一 おまわりさんこっちです ⑥
会議終了直後の昼休み、僕はいつものように市役所ちかくの小さな弁当屋に足を踏みいれていた。看板には〈foret〉と店名が掲げられている。洋食専門を謳う店らしくフランス語でフォレと読むらしい。真正面の掛け時計が示しているように、日によってはこの頃になると半分以上の品物が売り切れている十二時半過ぎをわざわざこうして見計らい、かなりの頻度でここへ通うのには訳がある。
「いらっしゃいませ」
今したがた、かわいく声をかけてくれたアルバイトの女の子が目当てだ。今年の夏前あたりから店頭に立つようになった。ポニーテールがよく似合う顔立ちから察するに、二十歳くらいだろうか。幸いにも今日は棚にまずまず商品が揃っており、僕の方からも話しかけるきっかけができる。
「今日はどれがおすすめ?」
「ハンバーグ弁当です」
棚に並べられた中で目につくのはチキンライスやポークソテーなどだったが、アルバイトの子が推してきたのはいちばん高い弁当だった。高いとはいっても五五〇円。しかもこの店の商品は味にかなりこだわっており、値段以上のお買い得感がある。
「じゃあ、これで」
だいいち、この子のおすすめを反故にできるわけがない。気づいたときにはハンバーグ弁当を手に取っていた。
「いつもありがとうございます」
ごく普通の挨拶に、どことなく親しみが込められているように聞こえる。この娘とお近づきになるべく、少しずつ距離を縮める努力は実りつつあるようにも思われた。おそらく顔を覚えてくれたからではなかろうか、一か月ほど前から「いつも」と言ってくれるようになった。にも関わらず名前さえまだ知らない。
店内の客が僕ひとりの今なら、業務の妨げにはなるまい。正確に言えば、最近はそれを狙って来店しているのだが、だいたい他に誰かしら客がいる。こんなチャンスが果たして次にいつ来るか分からない。そろそろ雑談を交わしても罰は当たらないだろう。
「こちらこそ。それよりいつも顔を見るけど──」
そう判断し、会計を済ませて品物を受けとりざま口を開いてみる。アルバイトの子は怪訝そうに眉を顰めるでもなく、むしろ顔を綻ばせたように見え、一瞬だけ期待するも次にはばつが悪そうに頭を下げる。
「ごめんなさい」
僕は浅く溜め息をついた。昼としてはやや遅い時間に足繁く通い、ちらちらと顔を覗いていればこの娘だって何が目的かを察して当然だ。そのうえで世間話を切りだされ、真っ先に断る理由は一つしかない。彼氏持ちだ。これだけのルックスの持ち主なのだから道理だ、と諦めかけたとき次に意外な言葉が聞こえてきた。
「今日、オーナーが来てるからまた今度」
女の子がそれとなく顔を向けた方に目をやると、コック帽を被り、調理服を着た年齢およそ五十過ぎと思しき男性がこちらを睨んでいた。なるほど表情からしてなかなかに険しく、早く仕事に戻れと言いだしそうな雰囲気を醸しだしている。
「はい」
この状況なので無駄話ができないという答えは、言いかえるとそうでなければ大丈夫という意味とイコールになる。つまりは条件さえ整えば機会は用意されているわけだ。僕の頬はおのずと緩んだ。
「代わりといっては何ですけど、これをお持ちください」
ビニール袋の中へ、商品のハンバーグ弁当とプラスチックのスプーンの他に見慣れない名刺大の紙が一枚入れられた。手に取ってみると、銀色の丸が五つ横に並んでいる。いわゆる銀はがしだ。
「これは?」
「ちょっとしたクジで、当たりはおかず一品と引き替えです」
店のサービスなのだろうが、何となくこの子からプレゼントされたようでまた一段と嬉しい気分になる。
「じゃあ、また」
僕は小さく頷いてから品物の入ったビニール袋を提げ、意気揚々と店を出ていく。これで昼の楽しみはほぼ終わり、次に楽しい時間がやってくるのは就寝前まで待たなければならない。同時に庁舎へと戻りながら辺りを眺めると、この弁当屋がまた別の意味で貴重な存在であるのが見てとれ、ふと気分が沈む。
駅からもほど近い市役所の周りにあるのは、セブンイレブンにガスト、和民──全国チェーンのコンビニに大手フランチャイズの飲食店や居酒屋ばかり。別にこの街でなくともどこでも利用できる店しかない。かつては他に色々な店舗があったのだろうが、大企業の資本力には勝てず潰されてしまった。かといってそうした街並みが都会的かと訊かれればそんなことはなく、手入れが行きとどいていないのか多くの看板が色褪せ、壁やガラスは煤けておりむしろくたびれた光景を作りだしている。耳につくのはやたらとうるさいクルマの走行音だけ。何と無個性な街だろう。選挙が近いわけでもないのに道端に置かれている、あの顔と名前が印刷された縦に長い市会議員の立看板やポスターも田舎臭さを際立たせている。ああした広告物の有無が選挙の当落を決したという話は一度も聞いた覚えがないにも関わらず、街の景観を著しく損ねるあれらが大した規制も受けず放置されているのは地方の悪弊だろう。
さらに道ゆく人のファッションも何と無個性なことか。人通りのまばらな外の通りから、ある程度は利用者の行き交う庁舎に入るとそれが目立つ。服務規定上どうしても選択肢が限られる職員はともかく、市民の服装でさえどれもどこかで見たようなデザインばかり。購入店舗が限られている何よりの証拠だ。そして大の大人が、用の済むまで待合席で揃いも揃って手にしたスマートフォンの画面に目を向け俯いている。ファッションのみならず、立ち居振るまいまで無個性ではないか。
そんなことを考えながら地下の階段を降りて相談室に入ると、自分の席に座りざま買ってきた弁当を開ける。何しろ昼休みはもう残り半分を切っているのだ。得意の早食いでロクに味わいもせず、ハンバーグをさっさと胃の中に落としこむ。それよりも、アルバイトの子から渡されたクジの方が大事だった。当たれば商品の交換にかこつけて話しかけられるからだ。机の上から拾いあげて注意書きを読むと、「どれか一つだけ剥がしてください。二つ以上、剥がすと無効になります」とあった。試しに左端のひとつを硬貨で擦り、ハズレの三文字が表れた矢先に向かいの席から声がする。
「お帰り」
少し腰を浮かして覗いてみれば、真壁がパイプ椅子を二つならべて寝ころがっていた。何でも昼食後には欠かせない日課のようで、ほぼ毎日といっていいほどこうして午睡を摂っている。しかもその位置が扉ちかくだったり部屋の隅だったり、奥の書庫だったりとまちまちなのだ。さらに言うなら場所は相談室に留まらず、庁舎内のところどころを転々としている。いつぞやなど廊下に廃棄されていた棚の中で眠っていた。そのくせ職員共用のスペースとして設けられている休憩室は絶対に利用しない。この時点で軽い変人だが、今日は真壁自身の机の真ん前という珍しく常識的なポジショニングだったこともあって、僕は残ったご飯を呑みざま自然に呟く。
「ああ。もう食べおわったけどね」
時計は十二時四十五分を指している。気晴らしに庁内をうろつき回るにも、昼寝をするにも短すぎる半端な時間だ。かといって、よその課の手伝いも溜まった仕事もなく手持ちぶさたになってしまう。いっぽう真壁は上体を起こした後、ただぼんやりと机に座るのみ。深い眠りから醒めたばかりで、魂が舞いもどるのはこれからといった様子だ。僕はその魂を呼びもどすべく、とりたてて必要はないながらも話を振った。
「それにしても午前の会議、町内会長さんかわいそうだったね」
「しょうがないさ」
最初の返事こそ中身がなかったものの、口を動かすことで真壁の頭は少しずつはたらきを取りもどしたと見える。やや間を置いて、午前中の薄っぺらな会議資料を手にとった。
「各課の対応はあれが精一杯じゃないかと思う。地域安心課が防犯協会の話を出すのがやけに遅かったけど、それでも最後には課として動くと言ったんだから、あんなものだ」
「でも警察がもうちょっと動いてくれればなあ……」
またも相談室が静寂に包まれる中、真壁は次に手元にあった缶コーヒーをあおる。とっくに冷えきっているであろう中身が舌を満足させたかどうかはともかく、含まれていたカフェインは神経を覚醒させるのに役立ったらしい。会話に身が入りはじめる。
「会議でも言われたとおり、上に諮ったところで望みは薄だ。人員の問題が解決しても、市長か警察署長のどちらかが変わらない限り答えは同じだ。君も知っているだろう?」
「あっ、そうか」
「市長と警察署長があの調子だ。せめて警察署長がどこかへ栄転してくれるか、市長の当選がずれてくれていたら事情は違ったわけだが」
話は二十年以上前に遡る。現市長の末の息子は、中学校で執拗なイジメを受けていたという。当然、母親である市長はその加害者を憎み、数度ばかり面と向かって怒鳴りつけ、本気で殴りかかろうとした過去があった。両者は中学卒業を期に接触の機会がなくなったものの、イジメの加害者は長じて警察庁へキャリアで入庁し、数度の昇進を経て火床警察署長に赴任。そして何の因果か、市長が選挙に当選したことにより時を経て再度あい見える次第となった。さすがに警察署長は人間的な成長を遂げたのか何度か謝罪するも、市長は恨み骨髄、憎悪が消えるはずもなく罵詈雑言を浴びせかけ、そうこうするうちに両者は再び険悪な間柄となってしまった。今では火床市職員のみならず多くの市民が知るこれらの顛末により、警察の積極的な協力はまず期待できないといってよい。ここは公務となればお互い無私を貫く大都市部ではなく、事あるごとに何かにつけ情の入りこむ地方なのだ。
「まあ、期待するだけ無駄だろうね」
「その部分をどうこう言っても仕方がない。それより気に入らないのは地域安心課長だ」
真壁がふだん興味のない他人を、ましてやいちど会っただけの相手にわざわざ言及するのは珍しい。いつもはよく言えば飄々としている、悪い表現をすれば仕事などどうでもいいような態度でいるというのに。
「何かあったの?」
「あの地域安心課長、俺はどんな人か分からなかったけど、午前の会議を見るかぎりは随分はっきりしない印象を受けた。あんな調子で、果たして仕事ができたんだろうかと不思議でね。君は何とも思わなかったかい?」
「おかしいとは思ったよ。でもあれ以上の結論は望めないんじゃないの?」
「結論に不満はない。ただその後で、五階からここへ降りる間に嫌なものを見たんだ。階段の踊り場で、地域安心課長があの板垣議員とやたら親しそうに話をしていた。しかも高校の同窓会がどうだとか言っていたから、同じ高校出身なんだろう。勝手な憶測ではあるけど、あの人、バッジの力で課長になったんじゃないか?」
僕も午前中の会議で、地域安心課長の能力には大いに疑問をもっていた。どの組織にも似た傾向はあると思うが、特に官公庁には実力不相応なポストに就く者がいる。何でも地縁や学閥の繋がりから市長や議員の力を借り、希望の部署に異動したり昇進する手段があるのだという。改めて驚く話ではないにしても、実際にそれらしい場面を目撃したとなれば普通は嫌な気分になる。過去に何度も議長のポストに就いたことがあるだけでなく、年齢は七十を過ぎた古株で現在でも議会内の第一会派である火床市憲政会、通称〈憲政会〉の長を務める板垣議員は方々にかなりの顔が利くと噂されている。議会関係に疎い僕の耳にさえ入るくらいだから、真壁の話には相応の説得力があった。
「そうかも。十分あり得るね」
「どんな手を使おうと勝手だが、あんなのに媚びへつらうのは俺ならご免こうむりたい」
「ああいう課長の下で働くのも嫌だなあ」
「それにあの地域安心課、上も上なら下も下だったな。課長うんぬんじゃなく、さっきの会議自体がおかしかった」
「真壁もやっぱりそう思う? さっきのあれは内容以前に滅茶苦茶だった。課長ひとりが喋りっぱなしの会議なんていうのはあれ以外に見たことがない」
僕もあの手の会議を開いた経験があるが、普通は係長以下の職員が司会を務める。何歩か譲って仮に課長みずからその役を買って出たとしても、開会の挨拶や司会進行、議事を一から十までやらせるというのはあり得ない。ではなぜそれが起こったか。おそらくひとつしかないであろう結論を、真壁があきれ顔で口にする。
「下に会議の進行なり司会なりをやれる奴がいないんだろう」
「間違いないね」
何らかの事情で課長の職務執行能力が不十分な場合、人事課はだいたい部下に優秀な職員を配置することで業務の停滞や混乱を避ける。本来、課長が果たすべき監理監督役を肩代わりさせられる部下の負担は増えるものの、損害はどうにか課内で収まるわけだ。しかし人事がうまくいかず、課の所属職員が無能揃いになるケースが稀にある。今年の地域安心課がまさにそれだ。内部が勝手に機能しないだけならまだしも、だいたいは他課に迷惑をかけるハメになる。現に先ほど僕たちはとばっちりを被りかけ、地域安心課長みずからも文化課長の怒りを買った。
「それを考えると、俺たちは恵まれているな」
まったく真壁の言うとおりだ。あのような混乱の中にある部署と比べ、僕たちの何と幸せなことか。地域安心課長とは一八〇度逆の政治力学によって庁内の僻地たるこの地下室に飛ばされたとはいえ、午前中の会議で痛感させられたように、管理職の配置面では間違いなく優遇されていると断言できる。もっとも僕と真壁の状態と転入事由からして、多方面でフォローに回れる上司が不可欠なのだろうが。
「ホントだよね。これで文句なんか言ったら罰が当たる」
「でも、もし俺たちがいるのがあの地域安心課だったら……」
市役所とてエリートコースと持て囃されながら、過酷な労働環境で強いストレスに晒される職員は多い。業務の行きづまりや人間関係で心身に大きなダメージを負うケースもざらにある。議会で騒がれ、それらの苦難に苛まれているに違いない地域安心課と比べれば、僕たちなどまるで天国ではないか。かなりの頻度で定時の退庁が許され、重い責任を負わずに済んでいるのだから。
「やめてくれ。確実におかしくなる。出勤もしたくなくなる」
考えたくもない。無駄に想像力をはたらかせるのは止めようと、僕が呟いたところで午後一時のチャイムが鳴った。これを期に、今を楽しもうと頭を切りかえ壁掛けのカレンダーに目をやる。今年はあと二日半だけ勤務すればよい。そうしたら僕は適当に部屋掃除を済ませ、あとは冬コミへ一直線だ。早くも冬休みの楽しみに思いを馳せながら残りの時間を過ごし、平穏無事に御用納めを終えた。