二 どうしてこうなった ⑤
一月十七日 火曜日
「俺のときもそこから交通量が増えた。その前までは誰も通らなかったわけだが」
代休を挟んで出勤した僕は、明け方三時以降の様子について真壁に訊ねてみた。するとやはり木曜も同じだったという。適当に返事をしたのではないらしく、決裁板に挟まれている報告書にもその旨が記されている。現場の交差点を通りすぎるのは一瞬だけに、さほど詳しくは確認できないにしても十分な情報だ。
「なるほど、三時六分に軽トラックが一台、三時五十三分にバイクが一台、四時二十八分に軽自動車が一台、四時四十一分に普通自動車が一台……。僕のときはちょっと少なかったけど、日曜の朝だってことを考えれば似たような感じだ。でも何だろうね?」
「昨日、俺なりに調べてみた」
真壁は普通だったら捨ててしまうほどくたびれている、ホコリだらけのメモ用紙を差しだしてきた。冷たい室内を健気に暖める、電熱ヒーターの光にわずかに赤く照らされたそれには、汚い字で「八百屋」「魚屋」「パン屋」「新聞販売店」と箇条書きされている。
「これ、もしかして朝が早い仕事?」
新聞配達員は分かる。新聞紙を積んだバイクが現場の前を通りすぎるのは僕もこの目で見た。それ以外も朝が早い等、生活リズムが多くの人間と大きく異なる職業ばかりだ。
「考えれば他にもあるだろうが、あの時間帯に交通量が増えたのはこういう人たちの出勤時間だからだと思う」
「なるほどね。でも深夜の交通量がゼロだったなんて、極端すぎない?」
「その理由もだいたい推測がつく。あの交差点の東西南北とも二本先に、それぞれ信号が設置されているんだ。信号はむやみやたらとつけられない。どうやら県の公安委員会で条件が決められていて、日本全国どこも似たり寄ったりらしい」
「たしかに全部の交差点につけてたら、車の流れが止まって仕方がないな」
「深夜、わざわざ信号のない交差点を通るなんて事故を起こしにいくようなものだ。俺が運転手だったらまず避ける。目的地が近くにない限りは」
まだ暗い時間帯にあの交差点を通ったのはよほど急いでいたか、もしくはその目的地へ辿りつくのに避けられなかったかせいか。いずれにせよあれらの車両だけを頼りに犯人を特定するのは難しそうだから、拘ったところで意味はないのかも知れないが。
「とにかく人通りの少ない条件が揃ってるってわけか……」
「あと君に忠告しておく。トイレに行くのに現場を離れたくないだろうが、水分は摂った方がいい。ただでさえ長時間、同じような姿勢でいるのに水分不足は危険だ。外が寒いうえに車内も乾燥するから、年齢に関係なくエコノミークラス症候群になる恐れがある。コンビニまで歩く手間を惜しんだばかりに、急病で倒れでもしたら目も当てられない」
エコノミークラス症候群といえば、足が腫れたり痛みを感じるだけでなく、重症となれば呼吸困難や胸痛を引きおこす。何度も巡回に出るとなれば可能性は高まる。僕は今度からはペットボトルくらいは持っていくことに決めた。多くの職員は一回こっきりの出番といっても黙っていてよい問題ではない。
「それ、当番に出てもらう人にも言っておいた方がいいよね?」
「もちろん。次回以降、注意は促しておかないとまずい」
深夜の巡回に駆りだされるだけでも面白くないのだ。当番の職員が身体でも悪くしたら相談室が何と言われるか分かったものではないどころか、少なくとも教育部で非難の的になるのは火を見るよりも明らかだ。それにしても休日だったはずなのによく色々と調べている、と感心する僕に目もくれず、真壁はほんの僅かだけいつもより大きく瞼を開いた。
「さて、分かりきった話はこれくらいにして本題に入ろうか」
本題というのは他でもない。お地蔵さまは僕が巡回に出た翌々日の十六日未明、三度目の亀甲縛りに遭っていたのである。その報せがつい先ほど室長からもたらされたときは少なからず落胆した。もしかすると巡回の実施によってイタズラが止み、それをもって僕たちは目的を果たせるのではないかという淡い期待を抱いていたからである。しかし警戒の合間を縫ってイタズラを遂行されては、抑止力を発揮したという論法は通じない。むろんこれ以降にイタズラが止む可能性もあるが、そうなる保証はどこにもない。目論見は早くも崩れつつあった。真壁もこの事態を重く受けとめているらしく、ノートパソコンで犯行の瞬間を捉えた動画の再生をはじめる。時刻は午前一時五十四分を示していた。
「地域安心課が撮影したものだ」
促されるままに画面を覗きこんでみても、この映像から犯人像を絞りこむのは難しい。手足かどこかに障害を抱えていると思しき動きはなく、屈んだ姿勢から推測できる中肉中背の背格好には大きな特徴もない。似たような体型の人間はいくらでもいる。何よりありきたりのジャンパーを着、フードを被り、メガネにマスクという姿のせいで肝心の人相どころか、年齢、性別さえ掴めないのだ。これが不自然と思われない季節なのが腹立たしい。
「しかし夏だったらこうはいかないだろうに」
「冬だからこそ、この方法を考えついたんだろう。用が済めばフードを外して素知らぬ顔で立ち去ればいい。軍手を填めているから指紋も残らない。イタズラを発見した交番のパトロールはその場で回収したロープを鑑識に回すらしいが、何も出てこないだろうな」
手がかりの少なさにため息が漏れる。またお地蔵さまと同じ方を向きながら下方に傾いたカメラの角度と、上屋の屋根の上という設置場所も悪かった。犯行現場を撮影するのが目的のひとつとはいえ、高さが取れないせいで全体像が掴みづらく、犯人がどの方向から来るのかが判然としないのだ。
「このカメラ、角度は変えられないんだろうか? これじゃ警察が本格的に映像を分析するにしたって、ほとんど役に立たないんじゃないの?」
「無理だな。上屋の造りが脆いから、ここ以外の場所につけられない。それに屋根の庇がお地蔵さまの前後に広がる形になっている。これが左右だったら少しは違ったんだが」
ここでも悪条件が重なったわけか。とはいえこのままでは手の打ちようがない。
「じゃあ、もっと遠くから撮影できないんだろうか? たとえば電柱とか」
「本気で言ってるのか? 電柱は市の所有物じゃないんだぜ。申請して答えが返ってくるのに最低二か月はかかる。許可が出たときには質問通告締切はとっくに過ぎている」
向かいにある駐車場も私営だから、同じように協力を得られない可能性がある。それ以前にあの広い道路越しでは撮影するのに遠すぎる。隣接する幼稚園も塀に囲まれていた。となればカメラを動かす場所はひとつしかない。
「お地蔵さまが鎮座してる土地の一角はどうだろう?」
「地域安心課も君と同じことを検討したらしい。そのうえで断念したようだ。所有者は片山儀作、元治元年六月五日生まれ。町内会で利用しているだけで相続人は不明だ。その相続人を探すのにも時間がかかる。上屋は町内会で設置したものだから市の責任にはならないが、今回の件で俺たちが土地をいじるとなるとそれなりに危ない橋を渡るハメになる」
真壁の口ぶりは冷たいながらも、筋は通っていた。ニュースでもたびたび取りあげられる、長年にわたって相続登記のされていない事実上所有者不明の土地だ。それが元治年間、つまり幕末生まれの人間名義ともなれば、現在ご存命の子孫はどんなに楽観的に見ても二世代は後になる。一世代ごとに兄弟姉妹の数だけネズミ算式に相続人が増える計算であり、おそらく実際には四世代くらい経っているだろう。その相続人を特定して登記なり原状変更の同意を取りつけるのは至難の業だ。確率は低くともリスクを避けるのが市役所だから、無許可で地面をいじるという選択肢は最初からゼロと考えていい。カメラの設置位置さえここまで制限されるとは、弱音のひとつも吐きたくなる。
「ってことは、僕たちが見られるのはあそこからの映像しかないのか。まるで砂漠で針を探すようなもんじゃないか。せめて現場が密室だったらなあ」
「密室でお地蔵さまを亀甲縛りにするなんて、聞いたこともない」
いや、もはや密室でなくともお地蔵さまを亀甲縛りにするなどという話は、世界広しといえどもここ以外では絶対に聞けないだろう。そう言ってやりたかったが、どうも真壁は気分が優れないようだ。つい今しがたまで調子がよさそうに喋っていたのに、いつの間にか普段より表情の起伏が乏しくなっているように見える。
「なあ、疲れてないか?」
「疲れるも何も……」
真壁がそう言いかけたとき、不意に扉が叩かれた。書庫に用事のある輩はだいたい勝手に入ってくるのに、このときは形式的なノックではなく誰かがこちらの反応を待っている。
「どうぞ」
「お仕事中、ちょっと失礼しますよ」
僕が返事をすると、ようやく扉が開かれる。そこに立っていたのは大山教育長だった。背が高く肩幅の広い痩せぎみの体型で、真っ白に染まりながらも豊かな髪は適度な長さに切りそろえられたうえで上品に撫でつけられている。特段に造作が整っているわけではないが、全体の雰囲気とも相まって格好よく、年齢を重ねたら僕もかくありたいという理想の姿に近かった。思いだしてみればいつも教育長はこんな感じでノックをするのだが、話に気を取られるあまりすっかり忘れていた。僕は急いで腰を上げ、真壁もさすがに体を真正面に向けて起立した。
「そんなに緊張しないで。今日はちょっと、これを届けに来ただけですから」
畏れ多くもその手に握られていたのは、紙の箱に詰められた一ダースのドリンク剤だった。静かな足取りで部屋にお入りになり、優しくテーブルに置いてくださる。
「お二人には大変な目に遭わせてしまって、申しわけありませんね」
悪いのは板垣議員と立川部長である。教育長が謝られる必要はない。僕は一も二もなく首を横に振る。
「いえ、とんでもありません」
「本当はこれを飲まなくて済むようになれば一番いいのですが」
「はい、私もそう思います」
「お仕事の方は、進んでいますか?」
「いいえ、この映像からだけは犯人像が掴みきれませんので」
掌を翳して差し示したモニターを教育長は興味ありげに覗きこまれ、程なく眉をひそめられる。犯人の容姿風貌が窺えないのを残念がられているようだ。
「なかなか難しそうですね」
それから僕たちの顔を眺めると、労いの言葉をかけてくださった。いつもの教育長だ。僕たちのような末端の係員にも心を砕いてくださるだけに、まだ二度目の巡回を終えたばかりとはいえ、結果が出せないでいるのを申しわけなく思ってしまう。
「でも、お二人が頑張っていればきっと捕まりますよ。お身体に気をつけてください」
したがって教育長が静かに扉を閉じ、高らかな靴音を響かせながら五階へ戻られていく間、僕はせめてしばし耳を澄ませることで誠意を示すつもりだった。しかし背後で雑音がする。振りむけば、そこではさっそく真壁が差し入れのドリンク剤に手をつけていた。
「おい、真壁」
僕が声をかけるのにも構わず、さっさと箱を開き一本目のフタを外して一気にあおる。
「何だ?」
そして飲みおえてから、訝しげにこちらを見やった。そういう目をしたいのは僕の方だ。
「教育長の差し入れだよ? 頂きますだとか、何か一言あってもいいんじゃないか?」
さっきは姿勢を正すだけでだんまりだったくせに、ものを貰うときの動きだけやたらと早いのはいかがなものか。どうにか窘めてみるも、うまく意図が伝わらない。
「普段からの敬意と感謝の気持ちは俺なりに表したつもりだ。だいたいもう部屋にはいないんだから、ことさらに畏まる必要はないだろう」
「僕が言いたいのはそうじゃなくて……」
「こういうときのドリンク剤は本当に助かる」
この日はどうやら聞く耳を持ってないらしいと見て、僕はそれ以上の話を止める。真壁の言動は別にして、ありがたくも教育長が僕たちの健康を案じてくださっているのはたしかだ。差し入れの品も、これから増していく心身の負担をお考えのうえでお選びになったに違いない。しかし今のうちからドリンク剤をこんなにもありがたがるとは、真壁は何をそんなに疲れているのだろうか。同じように巡回に出た僕は、一応のところ体力は回復している。大変になるとしたらこれからだ、と不思議に思ううちに真壁はドリンク剤のケースを部屋の隅にしまった。
「寒いこの部屋なら、ここに置いておくだけで保管できるだろう。広瀬くんも、疲れたときは飲むといい」