狼狽とメランコリック
ヒステリカ・アルトシュタイン:http://charasheet.vampire-blood.net/m547552a50bc9a9efe0f3be45fec269dc
――――剣士の、黒衣の裾が眼前で翻る。剣閃が、迸って私の胴を薙いだ。
――――空から隕石が降り注ぐ。途轍もない威圧と火力を纏い、それは私の頭上へと落下した。
「ッ!」
まどろみも何も無く、飛び起きた。まだ戦いは、防衛戦は続いている――――そう、つい反射的に傍らのヴァレンタインを掴みとろうとして、『ご主人』と柔らかな声が脳裏を打った。
「……アイ、ちゃん」
『魘されておりましたのよ。大丈夫、もう気を張らなくても良いのです。ここは、戦場ではありません』
そう言って伸ばしかけの私の手にぽふっと柔らかな肉球を置いたのは、使い魔のアイロニーだった。私のソーサラーとしての技術の向上により、彼女は猫でありながら最早人格を持つに至った。ピンクと白の鮮やかな模様がくるりと回り、私の膝の上へと座り込んだ。
「そう、……ですね。もう、あの戦いは、終わった」
滑らかで指通りの良い毛皮を撫でつつ自分で口に出してみて、やっと実感が湧いた。安堵することで漸くここが自身の私室だということに気付き、昨日の戦いが余程堪えていたのだと自嘲した。
昨日の記憶の後半は既にズタボロだ。やっとこさドラゴンゾンビとヴァンパイアローズを撃滅し、依頼を達成したとして報酬を受け取って帰り路についた時には既に意識は半分飛んでいて、そこからどうやって家に帰って着替えてベッドに倒れこんだかというのは全く覚えていない。
「……とても、怖かったです」
初めてだった。攻撃しても攻撃しても倒れない、どころか返す刃を一度受けただけで瀕死にまで追い込まれる。仲間が次々と倒れて、それは私も例外ではなくて。
黒の剣士の一撃を受けて倒れ伏した時、怖かった。このまま意識を喪ってしまえば、何処か遠くまでいってしまって、もう帰って来れないような気がして。悔しかった。隣で彼が――――愛しいあの人が戦っているのに、その力になれないことが。
「もう二度と目覚めることができないかもしれない――――もう二度と、あの人の……レイズンさんの顔を見れないかもしれない、と漠然と思った瞬間、言いようのないくらい怖かったです。だから、また目を開けた時、最初に飛び込んできたのが彼の顔で、とても……とても安心しました。ああ、生きてる、って。私はまだこの人の隣にいれるんだ、って」
おかげで変なことを口走ってしまったけど。でも、シロアやシェリーと一緒にカレーを作って、私が作ったサラダを褒めてくれた彼のあの微かな笑みや、あの時抱き起こしてくれた時の温度を思い出すと、今でもやっぱり顔が赤くなってしまう。そして、胸の辺りがぽっと暖かくなるのだ。ますます思う。もっとあの人の傍にいたい、あの人の支えになりたい。
彼は不思議な人だ。見ていると、瞬きをした瞬間にぱっと消えていなくなってしまいそうなほど、儚さを感じる人。消えて欲しくない――――それは、私のエゴかもしれないけれど。
「消えないように、あの人の手を掴んでおきたい。……そう、思ったんですけどね」
来るは防衛戦。内心の恐れに負けないように、意識が遠のくあの瞬間の恐怖に呑まれないようにと必死に強がって、それでも、……足りなかった。
自分よりも強大で強力な魔術の洗礼。メテオ・ストライク――――怖くて怖くて、怖かった。自分よりも魔術を扱える者など、いないとは言わないがそうそういるはずがない。そういう慢心があったのも確かだが、何より数時間前の剣閃の恐怖がまだ癒えてはいなかった。また彼一人を残して、自分は。
「あの人を一人にしたくない。傍にいたい。でも、傍にいるだけの力が私にはなかった……ッ!」
理想を紡ぐだけなら誰にだって出来る。それを実行してこそとは他でもない己の信条ではなかったか。なのに現実、敵の強大な魔術により自分はあっさりと意識を消し飛ばされてしまった。
ぎり、と拳を握り締める。この細いだけで魔術を編むことくらいしか出来ない手は、大切な人の手を掴んでおくことすら出来なかった。
「……もっと、もっと強くなりたいです。彼がいなくなったら私、絶対に後悔するし、もう多分、生きていけない。それくらい彼のことを……ううん、レイズンさんのことを、――――愛してしまった」
アイちゃんを抱き上げ、ぎゅっと抱き締める。彼女は抵抗することもなくゆらりと尻尾を揺らし、黙って私の言葉を聞いてくれていた。
「彼一人が深淵に堕ちていくのを見るくらいなら、私は一緒に堕ちることを選びます。……それでも、いいですか。アイちゃん」
主である私が堕ちてしまえば、私から離れては生きていけない彼女も堕ちる以外の術はない。彼女は最早ひとつの人格を宿した個体だ、その意思を蔑ろにはしたくなかった。
もし拒むのならば、その時は。
じ、とその紅色の瞳を見つめていると、彼女は私の思いを悟ったか手に擦り寄ってきた。本当に、聡い子だ。
『愚問を。わたしはご主人の使い魔。貴女が堕ちるというのならば、わたしも共に堕ちましょう。禁忌の果てであろうと、世界の終わりであろうと。貴女が生きて何かを成そうとする限り、何処までも』
「……アイちゃん」
私は本当に幸せだと思う。深く愛し育んでくれた両親、厳しくも優しい師匠、頼れる仲間達、支えてくれる使い魔に、綺麗で儚くて、誰よりも愛している彼。私の周りには、こんなにも色んな人がいる。
「はい。また今日から、お仕事と研究の日々です」
『それもまずは腹拵えからでしてよ。腹が減っては戦は出来ぬ、……もう食材が無いのではなかったかしら?』
「あっ」
そうだ。師匠に買出しを頼もうとして忘れていて、そのまま防衛戦にまでいっていたのだった。今頃師匠が「腹減った飯くれしぬヒステリカぁあああああ」と野垂れ死んでいるかもしれない。やれやれ。
「いつまでもヘコんでる場合じゃありませんもんね。よし、いっちょ買出し行きますかっ」
がばあ、とシーツを剥いで立ち上がり、そそくさとシャワーへと向かう。悪夢のせいで寝汗が酷い。
この悪夢も、何時か彼と手を繋げるようになったら見なくなるのかもしれない。そう考えると、思わず頬が緩んでしまうのだった。
そしてこの後買出しに行った私が、道中で件の彼を見かけて黙っていられるはずが無かった。
「――――レイズンさん!」
すると彼は、ゆっくりと振り返るのだ。フードの下、いつの間にかマスクで覆われなくなった無愛想な唇を、私の名前に歪めて。
「ヒステリカ」
そのアメジストの瞳に見つめられるだけで、私の鼓動が高鳴ってしまうこと。貴方は、知らないでしょう?
いいですもん、これから教えてあげますから。私がどれだけ貴方のこと大好きなのか。そしていつか――――絶対、振り向かせてみせるんですから。