめる。
「はい。せんぱいが『どうしても』と誘ってきたのではありませんか」
おそらくそれは夢の中の俺だ、とは突っ込まなかった。
「あー。もしかするとつまり、週末の約束というのは――逢い引き、というやつか?」
「それ以外になにがあるのですか」
霞音はすこし不満げに唇をゆがめた。
が、そのあとすぐにいつもの得意げな表情にもどして、俺の顔を下から覗くようにして言った。
「はじめてのお出かけデートです――私のことをきちんとエスコートしてくださいね。せんぱい」
ふむ。
どうやらこの週末には、俺の人生でハジメテにして最大級のイベントが待ち受けているらしい。