二 どうしてこうなった ①
「けっこう量があるな」
冬コミで十分な収穫を得、大変に満足な気分で過ごした正月三が日も明けた御用始めの午後、僕は結構な数のハガキと封筒を机の上に置いた。いずれも五階の教育部で仕分けされた郵便物である。輪ゴムで束ねられていたそれらをばらけさせ、半分ほどを押しやると対面に座る真壁が面倒くさそうに手に取った。
「なあ、教育部ってこんなに年賀状多いのか?」
ぱっと見、全部で四十通ほどある。業者などを相手にしていない割に量があるのはたしかだ。教育部が今年度はじめての僕も疑問だったが、答えはすでに聞かされている。
「外部とのつきあいがけっこう多いから、これくらい来るみたいだよ。それにここへの手紙は、ほとんどお礼を兼ねた年賀状なんだって。去年がそうだったから、今年も同じだろうって室長が言ってた」
「で、俺はこれを見ればいいのか?」
「うん。僕も確認するからさっさと片付けようよ」
輪ゴムを外し真壁と二人して郵便物に目を通してみると、なるほどほとんどが年賀状でありながら、差出人全てが昨年中にここへ問い合わせをした方ばかりでないのが分かる。
「真壁、これ見てみてよ。『一昨年はお世話になりました』なんて書いてある」
どおりで四十通もあるわけだ。お礼にしても多いとは思っていた。この様子では、さらに前の年に何らかのやりとりをした相手からのものもありそうだ。僕が指をさして示してみせると、真壁は馬鹿にした調子で一瞥するやすぐに机の上に放りなげた。
「年賀状なんて悪習はやめるべきだな。単なる惰性で出しているんだろうが、貰ったら返さなければいけないのが面倒だ。まったくもって資源の無駄としか言えない。環境への配慮が叫ばれていったい何年経つと思っているのか」
真壁からの年賀状はまだ僕の家に届いていないから、おそらくこれから返してくれるのだと期待したい。それにしても書いてきた相手にしか年賀状を出さず、中学生並みの屁理屈を捏ねるとは本当に公称どおりの学歴の持ち主なのか疑いたくなる。もっとも年明け早々でやる気が起きないのは分かる。御用始めから全力を出す職員は少数派で、本格的に仕事に取りかかるのはだいたい翌日からだ。そもそも忙しい部署ならともかく、ここ相談室では業務を消化するのに気を入れる必要がない。
「いいじゃないか。ここに来たやつは別に返す必要もないんだし、保管だけしとけばいいみたいだよ。お年寄りは、どうしてもたくさん年賀状を出すからね。民間だったら仕事上の取引先なんかには自動的に発送するのがマナーになってるんじゃないかなあ。退職しても、癖で染みついちゃっている人が多いのかも」
「困ったことに、相談室へ質問してくるのはほとんどがそのお年寄りだ。誰かが悪習を断ちきらないといけない。それに退職したんだったら、もっと有意義に時間と労力を費やしていただきたいものだね。人生は有限なんだ」
「ぼやいたところで無駄だよ。来ちゃったものは仕方ない。だいたい苦情や嫌がらせの手紙じゃないんだから、贅沢いうなよ」
年明けはこれくらいの単純作業がちょうどいい。はっきり言って問い合わせに回答する作業もかなり単純なのだが、それすら煩雑に感じるほど休みボケが覚めやらないのも事実だ。まだ仕事の頭に切りかわっておらず、つい無駄なところへ目が行ってしまう。
「これ、『教育長さんによろしく』だって。知り合いかな?」
「どうだろうね。教育部だから教育長の名前を出しただけかも知れない。地方は狭い世界だから、本当に知りあいの可能性もあるけれど」
「それにしても『よろしく』なんて書かれちゃって、本当によろしくやってたりして」
「どういう意味だ?」
本当に僕の頭はコミケに行ったきり戻っていないらしい。あの会場では実に様々な商品が並んでいる。中には同性の政治家同士の絡みが描かれた、常軌を逸した内容の同人誌が販売されており、しかもモデルとなった政治家が公認するのみならず本人が執筆した商品すらあるのだ。したがって、僕が次のように漏らすのを単純に責めることはできまい。
「だから教育長が市長室へ新年の挨拶に行ったところで、そのままあられもない姿に……」
というのも市長と大山信雄教育長は、現実に交際しているからだ。六十三歳の市長は離婚したのち長らく独身であり、六十六歳の教育長も妻に先立たれこれまた独身。順序としては教育長がまず前市長から任命を受け、その後に現市長が当選し二人が出会う運びとなった。噂では半年ほど前から急に親しくなったのだという。ひと昔前なら老いらくの恋と冷やかされただろうが、高齢化が進む現代ではごく普通の現象だ。互いに公職の身にあり、また地方では珍しいためか交際宣言まではされていないにせよ、ここ火床市と関わりのある者なら誰もが知る公然の秘密となっていた。とはいえ許される妄想とそうでない妄想がある。市長と教育長のそういった場面はおそらく後者だろう。真壁から軽く窘められる。
「広瀬くん、この相談室に下品な男は不要だ」
この堅物にもサブカルチャーの一般教養があると見え、どこかのSFアニメで聞きおぼえのあるフレーズを口にした。いつの間にか手元に残った最後の一通の郵便物を手にしながら、元となった作品を知っているか否か訊いてみようとした矢先、とんでもないものが目に飛びこんできた。年賀状を兼ねてのハガキではなく、丁寧に封筒に入れられた問い合わせの手紙である。しかも通常、ここ相談室に寄せられる類のそれではない。
「私はよく親戚の従兄弟の家まで遊びに行きますが、その途中に古いお地蔵さまがあります。巴町にあるお地蔵さまです。いつも花が飾ってあるようにみんなから大事にされていますし、随分古そうですから近所の人に聞いてみると江戸時代からあるようで、大切なものなんだと前から思ってました。でもそのお地蔵さまが最近、何度もいやらしいやり方で縄で縛られてると聞いて、とても悲しく思っています。そこで市役所の人にお願いです。どうか、お地蔵さまにひどいいたずらをする犯人を捕まえてください。お願いです」
こんな馬鹿な手紙があるか! 差出人にはたしかに前田敦乃、静小学校一年生と書かれている。仮にこの子が石仏に興味を抱く奇特な女子小学生だとしよう。おそらく少数ながら日本に何人かはいるはずだ。果たして小学生が亀甲縛りの何たるかを知っているかは相当に疑問だとしても、お父さんかお母さんか、家族の誰かのそういった姿とか、画像を見て朧気にも猥褻さを感じとったとしよう。また大抵の小学生ならひらがなで表記する「蔵」だとか「縄」だとか「縛」なんかの難しい漢字も、詰めこみ教育などで書けるようになっと好意的に解釈しよう。しかしわざわざ筆ペンで、こんな達筆な小学生などいるわけがない! これは見るからにお年寄り、控え目に見て年配の方が書いた文字だ。静小学校に在籍しているにも関わらず、巴町の事件に首を突っこんでいる時点で怪しさ大爆発である。
「おい、これ、これを見てくれ」
真壁に渡すと、表情を強ばらせて呟く。
「代筆だ」
誰がどう見ても同じ感想を抱くに違いない。こんなのは代筆に決まっている。僕たちでは受けつけられない。受けつけてはいけない。だいたい、この問い合わせを受けつけるか否かはここ相談室の業務量に大きく関わる。
「室長のところへ行ってくる」
僕は真壁から手紙と封筒を半ばひったくるようにして再び手に取ると、扉を開けざま五階めがけて走りだした。御用始めだけあって来庁者は少なく、いたとしても構ってはいられない。少なくとも子ども電話相談室にとっては一大事なのである。すれ違う何人かの職員が何事かと振りかえるのにも目もくれず、生涯学習課まだ辿りついたのは部屋を飛びだしてからわずか一分半後のことだった。
「どうした、広瀬。新年の挨拶なら済ませただろう。午前中いたじゃないか」
「いえ、問い合わせが。これを……」
息を切らして駆けつけた僕を室長は当初不審がったが、手紙に目を通すとやはり顔を曇らせる。他の職員たちは幾人かが少しばかり僕を見やり、またすぐに業務へと戻る程度の関心しか向けていない。
「参ったな。相談室にこんなのが来るなんて」
「明らかに小学生の字じゃありませんよね」
「でも、代筆は受けつけないなんて決まりはないからね。まあ、ここは市の内部で解決に向けて動いているとしか書けない。それにしても何でだ? この住所だったらたぶん町内会も別なのに、わざわざ首を突っこむなんて不自然きわまりない。いや待てよ」
そこで室長は何か思いついたらしく、椅子から立ちあがり肝月課長に手紙を渡す。瞬時に異常を察知すると同時に、対策を練るとは伊達にこの若さで出世してはいない。
「課長、学校教育課にご協力を仰いでもよろしいでしょうか。このような問い合わせが寄せられまして」
「なるほど……分かりました。お願いします」
そうしてひととおり手紙の内容を確認した肝月課長から許可を得るや、室長はよその課をやや大股で横切り学校教育課まで歩いていく。僕も後に続いた。ふだん落ち着いている室長が慌てるのは珍しく、そのせいか周囲の係員も学校教育課長も僕たち二人に訝しげな視線を送りはじめる。
「課長、新年そうそう失礼ですが学籍の確認をさせていただけませんか?」
「横澤くんね、いいわよ」
それから室長は学校教育課の係員の傍まで行き、封筒の宛名と住所を指ししめした。
「この子がいるかどうか、確認してくれないかな?」
学校教育課は、市内の小中学生の学籍を管理している。使用しているシステムは住民基本台帳ネットワークとも連動しているから、登録されている情報はまず信用してよい。室長は、この前田敦乃なる小学一年生が実在するのかを疑っているのだ。もしデータ上で確認できなければ、架空の人物と推定できる。回答する義務はなくなるわけだ。かつて一世を風靡したアイドルのもじりのような名前ゆえ、それを期待したのだがすぐ裏切られる。学校教育課の係員がキーボードを叩くと、前田敦乃の氏名と在籍が静小学校、学年も一年生である旨がモニターに映しだされた。
「この子、たしかにいますね。住所も学年も一致してます」
「そうか。ありがとう」
教育部内で存在を把握できる以上、無視という選択肢はとれない。室長は学校教育課長に頭を下げると、また生涯学習課へと足を向ける。僕もそれに倣いつつ、斜め後ろから覗きこむように小声で指示を仰いだ。
「室長、代筆だとすると、先ほど仰ったように調査中ということで回答するしかありませんね」
「そうだな。それで相手が納得してくれればいいけど」
やっぱり返事を書くしかないか、と軽く天井を仰いだちょうどそのとき、進行方向からよく通る太い声が聞こえてきた。周囲の空気が張りつめる雰囲気から察するに、かなりの地位にある人物の来客らしい。しかも記憶に誤りがなければ、いち係員でも名前と声をどこかで耳にしている大物市議会議員だ。
「肝月課長、新年早々失礼しますよ」
「これは板垣議員、あけましておめでとうございます」
大物どころではない。年末、真壁との話に出た板垣議員その人だった。しかし議員が一人で、しかもうちの課に立ちよるとは不審である。議員が御用始めに挨拶をする場合、大抵は議員個人ばらばらではなく会派ごとに市役所を部単位、もしくはフロア単位で訪れ、その長が所属する他の議員を代表する形をとる。ましてや板垣議員が仕切る〈憲政会〉は、議会で最多の十一名の議員を擁する第一会派だ。少なくとも前所属部署には昨年、かなりの人数を引きつれていた。教育部だけ扱いが違うとは考えにくい。
僕と室長が元の課へ戻った頃には、板垣議員はもうパイプ椅子に腰かけ、肝月課長に話をはじめている。七十過ぎの年齢相応に髪は白く薄いものの大柄な身体の持ち主であり、会派の長であるばかりでなく過去に何度も議長を務めあげた古参議員の貫禄があった。
「課長、たぶんそちらに問い合わせが来ているかと思うが、届いたかな?」
「どちらからで?」
「うちの孫からだ。外孫だが。敦乃、前田敦乃の名前で来てないか?」
やられた! 地域安心課長のあのロクでもない仕事ぶりからして、昨年末のように形だけの会議を開くので精一杯だと高をくくっていた。しかしとんでもない見込み違いだった。仕事はできなくとも悪知恵だけはたらく例もある。呆気に取られるあまりただ立ち尽くすばかりの僕と室長を、板垣議員はまるで頭の中を見透かしたかのようにあざ笑う。一方、肝月課長は平素を装いながら話を進めた。
「ええ、ちょうど拝見していたところです」
「内容はそこに書いてあるとおりなんだが、本当にうちの孫があのお地蔵さんを気にかけててね、やっぱり長いあいだ皆から大事にされてたものは分かるんだね。あのお地蔵さんイタズラされててかわいそう、何とかしてあげてとか言われたもんだから、ここに子ども電話相談室があるのを教えてあげたんだ。それでも三が日の間じゅう、手紙がつくかつかないか心配そうにしてたから、今日こうして私が来てみたわけだが」
「はい。それについては庁内会議を開きまして、関係各課での取りくみが決まったところでして」
「しかし小学一年生から手紙が来たからには、何も動かないというわけにはいかんだろう。子ども電話相談室の本来の業務は〝子どもたちから寄せられた質問への回答〟なんだから。いつもは当初の設置目的の枠から出て、はっきり言ってしまえばお年寄りの問い合わせにばかり答えてるのに、肝心かなめの子どもからの質問を無視しては本末転倒だ」
間違いない。あの会議でのうちの課の発言を、そっくりそのまま抜きだして揚げ足を取っている。もしこれが何の役職にも就いていない一般市民であれば、単に孫を可愛がる一人のお年寄りとして多少は好意的に見られたかも知れないが、いま目の前にいるのは議員の権威を振りかざす横暴な厄介者でしかない。地域安心課長が後からいらぬ手を回したか、あるいは板垣議員の発案か、いずれにせよとんでもない反則だ!
「ご指摘はもっともなお話です。ただ庁内会議を開いたのも事実なわけですから」
「これは勝手な考えかも知れんが、生涯学習課さん、というより子ども電話相談室さんがこの件について動くことに何か不都合な点があるのか、私にはさっぱり分からない」
「しかしご存じのように、これは地域安心課が中心となって動いております。私の一存で決定するのはどうにも難しく……」
肝月課長は懸命に応戦するも、兎にも角にも相手が悪すぎた。長らく市議会の重鎮どころか中枢的な存在であるだけに、強かさは凡百といる課長の比ではなく、言葉を遮り気味にことごとく痛いところを突いてくる。この日、この場所を狙って訪れる際にあらかじめやりとりを想定してきたのだろう。肝月課長がどうにか首を縦に振らず踏みとどまっていると、程なくあからさまに不機嫌そうな顔で立ちあがる。
「それなら会議を開くようはたらきかけるなりすれば、そちらが動くのに何の障害もないと思うが。まあいい、私はこれで失礼する」
そして帰る、とほんの一瞬見せかけつつやおら足を止め、あろうことか今度は教育総務課へ向かう。もうこのときには教育部に居合わせた職員一同、異様な空気を感じとりそれとなく事の成りゆきを窺いはじめていた。
「教育総務の村越課長はいるかな? 今のは聞こえてただろうが……」
板垣議員の声など、これ以上は聞きたくもない。周囲から投げかけられる憐れみの視線も痛かった。かといって僕たちが当事者になる恐れが十分にあるため、まるで他人事のようにこの場を離れるのも憚られる。もっともこうして脇で突っ立っているだけでは通行の邪魔になるのもまた事実だ。もはや肝月課長でさえされるがままでいるのに、それ以下の役職の職員に抵抗の手段などあろうはずがない。唯一の救いは僕の心情を慮った室長が頭を垂れつつも、短く指示を出してくれたことだった。
「広瀬は部屋で待機してくれ。当面はこっちでの対応になりそうだ。必要な話は後でする」