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(前篇)


 世界が、安定しない。

 履き慣れないピンヒールは容赦なくわたしを刺してくる。一歩進む毎に視界はよろめき、痛みは増す。靴擦れに貼ったばかりの絆創膏はあっという間にずれてしまった。

 歩くだけでこんなに辛いなんて。

「ウェッジソールにすればよかったのに」

 隣を歩く友人の冴島さくらがくすりと笑みを零す。

 さくらはわたしよりも高いピンヒールを履いているのに平然としていた。そもそも普段からヒールを履いているから支障はないのだろう。

 ヘアサロンで早朝特別料金を払って、きれいにアップされて花飾りが乗せられた髪型はとても似合っている。耳元では小さなダイヤモンドのピアスがゆらゆらと揺れていた。普段よりも濃いめのメイクに違和感はない。

 ショッピングビルの前を横切るときに、フリーペーパーに掲載するスナップ写真を撮らせてほしいと頼まれていたのはさくらだけだった。

「ウェッジソールだって、かわいいデザイン、いっぱいあるよ」

「だってお店の人が薦めてくるから」

「薦められるままに買ったの? 馬鹿。だから、一緒に行ってあげるって言ったのに。これから結婚式ブームだから履く機会なんてごまんとあるのよ? その度に靴擦れ起こしてたらたまんない」

 正論すぎてわたしは視線を地面に落とす。ビジューのたっぷりついた、ライトベージュの、お姫さまが履くような靴。

 スニーカーしか履かない身としては、こういう機会だからこそ挑戦してみたかったのだけど、あだとなってしまった。

 そもそも引き出物のたっぷり詰まった紙袋がこんなに重たいなんて知っていたら、ピンヒールなんて選んだりしなかったろう。わたしはこういうところが世間知らずなのだ。

 紺色のてろてろした布にビーズやスパンコールが適度に施されたワンピースも、お揃いのサブバッグも、浮かれて購入してみたけれど。

 さくらと同じヘアサロンで、セットアップやメイクもしてもらったけれど。

 やはり、どこかちぐはぐに感じてしまう。

 わたしはいつも、どこかでずれている。

「もう、しょうがないんだから。カフェにでも寄る?」

 さくらに提案されて、痛みをごまかすためにも大きく首を縦に振った。



「お姉ちゃんの結婚式しか出たことなかったけど、やっぱりいいよねぇ。結婚式。結婚はどっちでもいいから、式がしたいなぁ。そして全部自分のしたいようにするの」

 三毛猫のイラストが描かれたカプチーノをひとしきりスマートフォンで撮影してから、うっとりとさくらは感想を述べた。

「さくららしい」

「だってまだ遊びたいんだもーん。でもきれいだったなぁ……。ねぇ?」

「そうだね」

 わたしにとっては人生で初めての結婚披露宴参列だった。

 式場のチャペルで、左側の椅子の端に座り、渡された賛美歌を周りに合わせてなんとか口ずさんだ。

 新婦入場で父親と腕を組んでバージンロードを歩く友人の花嫁姿を見たときは鼻の奥が熱くなった。

 フラワーシャワーではがんばって手を高くあげて、色とりどりの造花を空に舞わせた。

 披露宴では見たことのないご馳走が出てきて、アルコールも少しだけ口にした。

 新郎新婦の紹介で高校時代の懐かしい、少しピンぼけした写真がスクリーンに映ったときはさくらが大笑いしていた。そして、さくらと一緒に映ったビデオレターは直視するのが恥ずかしかった。

 上司からの紹介やたくさんの余興や両親からの手紙で、ふたりがいかに愛されて育ってきて、そしてこれからも愛されていくのだろうというのは、充分すぎるくらいに理解できた。

 だから、「そうだね」という言葉は、きれいで美しい時間だったね、という同意のつもりだった。

 しかし常に恋人を切らさないさくらにとっては違って聞こえたらしい。

「まさか、好きなオトコでも、できた? ついに? とうとう?」

 一気に真剣な表情に切り替わると、テーブル越しに顔を突き出してくる。

 それがあまりにも唐突すぎたのでわたしはびっくりしすぎて瞳を大きくすることしかできなかった。

 高校1年生からの付き合いだから10年めになるだろうか。だいたいのことを理解してくれている親友は、大きく、わざとらしく溜息をついた。

「ちょっとー……。25にもなって初恋がまだなんて、ほんと、どうかしてる」

 それは会う度に向けられる、同情未満の感情だった。

「一生処女でいるつもり?」

「酔ってる?」

「まさか。シャンパンやワインで酔っ払うほどかわいくできてませんから」

 カットフルーツとホイップクリームたっぷりのパンケーキがさくらの前に運ばれてくる。披露宴でフレンチのフルコースと山盛りのスイーツを堪能した後なのによく入るものだ。

 パンケーキもひとしきり写真を撮り終えると、スマートフォンから視線を離さずにさくらは続けた。

「あたしはあんたが心配なのよ」

 SNSにパンケーキとカプチーノの写真を投稿しながら。

 小花のあしらわれた、きれいなフレンチネイルの指先で。

「高校の頃はきちんとした奴だなって思って一目置いてたときもあるんだから。なのに、まともに就職もせず、フリーターで、休みの日はライブハウス通い?」

「休みの日でなくてもライブには行くよ。最近は全然行けてないけど」

「馬鹿。そういう意味じゃない。あんたには人間として大事なものが足りてない」

 ぐさり。

 言葉や心に形があるとしたら、今のは確実にわたしに刺さっていただろう。人間として大事なものが足りていないことくらい、わたし自身が一番解っている。

 だけどどうしていいのか分からずにいるというのに。

「そうだねぇ……」

 故に、同意のような、自嘲のような、うまく説明のできない感情が零れた。

「そもそも、合コンに誘ったってうまくいった試しがないしさ。それがあたしには信じられない」

 順調に四年制大学を卒業して、事務職に就き、女性誌の1ヶ月コーディネートに出てくるような毎日を送っているさくらには、わたしのことは不可解な生き物に映るのだろう。

「せめて年内には彼氏をつくること。そして、真っ先にあたしに会わせること」

 なにがそんなに楽しいのか、さくらは何を口にしても艶の落ちないぽってりとした唇で呟く。

「あたしが見極めてあげるから。そいつを」



 朝、目が覚めて、布団を被ったまま、真っ先にすること。

 水色の背景に白い鳥のマークが浮かぶツイッターのアイコンをタップする。

 おはようの文字が並ぶタイムラインをぼんやりと眺める。どんな人間なのかは知らないけれど、毎朝、彼もしくは彼女たちが朝を告げるのを確認することは、いつの間にかルーティンワークになっていた。

 ツイッターに登録したのは3ヶ月くらい前のことだ。

 最初は、好きになったばかりのバンドの情報を得る為だった。インディーズで活動している彼らの情報は得づらく、彼ら自身のアカウントがあるツイッターで確認するのが手っ取り早かったのだ。

 そのバンドとの出会いはライブサーキットだった。元々好きだったバンドの前に彼らの出番があったのだ。小さなライブハウスで、本命バンドを観る為に最前列を確保したくて、名前しか知らないそのバンドのときから会場にいたのがきっかけだった。

 ヴィケルカール。

 エストニア語で『虹』。

 バンドのメンバーもわたしも、エストニアがどんな国で、どこにあるかはよく分からない。

 ギターヴォーカル、ギター、ベース、ドラムという4人構成のバンドであるヴィケルカールの特徴は、攻撃的な歌詞と歌声に対して、美しい風景のようなメロディーが映える楽曲だ。単純かと思えば耳を凝らすとそこには力強いリズムが潜んでいて、全体をしっかりと支えてくれている。一気に虜になった。ライブハウスの中で終演後すぐに一般流通していないミニアルバムを全て購入して、帰宅してすぐスマートフォンに取り込んだ。

 ちょうど本命バンドが大手レーベルからメジャーデビューを果たしたばかりで、その売り出し方に疑問を感じてついていけなくなり始めた頃だったというのもある。

 曲を聴けば聴くほどヴィケルカールのライブが待ちきれなくなった。

 やがてわたしと同じ感情を持っているアカウントがタイムラインにおすすめとして表示されるようになり、思わず一般人のアカウントも何人かフォローした。

 フォローバックしてくれる人もいたけれど、わたしは何も呟かず、ツイート数は未だゼロのままだ。アイコンだって初期設定のまま。顔のない無機質なヒトのモチーフ。

 それでもいつしか、フォローしているアカウントの、ごく日常的なツイートを楽しみにするようになっていた。まるで、いろんなひとの頭のなかを同時に覗けているような気分になれた。

 現実世界の友人関係と違って、一方的に眺めている状態のなんと楽なことか……。

 自分自身が内向的な性格なのは熟知していて、友人だと呼べる人間もかなり少ないのは事実ではある。それでもその少ない友人たちと定期的にやりとりをしたり、会って話をするという作業そのものには疲弊してしまう。

 人間とは。他人とは。

 わたしにとっては、未知の領域、なのだ。



【くらげ@ おはようございます】

 フォロイーのなかでもとりわけ興味を抱いているのは、「くらげ」という名前の人物だった。

 やわらかい雰囲気のツイートから推察する限り、20歳前後の女性、大学2年生だ。

【くらげ@ 免許ゲット! 家の車を借りてドライブするんだ〜】

【くらげ@ フル単ばんざい!】

【くらげ@ とりあえず朝ごはん〜】

【くらげ@ バおわ。今日はこのあとサークル飲み!】

 フル単というのは今期の単位がすべて無事に取れたということ。バおわというのは、バイトが終わったということ。文脈でなんとなく理解した。

 きっと友人も多く、恵まれた人生を送っているのだろう。厭味のない明るさが滲む文面や、他愛ない日常風景を切り取った画像に、わたしはもう一度大学生活を送っているような気持ちになるのだった。

 わたしも一応大学は卒業したけれど、得たものはひとつもなかった。

 特に卒論を書き始めてからは、毎日、しんどくてたまらなくて、ゼミにもなかなか足を運べなかった。突然目の前が真っ暗になる感覚が襲ってきては、体を動かなくさせる。頑張ろうという気力はその度に削がれていって、最終的には底をついた。やっとの思いで卒業はしたものの、就職活動に割く心の余裕は一切なかった為に、そのまま社会に放り出された。

 というか、そんな状態で、社会人として生きていけると思えなかった。誰かと協力して、社会の歯車になって、毎日働くというイメージがどうしても自分に当てはまらなかったのだ。

 結果としてわたしは今、大学生の頃からアルバイトをしていた親戚の営むパン屋で、週に5回、アルバイトのまま働いている。

 ……さくらにも、言われたけれど。

 自分でもどうしてこうなってしまったのか本当に分からない。

 いじめに遭ったことはない。

 両親の仲も良好だ。

 自分のことを否定するのは、わたし自身しかいないというのに、どうして「普通」というものが理解できないのだろうか。

 わたしにとって、生きていることは罪で、生きるということが、罰そのものだった。

 何の為に生きているかはっきりしたことなんて、一度もなかった。

 だからこそ、くらげというアカウントを、羨ましくも思っていた。



 突然、スマートフォンのロック画面に通知が表示された。

【ヴィケルカール公式@ 半年ぶりの新曲です! これまでとは違う方向性にびっくりするかもしれないけれど、これも僕たちの作品です。どうか愛してもらえますように http…】

 ヴィケルカールの新曲!

 迷わずにリンク先から動画サイトへすぐに飛んでショートバージョンを視聴する。ミュージックビデオは演奏している姿を中心とした、まるで短編映画のようなものだった。

 優しいヴェールを纏っていても彼ららしさがしっかりと滲んでいて、一聴き惚れする。

 心音は一気に跳ね上がり、わたしは興奮冷めやらぬまま、震える指でリツイートした。

 それだけに留まらず、ぎこちなくも指が勝手に動くのを止められなかった。

【あお@ 新曲おめでとうございます! この日を心待ちにしていました。すごく優しい雰囲気だけどヴィケらしくて好きです。早くフルで聴きたいです。ワンマンライブ期待しています】

 あお、というのはわたしのアカウント名だ。ヴィケルカールの曲名にちなんでいる。

 ツイート数が、増えた。

震える手を落ち着かせる為にお茶を飲もうと、居間へ行く。

 大丈夫。ただのひとりごとだから、これくらいは感想を呟いたっていいだろう。

 誰にも気づかれたりはしないだろう。大丈夫。大丈夫。


 お茶を飲み、お手洗いを済ませて自室に戻ってきたところで、スマートフォンのロック画面が再び光って通知を表示していた。

【ヴィケルカール公式さんがあなたのツイートをリツイートしました】

【くらげ@ はじめまして! 随分前にフォローしていただいていたのに気づかずすみません。あおさんも、ヴィケがお好きなんですね。フォロバさせていただきます!】

【くらげさんがあなたをフォローしました】

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 思わず手にしていたスマートフォンを床に落としそうになった。

「……」

 リツイートしたのもあって、バンドのアカウントにエゴサーチされてしまったと気づくのにはかなりの時間を要した。

 ただただ、びっくりした。

 画面の向こうには他人が存在していると知っていた筈なのに、わたしは、まったく理解していなかったのだ。

「……どうしよう」

 さっきの衝動を俄に後悔する。全身が震えていた。熱いのか寒いのか分からなくなっている。お茶をもう一度飲みに行こうかと思ったけれど、足に力が入らない。諦めてベッドに座り、壁にもたれかかった。


 時間をかけてわたしはくらげさんへリプライを送る。

【あお@ ありがとうございます。こちらこそ勝手にフォローしてしまって、すみませんでした。】

【くらげ@ 無言大歓迎です! 宜しくお願いします〜】

「は、はいっ」

 勝手に、ほんわかとして明るい女子大生が笑っているイメージが脳内に浮かぶ。思わず声が出てしまった。


 ‒‒そこから、ちょっとずつ、わたしはくらげさんと会話をするようになっていった。

 フォロワーもほんの少しだけ増えた。

 おはようとか、おやすみとかも、眺めているだけではなくて、些細なやりとりの繰り返しができるようになった。

 時々バンドの曲やメンバーについて熱弁をふるったり、語り合ったりもした。

 わたしから積極的にツイートすることはないけれど、誰かのツイートに、思いきって同意のリプライを送れるようにはなっていった。

 それから、くらげさんについて知っていることも増えた。どうやら、同じ県に住んでいるらしい。

 気さくな性格でよく話しかけてくれる。敬語はやめてほしいと言われたけれど、わたしには高度な要求だった。


【くらげ@ おはよう〜】

【あお@ おはようございます】

【くらげ@ いよいよ明日だね!】

 それは4ヶ月ぶりのライブ、わたしにとって初めてのワンマンライブの前日だった。 

 ヴィケルカールを初めて見てから、4ヶ月も経っているなんて信じられなかった。内にある昂揚感はとても説明できない。

 バイトは勿論休みにしてもらった。

 物販で何を買うか、意気揚々とスマートフォンを眺めていると、くらげさんからリプライが来たのだ。


【くらげ@ もしあおさんさえよかったら、開場後に会えないかな? 一度、いろいろ語りたいんだけど】


 コミュニケーション能力の高いくらげさんのことだ。冷静に考えれば、同じ県に住んでいるわたしに興味を抱いて、会いたいと言い出すのも必然なのだろう。

「えっ」

 だけどわたしは違う。

 ツイッターで知り合った他人と、現実世界で、会う?

 現実ですら人間関係のままならないこのわたしが?

 そんなこと無理に決まっている。

 途端に思考は現実世界へと引き戻された。

【あお@ すみません。その日は用事があるのでギリギリの到着になってしまうので、難しいと思います】

 用事なんてない。明日はヴィケルカールの為だけの日だ。わたしはスマートフォンの画面を裏返して布団の上に置くと、そのまま倒れこんだ。湧いた感情も、とうてい説明できなかった。



 朝起きると、外の世界を容赦なく塗り潰すように大雨が降っていた。体もどことなく重たく感じる。

 わたしは昼過ぎまで布団を被ったままうずくまっていた。ライブも行くかどうか、正直なところ迷った。こんな心身状態で楽しめるか自信がなかった。

 それでも、次を逃せば彼らにいつ会えるか分からない。わたしは這い出すようにして自室からのろのろと出た。

 居間に行くと母親が電気もつけずに薄暗いキッチンで立ったままコーヒーを飲んでいた。

「あかりちゃん、どこか出かけるの?」

 珍しい。しかも、こんな大雨の日に。というニュアンスが含まれている。

「ライブ……」

「あら、そう。気をつけて行ってらっしゃい」

 四年制大学を卒業したのに就職活動もせずフリーターになってしまった娘を、咎めることもなじることもしない。

 それを、わたし自身が勝手に、わたしは悪い娘だと、責めている。

「行ってきます……」

 玄関で忘れ去られたように立てかけられていた傘を持って、わたしは外に出る。

 繁華街にあるライブハウスへは徒歩と電車で1時間かかる。駅までは徒歩10分。

 ICカードなんて持っていないから、当たり前のように切符を買う。通勤ラッシュの時間帯は過ぎていて車内は空いていた。

 えんじ色のロングシートの端に座って、顔は車窓の外へ向けた。

 都会へ近づくにつれて雨は小降りになっていき、電車を降りる頃には、すっかり晴れていた。

「……あ、虹」

 空にはうっすらと虹がかかっていた。

 ヴィケルカール。


♪どんなに激しい雨が降って

 すべてを奪い去ったとしても

 虹のたもとには宝箱が眠っているんだ

 そう信じて!


 不意に蘇ったのは『青に浮かぶ虹』という、激しいメロディーに乗せられた歌詞の一節。

 ライブサーキットで、わたしがこのバンドを好きになると直感したときのフレーズ。そしてツイッターのアカウント名にもした楽曲だ。

 信じたいと思った。何も持っていないわたしだけど、虹のたもとへ行けば、手に入るものがあるのだと。

 あるといいな、と。



 ワンマンライブは最高だった。

 しっかりと聴き込んできた甲斐があって、激しい曲では腕を上げ、バラードでは瞳を閉じてしっかりと聴くことができた。聴きたかった曲は全部聴けた。

 アンコールでは新曲も発表された。

 MCではメンバーのお茶目な一面も見られて、声を出して笑った。

 悩んだけれど、来てよかった……。わたしは汗と涙を買ったばかりのタオルで拭う。

 このバンドを好きになってよかった!

 昂揚感に包まれたままツイッターを開くとダイレクトメッセージが届いていた。

【くらげ@ 最高でしたね! 今どこにいますか?】

 くらげさんのことはすっかり忘れていた。昨晩、あれ以上返信しなかったのに。それを拒絶だと思わなかったのだろうか。

 それでもライブ後の興奮が冷めないまま、勢いで返信してしまう。

【あお@ 外のガードレールのところにいます。ツアーのロゴTシャツで、黒のデニムです。足元は緑の紐のスニーカーです】

【くらげ@ 分かりました! 自分は青のバンドTです】

 そしてメッセージを読んだのと同じタイミングだった。


「……あおさん?」


 わたしは予想外すぎるくらげさんの姿に言葉を失った。

 どうして女子大生だと信じこんでいたのか。簡単に自分の恰好を送信した、自分の浅はかさを呪う。

「く」

 頭のてっぺんから爪先まで確認する。目の前に立っている青いバンドTシャツの人間は、すらりとした細身の青年だった。

「く、……くらげ、さん?」

 やっとのことで声を振り絞ると、目の前の青年は破顔した。

「よかった! 合ってて。はじめまして。くらげです」

 ひとの良さそうな、コミュニケーション能力の高そうな、ツイッターで感じていたそのままの雰囲気。ただし性別以外は。

 彼はわたしの動揺には気づいていないようで、首にかけたタオルで汗を拭いていた。わたしが買ったのと同じ色のタオル。

「最高でしたね!」

「そ、そうです、ね」

「会えてよかったです。なかなか周りにファンがいなくって」

「は、はい」

「この後どうですか? ラーメンとか行きませんか?」

「い、いえ、明日も早いので」

 わたしはなんとか答えると、逃げるように走り去った。



「それで帰ってきたの?」

 首を縦に振る。

「せっかくのチャンスだったのにもったいない。初彼ができたら面白かったのにぃ」

「面白いって、そんな」

 月曜日の昼。

 OLをしているさくらは、紺色の制服姿で現れた。結婚式に関係なく、トリートメントを欠かさない髪の毛と爪は艶々としている。

「だって、オトコと会ったって聞いたからには、呼び出さなきゃいけないでしょう」

「話したいことがあったのはさくらじゃないの」

「ううん。特にない」

 飄々と即答されて気が抜けた。

「敢えて報告するなら今日はお泊まりだけどね」

 鼻歌混じりに言われるけれど、わたしは淡々と返す。

「何番目?」

「えーと、3番目」

 さらに言うと、常に複数人いる。

 改めて、未だに、わたしとの付き合いが続いている理由が分からない。

「それはさておき、そのあと、そのひととやりとりした? まさかブロックとかしてないよね?」

「してない、けれど」

「何を?」

「……やりとりも、ブロックも。だってログインしてないから。通知も切ってあるし」

「ばーかー」

 突然何を思ったのか、さくらはわたしが手元に置いていたスマートフォンを取り上げた。

「え、ちょっと」

「ロック解除して。今すぐ」

「どうして」

「ログインしてみなきゃ。メッセージが来てるかもしれないじゃん」

「やだよ」

「どうして」

 わたしは思いつく限りの正当性を並べる。

「向こうだってこんな地味な女に会って失敗したと感じたかもしれないし。このまま一生ログインしない方がお互いの為だよ」

「意味分かんない。だって、本当にこのままでいいの?」

「このまま、って」

「初彼のワンチャン」

「ちょっと。そんなんじゃないって」

「とりあえず確認だけはしなきゃだめ。人間関係の基本です。ありがとう、楽しかった、返事遅くなってごめんなさい。ほら」

 えぐいこと以上に正論をのたまうさくらに、観念するしかなかった。

 わたしはスマートフォンを返してもらうと、しぶしぶ、数日ぶりに青い鳥のアイコンをタップした。

「ぶっちゃけ、あんたに必要なのは、彼氏よりも、人付き合いだよ」

 さくらが画面を覗きこんでくる。

 新着通知。


【くらげ@ 今日はありがとうございました! やっとお会いすることができて嬉しかったです!】


 ほら見なさいと言わんばかりにさくらがわたしを見つめてくる。

 わたしはくらげ青年にもさくらにもなんともいえない感情が湧きあがってくるのをどうにか抑え込む。

 ふたりともどうしてわたしなんかに構ってくれるのだろうか。社交性に溢れているあなたたちなら、もっと他にも関わるべき人間がたくさんいる筈なのに。

「代わりに打つ?」

「けっこうです」

 溜息を大きくひとつ。

【あお@ こちらこそ金曜日はありがとうございました。あの後風邪を引いてしまい寝こんでいました。心配かけてすみません】

「あたしの言ったことそのままじゃん」

「ほっといて」

「いやー、でも、初めての浮いた話になるといいな」

 楽しそうにさくらが笑う。

 そこでランチセットのパスタが運ばれてきたので、話題はいったん中断した。

 さくらの彼氏たちの話や合コンであったことを延々聞かされた、とも説明できる。



【くらげ@ ライブ最高だった! 自分も頑張ろうって思えた】

【ヴィケルカール公式@ 新曲いかがでしたか? お越し頂きありがとうございました!】

【くらげ@ バおわ〜】

 さくらと会った帰り道、バスに乗りながらツイッターを開く。

 たくさんのツイートが洪水のように溢れて流れていく。

 わたしがログインしていない間も、当たり前のことながらツイッターは流れていた。自分の自意識過剰さを自覚して途端に恥ずかしくなってくる。

 バンドがエゴサーチしてリツイートした色んなひとのライブの感想を眺めながらこっそりと溜息をついた。


『ぶっちゃけ、あんたに必要なのは、彼氏よりも、人付き合いだよ』


 語弊を恐れず弁解するとしたら、心の病で対人関係に不安があればよかった。わたしにはそういう病名はいっさいない。ただただ、普通とは何か……そこから自分ははみ出しているのではないか、という気持ちが常についてまわっているだけ。


 たとえば。

 子どもの頃、不思議な癖があった。

 横断歩道の白いところだけを踏んで渡る、自分だけのゲーム。あるとき母親に気づかれて、笑われた。

『変わった子。そんなのが、楽しいの?』

 恐らくそれは悪気のないニュアンスだったのだろう。しかし一瞬にして、わたしは自分自身にレッテルを貼ってしまったのだ。変わった子。変わっている子。普通ではない子……。

 それ以来、横断歩道は見ないで渡るようになった。ひたすら、周りと同じでいようとすることばかり考えていた。

 他人と違うことをしてはいけない。

 他人と違うことを口にしてはいけない。

 他人に足並みを揃えなくてはいけない。

 だんだん、『must not』が増えていった。それはやがて鎖になって、わたしを地面に繋いで、縛りつけて、動けなくした。


 ツイッターの画面を閉じる。

 膝の上に、自然と溜息が落ちた。

 さくらの言葉を借りれば、初恋もまだなのは、人間としてどうかしているらしい。

 憧れとか、ときめきとか、他人に対する感情はわたしにとっては別次元の概念だった。

 翻れば特段嫌いだとか憎いという感情を抱いたこともない。

 自分ではないものは不可解で、何を考えているか慮ることすらできやしない。

 ……わたしには大きな欠陥がある。

『会ってからどんどん好きになればいいんだよ!』

 別れ際にさくらから投げられた一言を思い出す。

 くらげ青年のことを好きになるかなんて分からないのに、なんて軽率な助言なんだろう。

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