二 どうしてこうなった ④
一月十四日 土曜日
つつがなく成人式が行われてからちょうど一週間後の夜──真壁の出動した一回目は空振りに終わったらしい──僕はさっそく都合二回目の巡回に出、公用車のフロントガラス越しにお地蔵さまの監視に当たっていた。実際、付近をじっくり眺めてみると改めて様子がよく分かる。現場付近を東西と南北に走る道路は後者の方が優先らしく、前者のそれには交差点入口に停止表示がなされている。またいずれの道路も一車線ながら、路肩にかなりの幅がとられているおかげで見通しがよいという状況が掴めた。
したがって周囲の安全が十分に確保でき、かつ犯人が交通ルールに従った場合は逮捕の体勢を整えやすいという理由で、この日は交差点の北側に公用車を停めた。そして土曜日だけに犯行に及びやすかろうとの期待もあり、当初は何者かが来るのを今か今かと待ちかまえつつ十五メートルほど先にある現場を凝視していたのだが、僕は早くも退屈さに襲われていた。約二時間が経ち、手元の時計も午前零時を回ろうというのに何ひとつ変化がないのだ。目に映るのは上屋に光を遮られながら、うすぼんやりと街灯に照らされるお地蔵さまのお姿のみ。ドライブレコーダーも運転席からビデオカメラで撮影している動画も、後で確認したところで静止画像と見まちがえてしまうのではないかと心配になるほどだ。
「何もないっすね」
暇なあまり隣の助手席で声をあげたのは、体育課所属の野沢とかいう奴である。採用二年目のくせに髪を明るい茶色に染めており、私服とも相まってとても公務員とは思えない風体のチャラ男だった。小柄なだけに威圧感はないものの、はっきり言って一緒にいると僕のようなタイプはどうしても不愉快になってしまう類の人間だ。
「何もありませんね」
いちいち口に出さなくていい。いくら僕が無能でもそれくらいは視認できる。悪意の有無は別にして、この手合いの言動を目の前でやられるとやたら腹が立つ。
「犯人、まだですかねえ。広瀬さん」
「さあ、いつになるか」
喋られれば喋られるだけ、こっちのストレスが溜まる原因が分かった。あからさまに他人事といった態度のうえ、あまりに脳天気だからだ。あらかじめ犯人の行動が把握できていたら苦労はない。スケジュールを立てる必要もない。にも関わらず今夜の犯人逮捕を前提にものを言っている。本当に採用試験を通ったのかはなはだ疑問だ。
「あーあ、早く来てくれないかな。このままだったら、ホント無駄骨ですよねえ」
いま出てきてくれたらどんなに楽だろう。それなら緊張感の欠如著しい野沢など放っておいて、差しちがえてでも一人で捕まえにいく自信がある。こんな面倒くさい事件、さっさと解決できればどんなに楽なことか。そう切実に願う僕の隣で、野沢がまたも神経を逆なでする言葉を発する。
「せっかく予定が入ってたのに……課長が……」
たとえ巡回の当番を割りあてられて迷惑を被ったとしても、主管課以外の所属であれば出番はただの一度きりで済む。事件解決を直に命じられた職員は、一度ならず何度でも巡回に出なければならないどころか、一定期限までに犯人を捕まえなければ懲罰人事を下されるのである。担当者を前にしてぼやくべきではないはずだ。しかもこのふて腐れ方にくわえ、手元のスマートフォンがSNSの呼び出し音を頻繁に鳴りひびかせているところから察するに、結構なご身分らしくデートの約束でも入っていたように見うけられる。とはいえ、比較的まじめな面もあるようだ。
「あっ、あそこ。何かいないっすか?」
野沢がはっとした様子で真後ろを振りむき指をさす。おそらくサイドミラーに何か映ったのであろう、倣って同じ方を向くとたしかに人影が動いているのが見える。街灯がついているおかげで輪郭こそ朧気に浮かびあがっているとはいえ、ここから数十メートルは隔たっているせいで背格好までは判然としない。
「何だ?」
まさか。僕は独り言を漏らしつつカメラをズボンにしのばせ、首から双眼鏡を提げたままそっと公用車のドアに手をかける。
「様子を見てくるから、待っててください」
外に出ると、肌が冷たい空気に晒され軽い震えをもよおした。厚手のジャンパーは前をしっかりと閉め、ジーンズの下にタイツを穿いているのにその上から冷気が滲みだしてくるようだ。しかしそんな些末なことに気を奪われている場合ではない。ひょっとすると瓢箪から駒とでも言うべきか、さっそく犯人が姿を現したかも知れないのだ。僕は最初は電柱の陰から遠くにいる何者かの出方を窺った。
ところがいくら待てどもその人影は街灯の下でもぞもぞ動くばかりで、僕の方を警戒するのでもなく、かといってどこかへ移動するのでもなくその場に留まりつづけている。もう少し明るければある程度は姿が判別できるのに、街灯が壊れかけで光量が少ないのも、また人影自体が街灯からやや離れているのも不運だった。こうしていても吐く息が宙に白く浮かんでは消えるたびに、全身が徐々に寒さに刺し貫かれていくばかり。痺れを切らした僕は息を潜めて足音を殺し、暗がりの中に身を隠しつつ距離を縮めていく。
そして存在を勘づかれないギリギリの距離から双眼鏡で覗いてみると、街灯の下に何がいるのかが分かった。顔までは分からないものの、カップルが二人してキスしたまま抱きあっているのだ。ついさっき野沢が見つけたのだから十何分も前からではないにしても、数分はああしている。立ち位置を数歩、横にずらして目線を上に向けるとすぐ横にアパートらしき建物が見えた。どちらかが住んでいるのだとしたら、さっさと部屋の中に入ってからいちゃつくなり事を始めてもらいたい。近くにどんな変質者が潜んでいるか分かったものではなく、もしかすると人なり物なりを特殊な形で縛りあげる変態がその辺をうろついているのかも知れないのだから。僕は馬鹿馬鹿しくなり、さっさとその場を離れた。双眼鏡を首から提げた状態で長居をすれば、覗き魔と間違われる恐れもあったからだ。
公用車に戻ると、野沢があくびをしながら訊いてきた。
「どうでした?」
「ただのカップルだった」
そう答えるだけで結果をおおかた察したようで、それ以上の興味は示さなかった。代わりに背もたれから身を起こし、後部座席から手荷物を取りあげる。
「ちょっとトイレ行ってきていいっすか?」
「いいけど、どこにある?」
「住宅街の外れにコンビニあるみたいっすよ。外れって言っても歩いて四、五分くらいのとこに。スマホでさっき調べましたから」
「あっ、そう」
はんぶん返事を待たずに外へ出ていく野沢をバックミラー越しに見送りながら、頭の後ろで手を組んだ。なるほど実働八時間、休憩を入れて九時間もこうしているからには、トイレの問題がある。普通は二、三度くらい用を足しにいくだろう。よその課の当番が野沢のように勝手に場所を探してくれるとは限らず、中にはこちらから案内しなければ怒りだす職員がいるかも知れなかった。
それにしても、一人でこうしていると現場付近の異様なほどの人気のなさが目立つ。この日、監視をはじめてから人はもちろん車両の通行さえまったくない。人っ子ひとりいないという表現がまさに当てはまる。不幸にも現場に面しているのが幼稚園に私営の駐車場など夜は無人になる施設ばかりなのは仕方ないにしても、この時間帯に人の出入りがぱったり途絶える惨状を見るに、老人世帯が多いという町内会長の話が改めて説得力を帯びてくる。後方に建つやや遠くのマンションも、いくつも電灯が切れかかっている寂れようからして部屋は埋まっていまい。もちろん辺りは物音ひとつせず、唯一、耳に入るのは遙か彼方から暴走族によって発せられるエンジンの駆動音だけ。高齢化の進行するこのご時世、さらに地方ともなれば仕方がないとはいえ実に嘆かわしい限りだ。こんなにも人通りが少ない、というより事実上ゼロであれば、ああも立てつづけにイタズラをされておきながら目撃者が皆無というのもごく自然と言える。
そんな風に色々と考えを巡らせていると、正面から自動車のライトに照らされる。ついに人が来たか、と身構えたのも束の間、その必要がないことにすぐ気づいた。対向車は屋根にあのお馴染みの赤色灯をつけたパトカーだった。去年の会議で約束してくれたとおり、交番がパトロールをしてくれているのだ。向こうも火床市で巡回をしているのを知っていると見え、公用車に市のロゴがついていないにも関わらず、こちらの様子から身分を察して運転席から手を振ってくれる。非協力的な火床署の姿勢は別にして交番の方のご助力は本当にありがたく、僕も謝意を示すべく手を振って応えた。だがパトカーはほんの少し辺りを監視したあと、やはり他の業務もあるのか五分と経たずに走りさってしまう。
二度もぬか喜びをしたせいで、早くも疲労感に襲われる。古い公用車の暖房は質が悪く、加減が利かない。腰から上は暑くなりすぎるくせに、足下まで暖かくなるのにはやたらと時間がかかる。湿度の調整など望むべくもなく、車内はひたすら乾燥する一方のためスイッチのオンオフを繰りかえさざるを得ない。
不快な環境から気を逸らすべく、昨季に見逃した深夜アニメの配信でも視ようとスマートフォンを開いた。しかし外界と隔絶された自宅と違う環境のせいか、視聴をはじめてもどことなく興が醒めてしまう。たとえば現にモニターに映しだされているように、少女が肌を露わにするシーンで肝心な部分に光の帯が走る演出など、普段ならブログのネタにするくらいの余裕をもって楽しめるはずなのだ。それがこのときは、やたらと苛立ってしまう。続きはブルーレイでお楽しみください、というのは制作会社の常套手段だとしてもひどすぎる。ほとんど販促番組になっている──と憤りかけてふと気づいた。これでは肝心かなめのお地蔵さまが監視できないではないか。
急いでアプリを閉じ、スマートフォンをしまって現場に視線を戻す。幸いにもイタズラはされていない。暇を潰すにしても方法が考えものだ。視覚はほぼ固定せざるを得ない以上、自由が許されるのは聴覚くらい。かといってイヤホンで外部の音を遮断した場合、万が一にも何らかの異常が起きたときに対応が遅れる恐れがある。集中力も散漫になりそうだった。ならばと妥協して試しに車に備えつけのラジオを点けるも、どの局からも聞こえてくるのはFMにも関わらずノイズまじりの汚い音声であり、かつ僕の好みに合わないイベント商法の悪評が目立つ頭数だけ揃えたアイドルグループの楽曲ばかり。仕方なくAMに切りかえて、ようやく趣のあるアニメソングに辿りついた。
もっともそれも長くは楽しめない。FM以上に劣悪な音質で何曲か聴いているうち、いかにこの公用車が貧乏自治体の所有するに相応しい品質であるか、またこんな深夜にドサ回りに出されるとはどんな貧乏くじを引かされたかを身に沁みて感じさせられたからだ。そのうえ不意にドアが開けられる。予想していたよりも早く野沢が戻ってきていた。
「お待たせしました」
僕は慌ててラジオを消す。本当はもう少し聴いていたかったのだが、この手合いに僕のプライベートな趣味を明かすのは気が引けた。
「ラジオ聴いてたんじゃないっすか?」
本当にこいつは苦手だ。悪意がないだけに余計に腹が立つ。
「いや、やっぱり仕事に集中しよう」
「そうっすか」
野沢はそう言うなり、スマートフォンから伸びるイヤホンを耳に差しいれ音楽か何かを聴きだした。僕はといえばその隣でひたすらに前を見つめるのみ。しばらくそのままでいるといよいよ身体に疲労が溜まってくるのが分かる。同時に時間の経過がやたらと早く感じられた。時計の針が二時を回ったあたりで周囲を見まわしても一向に変化がない。そろそろ仮眠をとっても支障はないだろうと判断し、頃合いを見はからって声をかけた。
「僕はこのあたりで仮眠をとります。そっちの休憩はその後でいいですか?」
「いいっすよ」
「もし何かあったら起こしてください」
体力があり、ワガママを言わないのだけが救いだった。野沢が頷くのを傍目に見やりつつ、僕はシートを後ろに倒して瞼を閉じた。