SAYONARA<後編>
※
「これ、あげる」
「え?」
帰り際。夏至はまだすぎていないものの暗くなり始める頃。日暮くんが「送っていく」と言ってくれた。
気持ちは嬉しいものの、こんなに遅くに同級生の男子生徒の家でお茶を頂いていたなんて話をしたら、両親がどんな風になるかわかったものじゃない。相手にも迷惑がかかるだろうからと、丁寧に断った。
すると、日暮くんは何かを手渡してきた。
それは、どこからどう見ても刀の折り紙だった。水色と白で、そしてなんとも絶妙なバランスで、本物の刀っぽい感じになっている。
「……なんで?」
「んー ……、なんとなく『必要になる』ような気がして」
さっぱり意味はわからなかったけれど、私は彼の父親の言葉を思い出した。彼は「強い」らしい。何が強いのかとかさっぱりわからないまでも、それを思い出した途端、素直に受け取る事にした。
彼の家のあった未曾木市から、徒歩でいける隣町まで。私の家はここにある。集合住宅の並ぶ中、そのうちの一棟、一室が我が家だ。
と、途中で妹の轢かれたガードレール近くを通る。私達の通っていた小学校。そのすぐ手前だ。今でも花束が置かれている。
手を合わせて、黙祷する。
「…………?」
と。何故かそのとき、複数の花束の中、あるものに目がとまった。
しゃがんで、少しだけ見て見る。流石に手に取るのは汚いと思ったから止めたけど、それは、小さなビンだった。蓋には油性インクで星のようなものが書かれている。
「?」
からん、と。どこかから音が聞こえた。何の音が鳴ったのかはわからなかったけど、遠くから聞こえたそれに気にせず、私は家に帰った。
案の定、母親からは「遅い」と言われた。そうは言われても仕方ないといいたかったけど、まぁ、特に何事もなく夜を迎える。
いつものようにお風呂に入って、明日の準備をして、歯磨きをして床について――――。
そして、またあの物音を聞いた。
「……?」
最初、またあの物音かと感じた。でも、果物ナイフはもうないのだし、身の安全は保障されているだろうと考えていた。
それが甘かった。
「逃げて!」
「!」
唐突に誰かの叫び声を聞いた。
その声があんまりにも大声で、そしてあんまりにも切羽詰った声だったものだから、思わず私は飛びあがって。
そして、私の枕のあったところに、ペーパーナイフが振り下ろされた。
「……!」
振り返ると、そこには二人いた。
一人は女性。もう一人は少女。
女性は、顔の形が「歪んでいた」。全体的に、左側に顔が解けたように歪んでいた。
「――――っ、」
グロテスクだとか、そんなことではなく息が詰まった。
顔から視線を落とせば、女性は「左半身がなかった」。
「――――」
女性は何かを叫んでいるようだったけど、でも、声が出てない。息のような、何か。そして、がたがたと、その声を受けて部屋が揺れる。
左半身がないまでも、女性はまるで、かかしか何かのように立ちながら、カッターナイフを握っていた。
「いそいで!」
そして、その女性の溶けていない方の足にしがみつきながら、おかっぱ頭の女の子が叫んでいた。
震えながら、立ち上がろうとして、でも転んで尻餅をつく。どしん、と揺れる。それを見て、女が「にたり」と笑った。
怖い、と。現状、何が何だかさっぱりわからないまでも、純粋に恐怖を抱いた。
「にげて!」
女の子の叫びが繰り返される。
わかってる。わかってるけど、でも。
「ごめん……、立てないの」
「――――――――――――――――――――――――――」
声にならない声が響いて、部屋の物がまた揺れる。
そのまま、女は私に倒れこむようにペーパーナイフを振り下ろした。
女の子が、タックルするように彼女にぶつかった。足元からバランスが崩れたせいで、女の倒れた位置がずれる。
そのまま倒れて、障子に激突した。ばらばらと戸が壊れる。
そして、倒れた姿勢のまま、女は何度も何度も、がん、がんとペーパーナイフを振り下ろし続けた。
「…………っ、」
本能的な恐怖なのか、震えが止まらない。目の前、わずか二十センチくらいしかない距離で、私を殺そうとしていたそれが、がん、がんと、未だに執拗にナイフを振り下ろし続けるその様に、言葉が出ず、身体が動かない。
そして、女の顔がこちらを睨むと。
――――――♪
丁度そんなタイミングで、家の電話が鳴り響いた。
女が驚いた顔で耳を塞ぐ。でも片手しかないせいか、音を塞ぎきれていないみたいで、その場で転がっている。
「はやく!」
女の子が叫んだとき、ようやく、身体の自由が戻った。立ち上がり、部屋を出て。
「――――なに、これ?」
唖然としてしまった。
そこは、もはや私の家と呼べるような場所ではなかった。
家の中央を通る廊下は、コンクリートの地面のよう。明かりはわずかに私の部屋の向こう、窓から漏れる月光のみで。クラヤミの向こう、ただひたすらに電話のベルが響く。
壁は一応存在しているけれど、それはすべて「赤い鱗」のようなものがびっしりとこびりついている。両親の部屋の扉も本来なら壁のどこかにあるはずなのに、それさえ見当たらず、なおかつ時々、脈打ってた。
意味が分からない。
わからないけれど、とにかく逃げなきゃと背後を振り返る。本来なら玄関があるはずのそこは、でも、同じように果てしないコンクリートと赤い壁の道――――。
「なんの、これ」
混乱に怒りは伴わず、ただただ困惑するだけ。
がん、がん、とすぐ隣で、女がのた打ち回っている音が聞こえる。
「とにかく、どこか逃げなきゃ……っ」
「でんわ!」
女の子の声が聞こえる。
びっくりし、そして、混乱した状態で唐突に聞いたせいか、思わず電話の音の鳴るほうに走る。
本来なら台の上に置いてあるはずの電話だったはずだけれど、なぜかそこにあったのは、電話ボックスが一台。
急いで中に入って、受話器を手に取った。
『――――もしもし』
「も、もしもし?」
『ああ、繋がったようですね。何よりです。私、フラウと申します』
「ふら……?」
なんか、聞き覚えのあるようなないような、そんな名前だ。
『本日、かの家でご相伴に預かりました。つきましては情報提供料と、その折に果たされた約定をば果たしましょう』
「えっと、すみません、何を言ってるか全然……」
『では、まず怪異を解体いたしましょう。相手が何であるかわからないからこそ、恐怖とは生まれるのです。恐怖すれば恐怖するほど、この”魔境”において、貴女様は不利な立場に置かれます。まずは状況を整理いたしましょう』
あ、ダメだ。これ、何をいっても通じない感じだ。
『大丈夫。私は嘘を付けない仕様にございますれば、まずはこちらの質問にお答えくださいまし。
今、何が見えますでしょうか?』
「何って……、電話ボックス。あと、赤い、壁?」
『ああ、そうなったのでございますね。
それで、何が現れましたでしょう』
「女の子と……、女のヒト。女のヒトは、半分、身体がない」
『そういうことにございまするか。なるほど、事情は見えてまいりました』
「何が、わかるの?」
『まず初めに、その女というのは、貴女の妹様が事故に遭った際、意識不明になった方の姉にございましょう』
え?
「いや、確かに居たけど……、あの男のヒトのお姉さん」
確かにお姉さんは居たけど。でも、あのお姉さんは、私達と同じように、攻める先がないって顔をして、淋しそうに微笑んでいて。
『ですから、半分なのでございましょう。そのお姉様とて、本心全てで貴女の妹様を恨んでいた訳にはございません。しかし、決して理不尽であるとわかっていながらも、それでも心のどこかで、貴女の妹様が出てこなければ、弟が昏睡状態にならなかったと、そういう認識はあるのでございましょう』
「そう、なのかしら……、でも、そうかもね」
私だって、あの男性が居なければ妹が死ぬコトはなかったのだと。そういう認識はあるのだから。
『そういえばなのですが、よく妹様が貴女を殺そうとしているとか、そういう結論に至りませんでしたね』
「え? いや、だって、仲良かったし」
『仲が良くとも一物、胸の内に抱えるのが人間と理解しております』
「いや、それでもあの子が、そんなうじうじとネガティブなことはしないでしょ。それに……、恨み事があるんだったら、とっとと私の前に現れてくれっていうか」
『なるほど。だから、この非常時になるまで姿を表さなかったということにございまするね』
「へ?」
『さて、それはともかく。
現状、貴女の妹様はかの姉より、深い恨みを抱かれておりまする。それこそ”魔境”に焼きつくほどの恨みを』
半分は恨んでいる、と言いつつ、どうやらかなりあの子は恨まれているらしい。
「っていうか魔境って――――」
『時間もございませんので、それは省略を。
その恨みが、そのまま貴女様に跳ねているというのが現状にございます』
「えっと、つまり……?」
『貴女の妹様に向かった呪いが、そのまま貴女を殺そうとしているということです』
双子でなければそうはならなかったのでしょうが、と電話の向こうから、覚めたため息が聞こえた。
なるほど。そう考えて見るとシンプルな話だ。逆恨み、と言ってしまうこともできるけど、たぶん私が逆の立場だったら、似たようなことを考えたのだろうから。
「私を直接狙ったものではないってこと?」
『結果的にそうなってしまっておりますが。貴女の妹様と、貴女は未だに強く繋がっております。故に、この”魔境”において、呪いも区別が付かないのでしょう』
「区別が付かないって、いやいや……。どうしたら良いのかしら?」
『その前にまず、確認を。本日、貴女様に「ご子息」が手渡した、刀をご存知でしょうか?』
ご子息?
刀?
一瞬意味がわからなかったけど、ふと思い出したのは帰り際。日暮くんから手渡された、あの折り紙だ。
『名づけるなら、貴女様にかけられたそれは古い呪いで「邪視」というもの。見ることで相手に不幸を願う類のそれです』
「不幸ね……」
だとしたら。
そんなものから、私を守ってくれているあの少女は。
『言わずとも、わかりますでしょう?』
「……そうね」
確かに、言われなくてもわかるはずだった。
恐怖で震えていたとは言え、あんな――――小学校時代の、妹の姿を見間違えるはずはないだろう。
――――がたん、と。
丁度そんなタイミングで、電話ボックスが揺れる。
「ひぇっ!?」
顔を上げれば、そこには女が居た。
そしてよく見れば、その存在しない半身は「さけるチーズ」みたいな、粘性になっていた。
扉ではなく側面に寄りかかりながら、彼女はにたりと、口元を歪めてこちらを見てくる。
『一度だけ、私の力で彼女を足止めいたします。その間に、ご子息の刀を、妹様に』
「わかったわ。でも。力って――――」
ごう、と。
次の瞬間、電話ボックスの周りが一瞬、赤く燃え上がった。
「――――――ッ! ッ! ッ!!!!!!!!!!!!!」
全身に引火した女は、その場で倒れて転げ回る。
『今のうちにございます』
「……あ、ありがとう」
『お急ぎになられてください。――――あまり時間は残されておりません』
そして転がりながら、私は部屋の中に戻った。
のそり、のそりと、燃えながらもこちらに一歩一歩近寄ろうとしている彼女を、背後に感じながら。
手が震える。
壊された部屋の向こう、そこは既に私の部屋と呼べる状態じゃなかった。
「ごめん、だめ、だった」
「……何、言ってるのよっ」
倒れる小さな妹。そして、彼女を中心に、周囲はずたずたにされていた。
妹の胸から下には、無数の刺し傷。穴は開けど血は流れていない。あまりに威力があったせいか、足の一部とかが、所々「つぶされていた」。
顔も殴られたように痣だらけ。頬がはれ上がって、私を見つめて笑う顔も涙が流れている。
「どうして、こんなになってるの? だって、そんなになるくらいなら、私なんてもっと早くに殺されて……っ」
いや、そんなことはどうだっていい。
今はとっとと、服のポケットに入っているあの折り紙の刀を――――。
――――ざくり、と。足に違和感を感じる。
「へ?」
下を見れば、女が居た。身体は燃えている様子ももうなく、それでいて心底、恨んでいるような顔で私を見ていた。
「――――――――――――――――――――――――――――――――」
「――――――ッ!」
足に刺さったペーパーナイフを抜くことが出来ない。どころか、女はそこを執拗にぐりぐりとする。どれだけ私の妹に恨みを抱いているというのだろうか、あのお姉さんは。
手に持っていた折り紙が、地面に落ちる。
痛みに倒れる私と、馬乗りになる片腕の女。
「あ、――――――」
瞬間、身体が悟ってしまった。もう、これは無理だろうと。
振り上げられるペーパーナイフ。女の目は、私の額をじっと見ていた。
女は、心底嬉しそうに笑って。
そして、手が振り下ろされて――――――。
※
「……で、どうなったんだい?」
「…………がたんって音と一緒に目が覚めて、その、折り紙の刀が刺されていました」
韻果さんの言葉に、私は正直に答えた。
あれがまるで夢だったかのように、その日は、強烈な物音と共に目を覚ました。そして枕の上では、ペーパーナイフによって、刀が粉々にされていたのを見たのだった。
私の話に、彼は楽しげに自分の顎をさすって笑った。
「ふむ。なるほどシンもフラウも中々良い仕事をしたみたいだね」
言いながら、彼の見つめる先。居間には再び、座椅子に座ったあの西洋人形があった。微動だにせずじっとお茶に視線が注がれている。
「ああ、彼女かい? 飲めはしないけれど、香りは楽しめるらしいんだ。だからこうして、一応はいれてあげている」
「……あの、今更なんですけど、やっぱりこのお人形って、その……?」
「うん、そうだね。呪われてはいないが、某か、僕らの常識で計り難い何かではあるだろうさ。
聞くところに寄れば、とある悪魔祓い師が終生、持ち歩いていた人形だとかなんとか」
楽しげにお茶を呑む彼に、私は二の句が継げない。まぁまとめるとだね、と彼は私の様子なんて気にせず続ける。
「おそらく、妹さんが君の代わりに刺されたのだろう」
「妹が……?」
「嗚呼。だってそれ以来、物音はしなくなったのだろう? 殺される心配も感じない。だったら答えは簡単だ。願いは成就された。それがどんな形であれね」
言いながら、彼は人差し指を撫ぜる。……よく見ればそこには、結婚指輪とは別に、銀色の、中央に血のように赤い宝石が治められた指輪がされている。
「フラウが君に助言したのは、君が先週、我が家に来た時に妹さんと取引をしたからだろう。そして『君が刺される』イメージと、代わりに『妹さんが挿された』ということが成立した」
「ま、待ってください? 意味がわからないんですけど……」
「取引内容が何だったかなんて、僕には聞かないでくれよ? シンと違って、僕はその手の才能は全然ないんだから」
「……日暮くんて、つまり、そういうのが視えたり聞こえたりするんですか?」
「いや、どちらもないはずだ。でも才能はあると私は見込んでる。実際ね、あの子が何かして助けられたヒトは少なくないからね。君みたいに」
「それは……、はい」
「まぁともあれ、妹さんは無事、君を守る事が出来たということだ。
それでめでたし、めでたしだと思うのだけれど……、今日は、どういった用事かな?」
「……その、出来れば何ですけど」
非情に言いづらいものの、私は深呼吸してから口を開いた。
「あのナイフ、返してもらって良いですか?」
「どうしてだい?」
「……思い出したんです。その果物ナイフ、妹が欲しがってたものだって」
そして、小学生時代の妹の姿を見たせいか。私はありありとその事実を思い出した。
あのナイフは、小学生のころ。ホームセンターで二人して遊びにいったとき、妹と私が欲しがったものだった。描かれているキャラクターが可愛いものだったので、それを買ってもらったのだった。
結局危ないからといって使わせてもらえなかったけれど。
「……もし妹が、その、フラウさん? と取引できるような存在になっているのなら。つまり、その、ユーレイ? とかになているのなら。こちらに怖いって言って渡して仕舞うのも、私の勝手すぎるかなと」
「ふむ。僕は別に構わないけど――――――」
「――――それは、無理だと思う」
がらり、と。居間に入ってきた日暮くんは、突然そんなことを言い出した。
「え? えっと、なんで?」
「んー、ナイフ返して欲しいってことでしょ? 先週だったかな……。なんか知らないけど、粉々に折れてた」
……へ?
「それは初耳だね、シン。どういう状態だい?」
「知らないけど。柄と刃の部分とか、普通に壊れてて――――」
それを聞いた時点で、私の耳は何か、遠くなっていた。
意味の分からない事象であっても、それは意味が分からないなりに繋がっていく。
紙の刀は、ペーパーナイフで柄と刀身が粉々に裂かれていた。果物ナイフと同様に粉々にされていた。そして、果物ナイフは終始、私の部屋で「別な何か」を壊して――おそらく、別な何かと「戦っていた」。
そして。
妹が挿された。目的が果たされた、ということは。
呆然とする私の視界の端。日暮親子は気付いていない。
フラウの手が、いつの間にか唇にあてられて。まるで、しーっ、と声を出すなと言うような仕草をして。
その目が「私を見つめていて」。
――――――例え悪魔の力を借りてでも、貴女様を守りたかったのでしょう。
――――――結果、自身の姿さえ保てないほど怖し尽くされても。
――――さよならを、言う暇はありませんでしたが。
不意にどこかから、人形の声が聞こえた。