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こちら子ども電話相談室  作者: 新宮義騎
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二 どうしてこうなった ③

「ここに真壁と広瀬の名前が書いてあるけど、単独行動はしない。相談室のどちらか一人と、他課からのもう一人のふたり一組で動く。土日に重点を置いて、ひとまず全部の曜日に回れるようにしておいた。もちろんこれは一月の予定だ。捕まらなければ二月も続けて巡回を行う。ただし合間を見てこれ以外の調査、いや捜査もしようかと考えている」

 月曜から日曜まで、全て当たってみるという考えは順当だ。そこで得た情報をもとに、別の方法を探るなり予定を組む方針も至極まっとうに思える。僕がずっと黙りこむ真壁と一緒に計画表を眺めていると、室長が別の資料を見せてきた。

「次は、巡回の具体的な手順だ。当番の職員ふたりは夜の九時半までに市役所へ行く。寒さが予想されるため私服も可とする。使用する公用車はうちの課が管理する、市のロゴがついていない方の軽のライトバンだ。管財課にドライブレコーダーを借りておいたから後で付けておいてくれ。持っていくのは双眼鏡に護身用のさすまたと、記録撮影に使う静止画像用のカメラ、それから動画用のビデオ。両方とも新しいデジタル形式だから使い方は分かるだろう。これらは全部、鍵と一緒に守衛室で預かってもらうようにする。現場ちかくまで行ったら路肩に公用車を停めてひたすらお地蔵さまを監視して、必要があれば公用車から降りて辺りの状況を確認したり写真や動画を撮影する。休憩は一人につき一時間。お地蔵さまにイタズラをしている犯人と遭遇したら、可能なら二人がかりで現行犯逮捕」

「逮捕ですか? 警察官でもないのに?」

 そこで僕は驚いて口を挟んだ。ただの市職員が、勝手に逮捕などしてよいものだろうか。

「広瀬は馴染みがなくて当然だ。真壁の方はもと法務課……と言っても、普通こんなのに触れる機会はないな。痴漢やひき逃げ、万引きやスリを一般人が捕まえるのと同じだ」

 室長は、僕たちに一枚の紙を渡してきた。どうやら六法全書か何かのコピーらしい。そこには次のようにある。


刑事訴訟法 第二一三条 現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる。


 言われてみれば、入庁試験のため勉強した刑法にこういう条文があった気がする。それに警察官以外の一般人が犯罪を阻止する光景は、たまにテレビなどでも取りあげられるではないか。僕も真壁も納得した様子を確かめると、室長は話を続ける。

「無理なら一部始終を動画に残すなり追跡しながら警察に通報する。異常がなければ六時には市役所に帰って、簡単な記録を書いて鍵と道具一式を守衛室に預ける。それから病気で急に巡回に出られなくなった時は、まず俺に連絡してくれ。俺から肝月課長、立川部長、教育長に報告がいく。他課からの応援職員が交代するときは所属長から肝月課長に電話することになる。だいたいこんなところだ。詳しくはここに書いてあるから、後でよく読んどいてくれ」

 起案者だからと言えばそれまでだが、細部を詰めたうえでこうまで噛みくだいて説明のできる室長を改めて尊敬する。しかも他課との調整をしながら数日のうちにこれを練りあげるとは、僕たちとは比較にならない事務能力の持ち主だ。

 同時に僕たちが戦力に数えられないだけに、本来なら係員が当たるべき仕事を代行した面もあるだろうと思うと申し訳ない気持ちになり、かつ上司にここまでさせたうえ課内どころか部内を挙げての対応まで決定しているからにはもう逃げ場がないことを覚る。心情的には諦めをつけつつ、僕が小さく首を縦に振る間にもさらに話は続いた。

「あとこの件は巴小を移転する、しないの単純な話では終わらない。改築場所が決まらなければ予算案が通らない。当初の予算案が通らなければ修正予算案提出、それも否決された場合は最悪、暫定予算での対応になる。教育部内、特に教育総務課と学校経理課は混乱するし、児童の学校生活にも支障が出る。そういった事態を避けられるかどうかは相談室のはたらきにかかっている。今回の問い合わせ、というより仕事は、巴小の改築を現在地で行うことについて議会の賛成を得るのが最終目的と考えてほしい。だがこうして会議室を借りて話をするのは、事件を解決できるか否かが俺たちの今後を左右することでもあるからなんだ。二人にはその点を踏まえて真剣に業務に取りくんでもらいたい」

 今の業務があまりに楽なのは承知している。事実上の期限を過ぎたとしても、少なくとも年度一杯の三月まではこれまである種の得をしていた分の埋めあわせに奔走するつもりだ。そもそも与えられた職務に専念するのは公務員の義務である。ただ業務の内容からして、期待に添う結果が出せるかどうかは保証の限りでない。にも関わらず要望を満たせなかった場合はどうなるというのか。あれだけ明快に説明をつづけてきた室長が、急に要点をぼやかすのに言いしれぬ不安が募る。詳細を問いたださずにはいられない。

「どういうことですか?」

「はじめに断っておくが、今から言うのは俺の考えでは断じてない。あくまで立川部長からのお言葉だ。だから注意して聞いてほしい。『もし事件が解決できなかったら、俺と広瀬、真壁の三人はあの課に異動させる。ちなみにこれは独り言だから聞きながしてくれ』と。会議が終わって教育長や他の課長たちが散会した後、肝月課長の前で呟いたんだそうだ」

 室長は曖昧にあの課としか発言していない。しかしそれだけでいかに深刻な事態か嫌でも理解させられる。公務員といわず大方の社会人にはご同意いただけると思うが、ある程度の規模の組織には楽な部署とそうでない部署が発生する。特に後者は比較的健全な組織であっても、かなり厳しい労働環境を強いられる。傍から見れば楽そうな官公庁といえど例外ではなく、極端に業務量が多かったり、拘束時間が長かったり、強いストレスを頻繁に受けるポストがあるのだ。

 火床市役所におけるそのポストとは、すなわち生活保護を担当する生活支援課である。むろん生活保護とは国家による最後のセーフティネットであり、やむにやまれぬ事情で利用されている方が大半のはずで、僕も入庁試験に失敗していればお世話になる機会があったかも知れない大事な制度だ。しかし一方でロクデナシや反社会的勢力に近い連中のみならず時には腐乱死体ともご対面しなければならない、臭い、汚い、きついの三拍子が揃った庁内でも誰もが行きたくない部署ぶっちぎりナンバーワンの地位を占めているのもまた事実なのである。それだけにこの部長の発言は、ほとんど最大級の脅威を備えていた。

 僕は実質的に療養休暇を取ったおかげで、たしかにお世辞にも花形とは言いがたい相談室に異動させられた。真壁にしても似たような境遇だろう。とはいえ不利益一辺倒でないのは既に述べたとおりで、一応は実利を得ている。人事課が事情を最大限に配慮し、名誉を損なう代わりにある種の救済措置を図ってくれた面があった。だが生活支援課となれば話は別である。心身ともに現在とは比較にならない負担を強いられるのは確実だった。今度こそ形だけでは済まされない、実害を伴った懲罰人事が下されることになる。

「二人もいい意見があったら出してくれ。俺もあそこへなんか異動させられたくない」

 懲罰人事の対象には室長も含まれている。目の下にはうっすらと隈が刻まれていた。いくら繁忙期でも、巡回計画を立てるのに各所を奔走しただけでこうはならない。順調に昇進してきただけに、僕たちのような落ちこぼれとはまた別のプレッシャーがあるのだ。

「分かりました」

 それを察して返事をすると、室長は大きく息をつく。

「もしこれが板垣議員ひとりの希望だったら、どうにか断る方法もあったかも知れないよ。でも巴小を現在地で改築するのは、市長の意向でもあるんだ。それを指摘されては拒む理由がない」

 巴小学校の件は、市長の公約でもある。言いかえれば行政のトップが掲げる最優先事項であり、それを盾に要求を突きつけられたら逆らえるはずなどない。はじめから選択肢など残されていなかったのだ。そしてこうまでして事件解決に拘ること自体が市長と議会、議員間の対立がいかに激しいかを雄弁に物語っている。

「頼む。何とか事件解決に尽力してくれ。その代わり、今まで頼んでいた余所のところの手伝いはストップだ。ただ、それでも体力的にきつくなるだろう。どうしても無理な場合は相談してくれ。厳しいなら俺が巡回のローテーションに入る」

 室長はそこまで言うと、手元のバインダー一式を抱えあげて立ちがる。

「さあ、本格的に業務に取りかかるのは来週からだから、今日はここまで。本当はもっと早く話をしたかったんだが、調整に手間取ってしまってね。明日はうちの課がメインの成人式がある。二人とも手伝いが入ってるけど、最低限の仕事を終えたら早く帰って十分な休息をとってほしい。俺はこれから課長とその成人式の打ち合わせだ。何せ毎年のように盗撮犯が出るんでね。しかも身内から。それが終わったら俺もさっさと退散するよ」

 そして僕たちの方を振りかえりもせずに部屋を出ていく。足どりは鈍く、肩は落ち、背も垂れ加減で、すでに心身とも疲弊している様子が見てとれる。扉が閉まり、足音も聞こえなくなったあとで、それまで口を噤んでいた真壁が拳を机に叩きつけて腰をあげた。

「これだから役所はクソだ」

 そう言いたくなる気持ちは分かる。もしかすると、今の今まで感情をコントロールするので精一杯だったのかも知れない。行政機関はその性質と法令、財政等の都合上、人員がほぼ最低限度に抑えられており、正職員に関しては年度の途中で数を増減させるのはよほどの事がない限り不可能である。したがって急遽、新たに業務が発生した以上は職員ひとり当たりの負担が増えるのも致し方ない。

「そう、市議会でどんなに紛糾したって、ちゃんとした市民の声なら僕も納得できる」

 その場合は、少なくとも年度末までは忍耐を甘受する覚悟はある。さすがの僕もそれすら放棄するまで腐ってはいない。もっとも、正当な理由があればの但し書きつきだが。

「だがこれは話が違う。政治家連中が血眼になっている状況からして、内実は企業の誘致が絡んでいる可能性がきわめて高い」

 真壁の言うように、利権あらそいで多忙を強いられるのは理不尽にもほどがある。このような形で仕事を押しつけられてはなおさらだ。僕も倣って声に力を込めざるを得ない。

「その通り。いち議員の鶴の一声で夜の巡回をさせられる。これこそお役所の典型だ!」

 お役所というのは国にしろ県にしろむろん市にしろ、議員の声に振りまわされる組織である。もちろん議員が行政機関と仲良しである必要はなく、役割上、行政を監視し牽制する立場にあるから意見の対立はあって然るべきだ。とはいえ権限の行使はあらかじめ法的に定められた手段によってなされるべきであり、ずかずかと事務室に踏みこんで会議の結果をねじ曲げるのは権力の濫用以外の何ものでもない。しかし実際のところ、議員による正当な手続きを経ない行政への介入は当たり前のように行われている。政治家や報道機関はしばしば官僚主導を非難するが、とんでもない話だ。空想に基づく虚構と断じてもよかろう。現場ではこのように立派な政治主導が実現されている。

「それにしても最悪なのは立川部長だ。噂どおりと言うべきか」

 真壁の呟きも、もっともだった。相談室に配属されて以来、何を考えているかいまいちよく分からなかったが、この状況になってようやく心情を共感できるようになった。

「最終的に誰が板垣議員の要求を容れたかは知らないけど、そうみたいだね」

「初っぱなから部下の尻を叩くような真似をするとは聞きに勝る大した人格の持ち主だ。俺が想像するに、代わりに議員の尻の穴でも舐めるがごとくご機嫌取りに奔り、あのごり押しに追従する形で懲罰人事を思いついたに違いない」

 部長職ともなれば僕たちが相談室に配属された経緯は把握しているはずだ。そのうえで証拠が残らぬよう、独り言という体裁をとりながら脅しをかけたのである。ただ、そうは言ったところで板垣議員との詳細なやりとりを今さら誰に確認しようと無意味だった。決まった話は覆しようがない。ひとおり憤ると、今度は自戒の念が押しよせてきた。省みればよその課が人員削減の煽りを受け苦しみに喘ぐ一方、僕たちは相談室で九か月ものあいだあまりに楽をしてきた。それでいながら残り三か月で仕事を押しつけられたからといって、いつまでも拒否反応を示すのはいかがなものか。時代錯誤な古きよき公務員生活にどっぷり浸かりすぎたような気もする。

「でも、ひとまずは室長の指示に従うしかないんじゃないかな」

 僕がぼそりと呟くと、真壁も諦めたらしく大きく頷く。深夜の巡回は計画を室長が一手に引きうけ、あとは決裁を待つのみで実施がほぼ決定している。

「まあ、そもそもこの件は、事態が複雑化した段階で大事な情報は室長の口から聞かされるようになっていたからな」

 この体制は来週以降も同じだろう。つまりは今後も、重要事項の決定権は室長に委ねられると見てよい。誰が頭脳となるべきかは、肝月課長が誰よりも分かっているはずだ。

「そうだよ。それに、室長ならいいアイディアを出してくれるだろうし」

 また市政を揺るがすほどの困難事案を任される職員は、元から相談室には配属されない。並以下の評定を下されている人間が下手に動くと面倒な事態になる。仮に僕たちが何かを考えついたとしても採用される確率はきわめて低いだろう、そんな風に半ば気休めを口にしてみたのだが、真壁は今度は首を縦に振らない。

「だが、これは普通の業務とは違う。果たして何とかなるだろうか」

 もちろん事件を解決できるかどうかは未知数なのだが、心配ばかりして何になるというのか。気休めに同意くらいしてくれてもいいはずだ。僕が溜め息をつく間にも、真壁は重い腰をあげて廊下の方へと歩いていき扉を開ける。

 僕も置いていかれまいと追うように部屋を出た。ともかくこうして僕と真壁の、お地蔵さまを亀甲縛りにした犯人を捕まえる日々がはじまった。仕事はいつ終わるとも知れない。事実上の期限が三月の質問通告締切までだとすると、二か月もある。悩むばかりでは気力が続かなかろうと、二人して階段を降りる途中に後ろから声をかけた。

「今の話は来週からでもじっくり考えようよ。今日はもう帰ろう」

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