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賢者モードとモスキート

 いつの間にか眠っていたらしい。


 目を覚ますと、男の後頭部と背中が目に入った。

 枕元の間接照明の下、男の肩が、オレンジ色に浮かんでいる。


 ぼうっとした頭のまま、眠る男の背中を眺めた。

 付き合いはじめた当時はあれほど引き締まっていた背中の肉も、四十近くなれば流石に(たる)みが……などと冷静に目の前の肉体を品評し、そんな自分に気づいて苦く笑う。


 不倫というのは確かに刺激的な関係だが、四年も続けば、こんなものらしい。あるいは、これが世に言う、賢者モードとかいうやつなのだろうか。


 首を捻って壁の時計を見る。眠っていたのはせいぜい一時間程度らしい。まだ少しだけ、こうしていられる時間は残っている。


 身体の奥に、痺れにも似た気怠さを感じた。

 余韻ではなく、気怠さであるあたり、人のことはあれこれ言えない。自分も小娘のままではいられないということだ。


 元の姿勢に戻ろうとして、ふと、男の肩に一匹の蚊がとまっているのに気づく。

 黒白まだらの胴体から伸びる、折れ曲がった細い脚。黒い針金のようなそれを踏ん張るようにして、透明な針を男の肌に突き立てている。


 少し迷った。

 叩けば、男は当然目を覚まし、妻子のもとへ帰ってしまうだろう。


 掌をあげた状態で固まっている間にも、蚊は針から血液を吸い上げては一心に飲み干し、その腹を赤黒く膨らませていく。


 躊躇(ためら)いながらも、ゆるゆると掌を男の肩に近づけた。

 いっそ逃げてくれれば、と思うのだが、蚊は微動だにしない。

 掌はそのまま静かに男の肩に置かれ、皮膚と皮膚の間で何かがぷつりと潰れる感触がした。


 ゆっくりと掌を離す。

 鮮やかな赤の量は、驚くほどに多かった。

 赤い染みの中、オブジェのように、黒い虫の破片がへばりついている。


 枕元からウェットティッシュを一枚取って、男の肩を拭いた。

 男は眠ったままだった。


 別の一枚を取り出して、自分の掌や指を拭う。その最中、ふと、(うず)くような(かゆ)みを覚えた。

 見れば二の腕に、ぷっくりと桃色の膨らみが浮かんでいる。


 ならばあの赤は──自分と男の血が混じり合ったものだったか。


 目を閉じた。蚊の姿が浮かぶ。黒白まだらの胴体の下、赤黒く膨らんだ腹が見える。


 切なさが不意に込み上げてきた。


 男の背ににじり寄り、頬を押し当て、肌の臭いを嗅ぐ。男がわずかに身じろぎをした。



 小さな虫の腹の中、糸玉のように絡み合いながら溶け合っていく、二筋の赤。

 胎児の発生のようなその光景を幻視しながら。


 私はまた、瞳を閉じた。



〈了〉

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― 新着の感想 ―
[良い点] 蚊の血が二人の混じり合ったもの。それを見てもう少しだけ関係を続けようと思う流れ。 [一言] 不倫はよくないですし否定派ですが、今まで読んだ「なろうラジオ大賞」のタグがついた作品の中で、一番…
[良い点] 色彩とかイメージが鮮やかで、ヴィヴィッドな、芸術的なポエムになっているな?と感じました。 [一言] 僕の小説も感想くださいね。♡
2019/07/24 19:02 退会済み
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