一 おまわりさんこっちです ②
「な、この通りだ」
相談室へ連絡を入れた電話の主──町内会長は、僕が現地に到着するや否や真っ先にお地蔵さまのもとまで案内してくれた。しかしいざそれを目の当たりにしてみると、そのお姿のあまりの奇抜さにわずかながらも意識が遠のいてしまう。
今日、大岡越前の通称で知られる名奉行の、江戸時代から講談の形で庶民に流布した活躍譚を発祥とする「縛られ地蔵」の存在は僕も知っていた。窃盗犯を捕らえるべくお地蔵さまをお白洲にかけたという一節にあやかり、盗難除けの願かけを込めて人々がそのお姿がほとんど見えなくなるまで実際にお地蔵さまを何重にも縄で縛るのだという。
いま目の前にあるのも、たしかに縛られ地蔵と表現できなくはない。だが縄の色と縛られ方のせいで趣がまったく違っていた。一本の赤い縄が、お姿がはっきりと見える形で六角形を描きながら躰体を縛めている──なるほど、電話の第一声は誇張なしにありのままを伝えていたわけだ。悪いことにお地蔵さまはいかにも歴史が浅いコンクリート製ではなく、懇切丁寧に石を彫りこまれた精巧な石造仏であり、両足の間に小さいながらも空洞が設けられているせいで文句なしの亀甲縛りが成立してしまっている。
しかも縄、というよりロープ自体にさほどの太さはないものの、撚りあわされた繊維の筋が三本に分かれているうえ、テカテカと光沢のある材質のせいで亀甲の模様がやたらと目立つ。おまけにお地蔵さま自体も盛り土と台座の上に鎮座しており、像の頭が僕の胸の下ほどの高さにまでに達するサイズのため妙な見応えがあるのだ。様々な挑戦を試みる前衛芸術家でも、かような真似をする奇矯な感性の持ち主はそうはいまい。アンバランスにも新しい上屋はそれなりに広く、上方向のみならず左右とも二〇センチは隙間がある。イタズラをするために腕を巡らせるには十分なスペースだ。
「どうした? 嘘じゃねえだろ」
しばらくして、後ろからかけられた町内会長の声で現実に引きもどされる。周りにはまばらに人だかりが出来ていた。お地蔵さまは町内で大切にされているらしく、この珍事を面白がる者はほとんどいない。庁内では皆が通報の内容を聞いて笑っていたものの、とても同じように振るまえる状況になかった。僕はつとめて真面目な顔をつくり、メモ用紙にボールペンを当てた。この場においては、ひととおり現場の聴取に入らねばなるまい。
「いつからこうなってたんですか?」
「朝かららしい。小学校から連絡があってな」
「その連絡があったのも、朝ですか?」
「いいや、俺さ出かけてて、母ちゃんのとこに電話があったのが十一時前だ。先生たちも子どもたちから話を聞いて、確かめに行くのに時間がかかったんだってよ。それにこのお地蔵さんは俺たち町内でお世話してるから、市役所さんに言った方がいいのか、俺のとこのがいいのか迷ったらしい」
お地蔵さまが安置されている場所は、幼稚園と隣接している。今は園児の姿はないが、朝の時点でこの状態だったというから送り迎えの保護者はさぞ目を丸くしたことだろう。
「ここの幼稚園からは、何もなかったんですか?」
「私立だからな。どこへ連絡すれば分からなかったみてえだ」
「苦情はありませんでしたか?」
「もちろんあったさ。さっき俺が顔を出したら、子どもたちからあれは何? とか聞かれて先生も親御さんも答えに詰まったって」
不幸にも、園児や保護者以外にこの異変を目にした人は少なそうだった。何しろ幼稚園の南にあるのは小さな児童公園であり、東に面するのは私営の駐車場。信号のない交差点を隔てた斜向かいも潰れかけの不動産屋があるのみ。片側一車線でありながら道自体かなりの幅をとっているせいで対面距離が長く、異変も向かい側を通行した人間には見落とされやすい。いくら見晴らしがよくても、朝方にここを徒歩で移動する人数などたかが知れている。他に頼れるのは地元住民くらいだ。僕は辺りを見まわしながら質問を続ける。
「町内会の副会長さんとか、班長さんはいなかったんですか?」
「市役所の人なのに、この町内会の惨状を分かってねえな。副会長は糖尿病で週に三日は透析、班長は心筋梗塞で入院中だ」
決して自慢できる点ではないのだが、それをいちいち指摘する気は起こらなかった。むしろ改めて高齢化社会の進行度合に驚かされる。かなりの率で健康体でないというのが生々しい。いち町内会にさえその縮図が表れるとは、まさに地方都市恐るべしである。
と、ここではたと気づく。小学校から町内会長宅に連絡があったのが十一時前。これだけの騒ぎになっているのに、相談室への通報が昼休み直前というのはどうしたことか。今しがた画面をちらと覗いたように、町内会長自身はスマートフォンを持っているのだが。
「ところで、なぜこちらへのお電話が午後になったんですか?」
「ちょっと母ちゃんと連絡が取れなかったというか、俺が電話に出られなかった、気づかなかったからよう……」
よく見ると、風貌からして八十前後と思しき町内会長の顔には痣がある。それもどうやら新しい。また、身体のどこからか漂う香水の匂いで何となく事情は察せられた。いくらそこそこ近くに歓楽街があるとはいえ、この齢になって朝まで遊んでいたとは随分と精力の盛んな爺さんだ。亀甲縛りなる単語が比較的すんなり出てきたのも、その手の店に出入りしていたからかも知れない。健康体が暇を持てあますと、余った金で遊びあるくくらいしかやることがないのだろうか。ともかく朝からお地蔵さまがある種、縄目の恥に耐えていたのは間違いなかった。町内会長からの聴取はこの辺にして、そろそろ縛めから解放してさしあげるべきだ。
「分かりました。では、写真を撮らせていただきます」
室長から渡されたデジタルカメラを向け、上屋の外から見える範囲で様々な角度からお地蔵さまを撮る。まさか公費を用いての購入に携わった担当者も、このカメラがかくも奇妙奇天烈なオブジェをレンズに収めようなどとは想像すらしていなかっただろう。僕はひととおり画像が保存できたのを確認し、電源を切った。
「写真、撮り終わったみたいだからこの縄解くぞ。お地蔵さんが可哀想だ。市役所さんの方でも、何か動いてくれるよな? 多分たちの悪いイタズラだから」
「ええ。しかし私は子ども電話相談室の者ですから、この件をどの課で応対するかは持ち帰ってからの協議になると思います」
「あれ、神社とかお寺とか、こういうお地蔵さんとかはあんたのとこじゃねえのか?」
「あくまで日ごろの疑問にお答えするところですので。もちろん今日のお話は詳細に記録して然るべき部署に連絡いたします」
「分かった。俺の連絡先は担当さんのとこへ教えといてくれ。それからついでだ、このお地蔵さんを縄で縛るような習慣がなかったかどうか、調べて教えてくれねえか? もしかすると、ほんとにこんな風習があったのかも知れねえし。何しろ長いあいだお地蔵さんを直接お世話してた前の会長がポックリ逝っちまって、急に会長やらされたもんだからちゃんとした引きつぎは受けてねえんだ」
中には課の業務などお構いなしに市職員と見れば管轄違いの要望を押しつけてくる市民もいるが、町内会長さんが物わかりのいい御仁で助かった。これなら話は早い。
「そのお問い合わせについては、子ども電話相談室として後ほどお答えいたします」
僕は丁寧に頭を下げ、公用車で帰庁した。それからの経緯を相談室で真壁に話したのは、およそ四時間後のことだった。
「で、どうなったんだ?」
真壁が古びたノートパソコンで文書を打ちこみながら訊いてきた。昼休みを急の外出に費やしたのはここに配属されてからは初めてで、午後も息をつく暇はあまりなく、室長への報告やら他課への連絡やらを済ませて落ち着けたのはつい先ほど。喉に流しこむ缶コーヒーが味わいぶかく感じられるのは久しぶりだ。
「室長とも相談して、地域安心課と市民協働課に繋いだよ。そもそもあれは市の所有物じゃないから勝手に動けないけど、町内会長さんと連名で警察に被害届を出す予定だって」
「警察は動けるのか?」
「器物損壊で動くってさ。町内会長さんが保管してる現場のロープも、警察に提出するみたいだ」
「あまり期待できそうにないな」
「人が死んだりしたわけじゃないからね。ただ、地区の公民館で巡回はするんだって」
「とはいってもおそらくやられたのは夜か明け方だろうから、本当にポーズだけだな。深刻な被害じゃないから妥当なところだろうけど」
「ところでそっちはどう? それらしいのは見つかった?」
いちど相談室に戻ったタイミングで真壁には現場でのあらましを伝え、同時に町内会長さんから寄せられた問い合わせへの回答を頼んでおいた。留守番中に電話などもなかったらしく、調べものはそれなりに進んでいるように見うけられる。
「市史にそれらしい記述はない。念のため明日にでも文化課の資料を覗いてみるけど、期待しない方がよさそうだな。だいいち縛られ地蔵は、講談「大岡政談」ゆかりの信仰なんだ。東京にはそうした地蔵菩薩が幾つかあるが、ここは違う。もっとも、まったく別ものでのそういう風習が過去には存在した。強制呪術といって、五穀豊穣の祈願にいわゆるお地蔵さまを縛ったり川底に沈めたりとかして脅迫する風習がごく一部の地域にはあった。本願成就の暁には、お地蔵さまを責め苦から解放して元どおりに安置する」
「へえ、そんなのがあったんだ」
「もちろん仏教本来の儀式ではなく、原始的な日本土着の風習の名残で、脅迫の対象を地蔵菩薩に変えただけだ。分かりやすい例はてるてる坊主だろう。あの歌詞にはけっこう残酷なところがある。『てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョン切るぞ』。もちろん市内に強制呪術があったという記録はない。ただ、これくらい補足しておけば町内会長さんも満足してくれるだろう」
ちなみに真壁は筑波大学附属中学と高校を経て国際キリスト教大学卒、京都大学大学院中退という鳴り物入りの学歴で入庁当時は随分と騒がれた。大学で何をやっていたかは知らないが、これくらいすらすらと口を突いて出てくる豊富な知識の持ち主でも何ら不思議ではない。その点ではある意味、ここ相談室は適任と言える。何にせよこの件は真壁に任せれば終わりとなる、と胸を撫でおろしかけたところで部屋の扉が開かれた。
「お仕事中、お邪魔するね」
先ほど触れたようにここ相談室は書庫を兼ねており、教育部の文書も一部保管されているため比較的頻繁に人が出入りする。このとき入ってきたのは野々村先輩だ。男ふたりだけの乾いた空間がにわかに潤う。程よい褐色に染まったショートボブの髪に加え、低い身長と小さな造作からとても真壁と同学年とは信じられないほど、ときに幼いと表現できるまでに本来の年齢より下に見える愛らしさの持ち主である。その野々村先輩の前で報告とはいえ、午前中はあんな目の前ではしたないことを口走ってしまった。
「あっ……先ほどはすみませんでした」
気まずい僕は自己弁護のつもりで謝ってみるのだが、野々村先輩はまったく気にしていないようだ。むしろ面白がっている。
「いいよ。こっちこそ笑っちゃってゴメンね。広瀬くんこそ大変だったでしょ」
正確には、そんな暇はないといった様子だ。僕たちの前を素通りし、書庫にある資料か何かを探しはじめる。ただ、なかなか奥から出てこないところからして目当てのものが見つからないらしい。こうしたときこそ、さりげなく声をかけて好感度を稼ぐチャンスだ。
「何かお探しですか?」
僕は首を伸ばして覗いてみるも、相変わらず野々村先輩は僕の方を振りむきもせず、いそいそと書庫のファイルをひっくり返すばかり。
「手伝いならいいわよ。たぶんうちの係しか分からないから」
その姿を見て、僕はふと思いだした。今は十二月だ。
「もしかして、議会ですか?」
国や都道府県と同じく、市町村でも三の倍数月には議会が開かれる。答弁を行うのは市長、副市長に部長であり、議員も質問内容を事前に通告する決まりになっているが、資料の準備や答弁書の作成に当たるのは課長以下の職員の役目となる。しかも本会議のほかに開かれる各種委員会では課長補佐以下にまで答弁の機会があるのだ。幸か不幸か成立の経緯から子ども電話相談室に表立って言及する議員などいないため、ほとんど失念していた。
「当たり。ちょうど今日、質問が出ちゃったから、課長がけっこう焦ってるのよ」
「やっぱり、忙しくなりそうなんですか」
「うちの市の学校はどこも建物が古くなってて、ひっきりなしに施設の造改築が続いてるの。去年ひとつ終わったけど、今年は計画立てたり予算を組まなきゃならないし」
市内には複数の小中学校があり、増築にせよ改築にせよかなりの費用がかかる。当然ながら予算の規模も大きいだけに、しばしば議会で質問の対象になる。ただでさえ業務量が多いうえこうした形で矢面に立たされやすい学校経理課は楽ではなく、お世辞にも多くの職員が自ら手を挙げて行きたがる部署とは言いがたい。僕たちとは別の意味で、所属職員の心中は察するに余りある。その一人である野々村先輩は健気にも短い腕を伸ばしてしばらく家探しをしたのち、ようやく分厚いファイルを抱えあげて足早に廊下へと出ていく。
「じゃあね」
扉が閉められると、相談室はまたも色気のない空間に逆戻りしてしまう。直後に発せられた真壁の無機質な呟きがそれに拍車をかける。
「大変そうだな」
真壁は大抵このように、よその課の業務にまったく関心がないといった調子だ。実際、僕たちには何の権限もないのだが情感はゼロといっていい。先ほど野々村先輩を前にしても声ひとつかけなかったことといい、あんまりな態度につい口を出したくなってしまう。
「完全に自分は関係ないって感じだね」
「それは事実だが、少し引っかかることがある。本来、学校経理課が忙しくなるのは予算がらみの三月だろう? 今から慌てているのは珍しい。そう思ってね」
この部屋にいると、どうしても浦島太郎のように外の世界で何をやっているか分からなくなる。ここへ異動になる前は、二月の末から三月にかけては異動も重なるせいで例外なく忙しかった。特に予算の審議が喧しくなり、息つく暇もなくなるのはその時期だったと記憶している。
「言われてみれば、たしかに……」
「まあ、学校経理課はいつものことだ。俺たちが気を揉んだって仕方がない」
正論を述べられた僕がどう反論しようかと迷ううちに、真壁はさっさと話を切りあげては起案をバインダーに挟めて渡してくる。さすがに決裁そのものは厚くないにせよ、意外としっかり調べているようでかなりの文字数があった。実質的な社会復帰途上の僕にとっては、この程度の量でも面倒くささを感じてしまう。もっとも手間をかけたのは真壁であり、僕は文句を言える立場にないのだが。
「それよりこの決裁、町内会長への回答だがひとまず起案しておいた。君はこのあと連休だろう? 帰る前に見ておいてくれ」