妄想の帝国 その10 健康管理社会 ダーク・ホスピタル治療篇
トーキョーイイカ大附属病院の若き男性研修医コウケンは健康を損なうほどの連続勤務や母校の不正入試、特定の受験生を差別するやり方に不満を覚えていた。そんな彼の診察室にとある患者がやってきて…。
増大する一方の医療費削減のため政府はある決定を行った。
“健康絶対促進法”の設立である。健康維持のため、あらゆる不健康な行動、食生活や生活習慣などを禁止するという法案である。個人の権利を侵害するとして反対もあったが
“政府に健康にしてもらえるんだからいいじゃん”
“自分の不摂生で病気になるやつのために医療費を払いたくない”
などの法案賛成の意見が多数あり、法案は可決された。
そして、不健康行動を取り締まる“健康警察”が設置された。
健康警察の活動は次第に拡大し、不健康を生じる組織、企業までが、取り締まりの対象となり、それに伴い違反者の裁判、収容、更生を担う健康検察や健康管理収容所などの組織が作られていった。やがて国民の理解や支持を得てゆき健康絶対促進法関連の組織は次第に権限を増していくことになった。
「ゴホ、しまった、研修医とはいえ医者がインフルエンザにかかるとは」
若い男性研修医、コウケンは診察室で急いでマスクをつける。もともと患者から移されないための用心のはずが逆の立場になったようだ。
「医者の不養生か。でも今日で夜勤をいれて、連続勤務が…何日だっけ」
正確には10日以上。ところどころ仮眠室などで休憩はとっているが、家には帰っていない。救急医も不足している現状、急患がきたら対応せざるを得ない場合もあるのだ。
「人数が足りないんだよ。本当は優秀な人に短時間でも働いてもらえれば。“育休後にも安心して働ければいいんだけど”っていってたなヤマドモさんも」
出産のためやむを得ず職を辞した先輩女医のことを思い出す。よく叱られていたが、的確なアドバイスを幾度もしてくれて秘かに尊敬し頼りにしていた。彼女が妊娠のためにやめたとき、妊娠を祝う気持ちと辞めることに恨む気持ちとでコウケンは複雑な気分だった。
「もっとサポート体制があればな。妊娠継続も危うくなるほどの勤務体制だったし、辞めなきゃ母子ともども危険だったから仕方ないけど。教授どもが少しは考えてくれりゃ、いいんだが、威張るだけで点数稼ぎの手術だの患者だのは担当したがるくせに、夜勤とか一般患者の診察は嫌がるんだからなあ。僕らだって最新の治療法とか学んで活かしたいのにそんな暇はないし」
コウケンは会議や打ち合わせなどで偉ぶった高齢の男性医師が高圧的に振舞うのに、うんざりしていた。彼らは患者を救うのに熱心に診察するでもなく、専門分野の研究に勤しむのでも、後輩を育てるわけでもない。ただ病院、大学内の派閥でいかに自分の地位を保つかに専心しているようにしか見えなかった。
「そうはいっても、僕もお情けで大学に入れてもらったのかもしれないんだよな。ただ男で、現役生で、将来こき使えるからって理由で」
母校であり、そして今まさに勤務している大学病院のトーキョーイイカ大の不祥事。女子と浪人生に対する差別、まるで患者を治す医師より自分たちの思い通りになる医師のほうがいいと言わんばかりのやり方をコウケンは嫌悪した。が、それにより自分が有利になったかもしれないと思うとさらに憂鬱になる。
「それは医者になりたかったけど、親戚に医者もいたけど。病気の人を治してあげたいからで、僕より良い医者になる人を押しのけてまでなんてなりたくなかった、まして」
こんな風に自宅にも帰れず、自分自身の体を壊すまで働くなんて。自宅には待つ人もいないが、そもそも家庭をもつことすら難しいのだ。同僚や看護師との恋愛?ある人もいるのだろうが、自分にはそんな余裕はない。逢瀬の途中で寝てしまいそうだ。
「はあ、でもせめて来た患者さんにはなんとか力に」
と、なんとか気力を振り絞っていると
「次の方どうぞ」
と患者を呼ぶ声がした。
「お願いします」
大きなマスクをかけた中年男性が診察室に入ってきた。
「今日はどうしました?」
コウケンが尋ねると、男性は
「いや、どうも風邪かインフルエンザじゃないかと。熱はないんですが、だるくて」
「いつからですか」
「えっとそうですね、おや、先生もマスクですか」
「これは、その、いろいろな患者さんがくるので」
「予防ですか。それにしては顔色がちょっとお悪いようですな」
「あ、ああちょっと忙しくて」
「インフルエンザ患者が増えましたからなあ。それにしてはお医者が少ない。確かここはトーキョーイイカ大の附属でしたな。大学の教授も医師免許はお持ちのはずですが、応援には来たりしないんですか」
「教授たちは忙しいですよ、今は受験シーズンだし」
「試験問題を作る人はそうでしょうが、そうじゃない人はそれほどでもないんじゃないんですかねえ。学会とかもないし」
「それは、その」
「こーんなに附属病院が忙しいのに手伝いにもこない。いやそもそも経費削減で、少人数でまわすため、若い研修医を休みなく働かせる。患者が治るには女医の方がよいということもあるのに、女性は妊娠出産があるからと使い勝手優先。患者の予後にはお構いなしなんですねえ」
「あ、あなた一体」
なんなんだ、この患者。医者の質問に答えるどころか逆に質問攻めにしてこれではまるで
「ま、まさか貴方」
「お気づきですか、健康検察特別検事ヨウジョウ・ダイジと申します。いや、本当は別のことで気が付いてほしかったんですが」
「え?」
「ここのところ毎日、この病院に来ていたのですよ、私。帽子や眼鏡をかけてましたけどね。見舞いに来た人や業者にも変装したとはいえ、何回か患者としても来てたんですけどねえ、先生が少なくとも連続10日この病院にいらっしゃることも存じております。しかし、同じ人間が何回もうろついていたことも見抜けなかったとは。そこまで観察力や記憶力、判断力が鈍っていらしたんですか、これはいけません」
ヨウジョウはマスクをとって、にこやかにつづける。
「コウケン先生、貴方の方にこそ、治療と休養が必要です。なに、先生はお若いですし、被害者の一人と言えますからな、一年もたたずに健康になって復帰はできるでしょう。ただし、自我も身体も肥大しきった不健康な教授たちや院長などはかなりの時間を要するかもしれませんな」
診察室の外が騒がしくなった。男性がわめき散らす声が聞こえる。
「どうなってるんです、まさか、ここを捜索するつもりですか。まだ患者が」
「ご安心を。今いる患者や診察に来た人はほとんど我々の組織のものです。本物患者さんたちは我々が秘かに転院させました、医者もスタッフもサポート充実でしっかりしたところです。貴方の先輩ヤマドモさんも働いてらっしゃいますよ」
「ヤマドモさんが、それならよかった」
勤務先が健康検察の捜索をうけているというのに、コウケンは何故かほっとしていた。
(このままここにいたら僕が病気になっていた。そうでなくても疲れてミスしていたかも)
放心状態のコウケンにヨウジョウが声を掛ける。
「さあ、コウケン先生、行きましょうか。ヤマドモさんのところでじっくり心身ともに健康になってください。よいお医者さんをみんな必要としてるんですからね、ちゃんと直してまた復帰して下さい」
「そう、そうですね。僕自身が健康にならないと、でも僕は良い医者といえるんでしょうか」
疲労困憊でヨウジョウが何度も来ていたのに、わからなかった自分。上司の命令とはいえ、重い病を見逃す危険を冒しながら患者を診察していたような自分が良い医者になれるのだろうか。
「今の勤務実態は無理強いされたもので、貴方の意志ではないですよ、診察が雑になってしまったのもね。本当は患者に親身になって対応したいんだという貴方の言葉をヤマドモさんは覚えてましたよ。そういう医者が必要だと思いますよ、私は」
ヨウジョウの言葉にコウケンの目が何故か熱くなった。頬に涙が伝わる
(僕は医者でいていいんだ、ヤマドモさんも認めてくれたんだ)
ヨウジョウは半泣きになっているコウケンの手をとり
「さて、コウケン先生、ヤマドモ先生の診察をうけてもらいますよ。さっさと治していただかないと困るんですよ、患者さんたちが貴方のような良い医者をまってるんですから」
ともに診察室を出た。
インフルエンザの猛威はおさまったようですが、まだまだ気温が安定しないこの季節、医者も患者も健康を心掛けたいものですね。