(中篇)
◆
しかし簡単に何かが変わる訳でもなく、わたしはアルバイト先のパン屋と自宅の往復を繰り返していた。そこに時々ライブが加わるくらいの、単純な日常の繰り返し。
パン屋でも製造は叔父夫婦のしごとで、わたしはトレイに載ったパンを確認して、レジを打つくらいだ。
「いらっしゃいませ」
扉を開けて入ってきた人間に、思わず息を呑んだ。
身頃がライトグレーで袖がホワイトの少しおしゃれなかたちのシャツを着た、細身の青年。髪の色は深い茶色で、清潔感を身に纏っている。
ワンマンライブのときは一瞬でしかなかったけれど、判る。くらげ青年だった。友人らしき男性と2人で談笑している。
咄嗟に、わたしは気づかれないように俯いた。
悪いことをしてる訳でもないのに、心臓が早鐘を打つ。どうか気づかれませんように。
しかしそんな祈りも虚しく、レジに来たくらげ青年は、あれ? と声をあげた。
「もしかして」
「あ、は、はい」
にこっ、と微笑んでくる。
「うわーこんな近くで会えるなんて思ってなかったです。あのときはありがとうございました」
「何? 知り合い?」
友人くんがわたしのことを興味深そうにじろじろと見てきた。2人の雰囲気はとても似ている。まるで双子の兄弟のようだった。
「そうそう。先出てて。俺が会計しとくから」
「おぅ」
小さく会釈をしてから彼の友人が外へ出る。
「あいつがいると緊張するかと思って」
ナチュラルに敬語が崩れる。
彼にまったく悪気はないのだろう。
寧ろ、わたしが人見知りだと理解して、気を遣ってくれたのだろう。
「この近くに住んでるの?」
「あ、はい……」
「俺も大学がこの近くなんだ。今日何時上がり? よかったらご飯でも行かない?」
「17時、です……」
「オッケー。じゃあ17時半に、また来るね」
思わず答えてしまって、後悔の念に駆られたのは説明するまでもない。
◆
くらげ青年は飄々とした様子でオムライスドリアを食べている。わたしは熱々のナポリタンに悪戦苦闘。
「えっ! 25歳……? タメくらいだと思ってた」
無理もない。わたしだって、イメージする25歳はさくらみたいな子だ。
髪色は明るく染めて、メイクしていることを気づかせないくらい上手にメイクして、ふんわりといい香りが漂っていて。着ているものは雑誌にそのまま掲載されそうなひらひらとしたスカートで。
わたしとはまるっきり逆の存在。
メイクだってちゃんとしたことはないし、着ているものは基本的にTシャツとパンツ、足元はスニーカーだ。下手したら高校生に間違われるだろう。
「すみません」
「いやいや。どうして謝るの。あ、っていうか、面倒だからこのまま敬語じゃなくてもいい? そういえばあそこのパン、甘いやつが美味いよね。俺もメロンパンとかクリームパンとかすごく好き」
叔父夫婦の店を褒めてもらっても、どんな風に返せば正解なのか分からない。
やはり逃げてしまえばよかったと、頭のなかを後悔が占めかける。
「あ、あの」
わたしはなけなしの勇気を振り絞った。
「どうして、わたしなんかに」
「え?」
「ツイッターで知り合ったひととは、よく会ったりするんですか?」
「あー、そうだね」
ぽりぽりと、彼は頬を掻いた。
「ぶっちゃけ、初めて。あおさんは好きなバンドが被ってるし、こう、出会い目当てって感じもしないし、日常がまったく見えないし。そんなミステリアスな感じが気になって」
「はぁ」
「会ってみたら、たしかに不思議なひとだった」
満足、と言いたげに笑っている。
悪い気は、しなかった。
緊張しすぎたのか、最後までナポリタンの味は分からなかった。
◆
【くらげ@ ふがいない。大事な人間に、想いを伝えることが下手すぎる自分。悔しい】
深夜2時。
ふと目が醒めたついでに暗闇のなかでツイッターを開くと、くらげ青年が珍しく落ち込んでいるように、見えた。
いつも明るい彼にも、人間関係において悩みなんてあるんだろうか。
わたしは一言一句考えながらもスマホのキーボードをタップする。
【あお@ 大事なひとがいることが羨ましいです。くらげさんなら、後悔しないように、きちんと伝えられると思います】
それは自然と湧き出た感情。
……おせっかいだろうか。だけど言わずにはいられなかった。
大事な人間がいるだなんて、それだけで羨ましいのに。自分の心を動かしてくれる相手がいるなんて。
そうやって思ってしまうあたり、わたしはやっぱりだめなんだろう。
しばらく青白い画面を眺めていると、くらげ青年からリプライが届いた。
【くらげ@ ありがとう。……ありがとう】
彼らしからぬ、たった二言。
少しでも励ましになっただろうか。
くらげ青年の、役に立てただろうか?
わたしは返信しようと言葉を考えたけれど、再び眠気に襲われて、会話はそこで途絶えた。
‒‒夢のなかでわたしはくらげ青年を見た。
彼は藍色の闇にうずくまって、わたしに背中を向けていた。
わたしはどう言葉をかけていいか分からないけれど、声をかけたいと、ずっと考えつづけていた。だけど結局何もできずに目が醒めた。
わたしなんかが彼に伝えられるものなんて、ないのだろう。
◆
雲ひとつない清々しい青空の下。
駅前のロータリーに入ってきたのは、そのままミニチュアにできそうなかわいいホワイトとエメラルドのツートンカラーの自動車。
ヘッドライトが人形の瞳のように愛らしい。全体的には、レトロという表現が近いかもしれない。
「お待たせ!」
窓を開けて、運転席からくらげ青年が手を上げた。
今日は襟が花柄の黒いシャツを着ている。
「助手席しかないから隣に乗って」
運転席と助手席しかないなんて。今までに乗ったことのない、小さな自動車だ。
「……お邪魔します。お願いします」
「丁寧だなぁ。家にはクルマが2台あるんだけど、1台はでかいからこっちを借りてきた。フィガロって言うんだ。かわいいだろ」
「かわいい、です」
内装も今まで見たことがないレトロさでとてもかわいい。
「親父の恋人のなんだけど」
母親、という表現ではないことに事情を感じて口を噤んだ。
……勿論、デートなんかではない。
わたしたちはこれから隣の県のライブハウスへ向かうのだ。
きっかけはわたしが遠くで開催されるワンマンライブへ行ってみたいとツイートしたことだった。チケットもまだあったので、くらげ青年が半ば強引にこの遠征を決めたのだ。
「出発進行!」
オーディオ機能は不調らしくて、BGMはスマートフォンから直接流す。
「オープンカーだけど、街中では排気ガスがすごいから我慢。晴れた日の海岸沿いとか走ると最高なんだけどね」
家族以外が運転する自動車に乗るのは初めてだった。少し緊張して、両膝の上に拳を置く。
「大丈夫だよ。安全運転で行くから」
ヴィケルカールの曲を口ずさみながら、のんびりと自動車は走りだす。
くらげ青年は犬が好きで昔は飼っていたとか、わたしは動物アレルギーだからペットがいたことはないとか、他愛のない話をしながらゆっくりと街中を走る。
ふっと無言になる瞬間が訪れて、わたしはくらげ青年の横顔を見た。
ごく普通の、たぶん、わたしが今まで出会ってきたなかでも、普通のなかの普通の雰囲気を纏っている。
……こういうひとのことを好きになれたら、いいのだろうか?
なんて考えてみるけれど、そもそも、恋愛感情とは何なんだろう。
普通とは何か、を常々考えながら生きているわたしにはさっぱり分からないのだった。
「コンビニ寄る?」
不意にこちらを向かれて息が止まりそうになる。
「あ、はい」
コンビニでくらげ青年と自分用にアイスカフェオレを買う。蓋に刺さったストローに袋が被さっている方を手渡した。
「ガムシロップ入りがこっちです」
「ありがとう。後で払うね」
「いえ。運転してもらってるし、これぐらいは」
「優しいなぁ、あおさんは」
伸びをしながらくらげ青年が言う。
「俺の友だちにそんな気を遣える奴いないよ。彼氏さんが羨ましい」
「い、いえ、いたことは……ないです」
「そうなの? 俺は、この前パン屋に一緒に行った奴。あおさんも会ってる」
「へ」
なんとも間の抜けた声が出てしまった。
この前って。たしか、男性、では?
「別れたばっかだけど。さ、行くか」
さらりと爆弾発言がなされたのに、何事もなかったかのように、くらげ青年は運転席へと戻る。わたしは慌てて助手席に乗る。
親父の恋人という表現といい、今の一言といい、今日は、驚かされることばかり聞いている気がする。
キャパシティがオーバー気味で黙り込んでいたら、くらげ青年が先に口を開いた。
「……訊かないの?」
え? と尋ねる前に、進行方向を見据えたまま、彼は言った。
「俺、簡単に言うと、バイセクシャルなんだ。この前の深夜のツイート……あれは、別れようって言われて、ちょっとまいっちゃってて。あのとき、だいぶあおさんの一言に救われたんだ」
「……そうだったんです、か」
わたしなんかの、あんな一言で、よかったんだろうか。
くらげ青年は、その彼に、ちゃんと想いを伝えられたのだろうか。
だからこうしてわたしに話してくれているのだろうか。
それが事実だとしたならば、少し、ほっとする。
「あおさんなら常に落ち着いているから、こういう話してもどん引きされないかなって思って」
信号が赤に変わり、フィガロは緩やかに停車する。
「普通の人間、って何なんだろうな」
それはわたしにとって意外すぎる呟きだった。
くらげ青年こそ、普通の人間の代表だと思っていたけれど。
まさか同じ疑問を抱えていたとは……。
「俺も別に隠したりしたいんじゃないんだけど相手が嫌がるから、いつも黙ってて。でもそしたら、それはそれで嫌だったみたいで。わっかんないよなー。他人の考えてることなんて」
「……そうですね」
「なんか、よく分かんないけど、あおさんといると安心する」
「え?」
「ううん。なんでもない」
くらげ青年ははぐらかしてみせたけれど、言葉はたしかに耳に残った。『安心する』なんて言われたのは生まれて初めてのことで、なんだか、胸の辺りがむず痒くなった。
◆
購入が遅くチケットの整理番号が後ろの方だったから最前列には行けなかったけれど、ライブは本当に楽しかった。
初めて、出待ちもしてしまった。
メンバーがライブハウスから出てきたところにくらげ青年が声をかけて、チケットの半券の裏にサインを貰ってしまった。
まるで1枚の紙切れが宝物になったようだった。
震える手で握手もしてもらえた。勿論わたしがまともに喋れる筈もなく、すべてくらげ青年任せだった。
それでも、そんな経験は初めてすぎて、うれしくて、楽しかった。
「あおさんがそんなにやにやしているの初めて見た」
歩きながらずっとチケットを眺めていると、まるで子どものようだと、くらげ青年が笑ってきた。
そう言われても悪い気はしなかった。
だって、楽しい。なんて、楽しい時間だったんだろう。
コインパーキングに辿り着いて精算機に駐車番号を入力する。料金が表示された。1200円。躊躇わず支払う。
「寄り道して帰ろうか」
すると、にこにことくらげ青年が提案してきた。
「25なら、門限もないよね?」
「……一応親に訊いてみます」
おそるおそる電話すると、気をつけてね、朝帰りはしないように、との一言で済まされた。あっけなさすぎて拍子抜けしてしまう。
そして、拒否しなかった、自分自身にも。
◆
連れて行かれたのは夜の海岸だった。
近くのコンビニにフィガロを駐車して、オレンジジュースを買い、海岸まで降りて行く。
海水浴シーズンがとっくに終わっている夜の海。
昼間には白い砂浜と青い海なのかもしれないけれど、暗い砂浜と黒い海。曇っているからだろうか、月や星は全く見えない。
人気は勿論、灯りもない。静謐な世界。
ただの闇だ。
気を抜けば飲みこまれてしまいそう。まるで人間の住む世界じゃないみたいだ。
ライブで流した汗をゆっくりと潮風が乾かしていく。
「こわい……」
思わず口をついて出た言葉に、両腕で自らを抱きしめる。
「じっと、耳を澄ますんだ」
くらげ青年が隣で囁いた。
彼のそんな低くて暗い声を聴いたのは初めてだった。表情は闇に紛れて分からない。
「夜の波の音って、ベースみたいだから。身を委ねていると、だんだん、心地よくなってくる」
わたしはそっと瞳を閉じた。
わたしと、海と、空と、闇が融けあってひとつになるような感覚に襲われる。包まれる。
どこまでが自分で、そうでなくて、どこまでが正常で、どこまでが異常なのか。そんなこと、どうでもよくなっていくような……。
ふぁっと何かに包みこまれた。
後ろから抱きしめられていた。くらげ青年に。男性の引き締まった体と、力強い腕。
ぴたりと、重なって。影は闇に紛れて。
……嫌ではなかった。
嫌ではなかった、けれど。
急速に全身が恐ろしく冷たくなっていくような感覚に襲われる。頭のどこかで、ひどく冷静な自分が、自分を見ているようだった。わたしはその自分が何か話しかけてくるのを必死に聞かないように努める。
一方で無言を肯定だと受け取ったのかもしれない。
くらげ青年が、頭を右肩にもたれかけてくる。少しの滞在でも、髪の毛からは潮の香りがした。
「……ごめん。ちょっとだけ」
ひどく掠れた声だった。
泣いているのかどうか、わたしには分からなかった。たとえ泣いていたとしても、その理由は、わたしには想像もつかなかった。
◆
にやにやとしているさくらの期待にはとうてい応えられる筈もなく、わたしは首を横に振る。
「わたしっぽく、ない」
「かわいいって。流行りだから間違いないって」
ファストファッションのお店で、たくさんの色と形に囲まれて、わたしは着せ替え人形と化していた。
「いきなりスカートはハードル高すぎるよ」
「えー。じゃあガウチョにする?」
イエローベースの花柄ガウチョ。ブラックの小花柄。はたまた、派手なオレンジ。
次々とさくらがわたしに服を当てては、こうではないとぶつぶつ悩んでいた。
「デートでしょ?」
「違うって」
「え? だって、付き合い出したんでしょ?」
「違う、って……」
何度説明しても納得してくれない。
かいつまんで隣県へライブ遠征したということを話すと、さくらは意気揚々と服を買いに行こうと言ってきたのだ。海に行ったなんて話したら次に何を言い出すことやら。
「だって次の約束もあるんでしょ。あたしからしたらそれは完全に付き合ってるよ。あとは一発ヤっちゃえば完璧」
「……さくら、それは」
えげつない。
表情で言いたいことを察したのか、けらけらとさくらが笑い飛ばしてくる。
「何恥ずかしがってんの。寝てみなきゃ分かんないことってたくさんあるよ? 経験がないから理解できないだけで。だって、あたしはいつだって、男のひとで満たされていたいもの」
さくらの言葉はどろりと流れ出してわたしの全身に纏わりついてくる。頭が、くらくらした。
だけど否定したって取り合ってもらえる筈もないので黙っていると、さくらは話題を変えてきた。
「そういえば、なみちゃん、オメデタだって。式のときはもうお腹にいたみたいだよ」
「そうなんだ」
乾涸らびた喉から声を振り絞る。なみちゃん、というのは結婚披露宴に招待してもらった友人のことだ。
「あたしも子ども欲しいなー。30までには2人産みたい」
「さくらの子どもならかわいいよ、きっと」
「そういう自分は?」
再び、奈落に落とされたような気分になる。
「……ぜんぜん、考えたこと、ない」
嘘だった。
「ちゃんと考えなきゃだめだよ。出産にはタイムリミットがあるんだから。この前お局さまに真剣に言われちゃった。チャンスは年に12回しかないんだよ、って」
ははは、と笑うのがやっとだった。
どうしてそんな自然に、子どもがほしいとか、行為をしたいとか、思ったり口に出せたりするんだろう。そういうことを考えただけで、わたしは、背筋が粟立つというのに。
不快感とは違う。違和感と表現するのが近いかもしれない。とにかく考えたくない。考えるだけで、吐きそうになる。
子どもが嫌いな訳ではない。ただただ、それがわたしから最も遠いもののような気がするのだ。
……ことさら強く感じるようになったのは、あの海岸での夜からだった。
波音と共に思い出す。
くらげ青年が失恋の寂しさを他人の体温で紛らわそうとしたことは、徐々に、わたしでも理解することができた。
では、わたしは?
……その先はないだろうということも、同時に悟ってしまったのだ。
彼のことは好きかもしれない。
だけどそれは人間として、信頼に値するだろう、というくらいで。たとえばこの先、わたしの想いが強くなったとしても、付き合いたいと考えるだろうか? 一連の行為を求められるだろうか?
答えは、ノーだった。
どんな風に思考を巡らせても、イエスに辿り着かない。さくらのようにはなれない。
「どうしたの?」
はっと我に返る。
「すごく怖い顔してたけど、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。一瞬ぼーっとしちゃった」
「そんな考え込む必要ないって。ほんと、真面目なんだから」
店内では数年前に大ヒットした映画主題歌のオルゴール版が流れている。