第二十三話・『赤い森』
「別れは済んだかい?」
玄関の扉を開けると不可視魔法を解いたレネが暗闇の中に佇んでいた。
俺はそれを見ると口から心臓が飛び出るんじゃないかと思うほど驚いた。
こんな所に人が立っているとは思わなかったからだ。
慌てて飛び出た心臓を口から所定の場所へと戻す。
頭の中で。
イメージの中で。
レネに睨め付けられて、途端に顔が真っ赤になっていくのがわかる。
たった今、あの娘の初めてを奪って来たばかりだからだ。
額を汗が伝う。
他人の家に上がり込んで悪いことをしたと言う気持ちもあるからだ。
俺も初めてだったわけだが。
勿論、ファーストキス的な意味で。
照れ隠し気味に目線だけでキョロキョロと周囲を見渡す。
客観的には激しく眼が泳いでいる状態ともいう。
自分の家の玄関前に佇んでいる姿を誰かに見られたら不審がられるんじゃないかと、どうでもいいことを思った。
こんな夜遅くに外を出歩いているような物好きは俺達くらいだが。
「アンタ達が居間でおっ始めちまうから悪いんじゃないか」
まるで俺の心を見透かすようなセリフにぎょっとする。
人聞きの悪い言い方をしないで貰いたい。
俺はそんなふしだらな事をしたつもりはない。
「お、俺……レ、レネの方がよっぽど読心術に長けてるんじゃないか?」
照れ隠しに失敗して舌がもつれる。
「伊達に人生経験積んじゃあいないんだよ。
その調子じゃ、アンタあの娘に別れを告げてきたんだろう?」
「だ、大丈夫、心配しなくてもあんたの可愛いお孫さんを拐かしたりしないぜ?」
そういうつもりで言っているのではないことは、重々承知している。
レネはシルビアを連れて行って欲しいのだ。
だから、わざわざ俺達に二人だけの時間を作ったのだ。
「そんなだからあんたは馬鹿なんだよ!
誘拐でも何でも、強引に連れてってやりゃあいいじゃないか」
ほら、な。
しかし、今の俺にそんな甲斐性はない。
用意された据え膳を既の所で喰わなかったくらいに。
これからの自分をどうするかで精一杯なのだから。
しかも、下手人予定の俺が脱獄した上に、村長の娘と駆け落ちなどしたら大問題になってしまう。
「そんで、あんたとレオとペーター村長で俺の罪を被る気なんだろ?
そんなこと出来るわけないじゃないか。
俺は確かにやっちゃいけないことをやったんだ。
あんたらが俺の責任まで取ることはない」
「アラタは何にも悪い事なんか、してないじゃないのさ。
村を助けようとしたんだろ?」
そんなのは何の意味もな言い訳だ。
善行をするつもりだったのに結果的に悪行になったのなら、責められるべきはその結果だ。
悪行を働くつもりの人間より、善行のつもりで最悪の結果を導く人間の方が多いのだ。
世間というものは過程より結果が重要で、悪ければハッシングされる。
俺のいた世界では針小棒大に叩かれる人のいかに多かったことか。
その点俺は責を負うだけの事を起こしてしまったのだ。
「結局、村人は助けられなかったし、熊族達を全滅させたのは俺だ。
森は燃えてしまった。
それに、確かに村の男から生命を奪ったのは俺なんだ……。
俺はニコさんの名前すら知らなかった……。
言い訳じゃないが、俺はあんなことをするつもりはなかったんだ」
「詳しいことはわからないけどさ、アンタがそんなつもりでやったんじゃないことはわかるよ。
だから、後のことは任せてシルビアとお逃げ」
俺だけがのうのうと生きていて良いはずがない。
あの救えなかった子供に代わって人生を全うするとか、誰も知らない土地で二人で幸せに暮らしました。
なんていうお伽話は俺には出来ない。
今でさえ、眠れない夜を過ごしているのだ。
もっとも、二人でに逃げ出したところで輝かしい未来などまるで想像できないのだが。
「それは出来ないよ。
あんたらに迷惑を掛けて俺だけ楽をする訳にはいかないじゃないか」
「じゃあ、どうするのさ」
俺は自分の行為に責任を取ろうと思う。
単なる逃亡者ではなく。
少なくとも、俺が逃げることで村長には責任者として何らかの罰を受けるはずだ。
グレゴリー兵長だって、当然処罰の対象となることだろう。
俺が彼らの手に負えないような人間だったと上層部に思われれば多少は減免されるかも知れない。
そんなことなら簡単だ。
兵長は嫌なやつだが、死んで欲しいほどではない。
シルビアへのセクハラで何処か遠くに左遷ばされて欲しいという程度だ。
「兵舎に火でも着けて逃げ出すさ」
「あんた、それで後悔しないんだね?」
闇に浮かび上がったレネの金色の瞳が俺の本心を見定めているようだ。
シルビアそっくりの挑戦的な眼光が魔法のビームを放って、俺の眼から思考でも読んでいるのか。
俺はこれからレオの村に火を放ち、森を焼き、ドールマンの村の駐屯兵舎を燃やすような悪人になるのだ。
今回は兵隊が証言者となって俺は犯罪者に身を窶すことになるだろう。
「元々、余所者だしな。
万が一、俺が汚名を返上して帰って来たら諸手を上げて喜んで迎えてくれよ。
そんときは復興した村の村長になってやってもいいぜ?」
「そんな減らず口が叩けるならなんとかなりそうだね」
こんな世界の事だ、賞金首になるんじゃないだろうか。
そうしたら冒険者にでもなって精々、派手に名前を売るとしよう。
凶悪なドラゴンを倒して、迷宮の奥深くで勇者の剣を見つけ出して、俺より強い奴もいなくなれば賞金も取り下げられることだろう。
そんな夢物語の先にここへ再び戻ってこよう。
「あんたに教わったことを生かしてなんとかやるさ」
これからの旅こそが俺の異世界無双の輝かしい第一歩だ。
無実の罪に問われて逃げ出した、異世界からの来た一介の高校生が己の才覚で世界最強に成り上がるのだ。
ゴールが田舎の村長なのはご愛嬌だ。
「じゃあ、餞別だよ」
レネがいつの間にか持っていた俺のカバンを放って寄越す。
この世界の落ちてきた時に俺が持ってきた高校のカバンだ。
中身は教科書とか辞書とか碌なものは入っていなかったと思うんだが。
開けてみると綺麗に折りたたんだ制服まで詰まっていた。
「なんだこれ?なんでこんなものがあるんだ?」
おれは元々、レネとシルビアの仕入れに付いて来ただけなのだ。
成り行きでこんな事態になってしまったが、本来ならばこのカバンだって燃えてしまっていたはずだ。
レネがフンと、鼻で笑って肩をすくめる。
「あんたがローバーだって報告したら、どっちにしたって兵隊連中に捕まっちまうところだったのさ。
前にも言ったように、ローバーは領主様の所有物だからね。
村から自由に移動できる権利なんてものはなくなっちまうんだよ。
だから、いつでも逃げ出せるように準備してたのさ。
と言ってもこんな見たこともない物を持ってるのは、ローバーだって証拠だからね。
もし、必要ないのなら兵舎と一緒に燃やしちまえばいいさ」
こんなのレネは元々、俺とシルビアに駆け落ちさせようとしていたってことじゃないか。
半年か三ヶ月か知らないが、ずっとその機会を伺っていたのだろう。
「ひっでーな、前から教えてくれてても良かったじゃねーか、いつから計画してたんだよ」
「アンタを一目見た時からずっとさ。
だけどアンタはそんな演技、できないだろ?
村長や兵長にバレちまったらペーターもレオもローバーを逃した罪で咎められちまうんだよ。
アンタが牢屋から勝手に逃げたってなら言い訳できるじゃないか
アンタの魔法ならあそこから脱獄する時に何の小細工もいらないことはさっき確認したからね」
俺が一人で脱獄できなければ何か細工するつもりだったということか。
あの牢屋に何か魔法でもかかっているのだろうか。
そんな風には感じられなかったが。
レネの予定では捕まったローバーが勝手に逃げたことにするつもりだったということか。
それが予定外の事件が起こってより派手に脱獄することになったわけだ。
「じゃあ、あんたは元々俺を逃がす気でいたってことか!」
「そうなるね。
シルビアを人質に逃げ出したってことにするつもりだったんだけどね。
今からそうしても構わないんだよ?」
レネはどうしても俺とシルビアを一緒に行かせたいらしい。
そうはいっても俺は無一文の余所者だ。
この世界で今後生きていけるかさえ怪しいところだ。
「そんなことできないよ。
あんただって、そうなったらあの娘が不幸になるかも知れないとわかってるんだろ?」
「そんなことあるもんかい」
シルビアは村長の娘だ。
だから、普通にレオの村の誰かと結婚して子を成せば平和に暮らせたことだろう。
だが、その村は無くなってしまった。
彼女はこれからきっと、本家ドールマンの村で生活することになる。
今後も兵長に付き纏われるかも知れない。
それならいっそ、俺と一緒に駆け落ちするのも一つの選択肢だということか。
どちらにしてもバラ色の将来とは言えないんじゃないだろうか。
それならば、せめて家族の許に居た方がマシじゃないだろうか。
俺のように知らない土地を彷徨うよりはマシだ。
「次に来るときはあんたの大切なお孫さんを攫って行くから覚悟してくれよ?」
「フン、今更つまらない事言ってないで、さっさと行っちまいな」
言うべきことは言った。
俺の考えを変えることは叶わなかった。
レネはそう思っているだろう。
俺は頑なに自分の意見を通した。
それだけ自分を信じていないからだ。
いつ自分が制御できなくなるかも分からないからだ。
「明日は一騒動起こるから巻き込まれないようにな。
派手に騒いでやるから、アリバイだけはしっかりしておいてくれよ?」
「アリバイだかなんだかしらないけど、アタシ達は家の中に篭ってるからね。
アタシ達にも届くようにド派手にやっとくれよ」
「わかったよ!じゃあな!レオにも宜しく伝えてくれよ!」
俺は精一杯気張って最後の挨拶をした。
湿っぽい別れはしたくない。
もう、誰にも迷惑を掛けないと決めたのだから。
俺は一旦牢屋に戻ることにした。
派手にやることにしたのだから、牢屋からはじめなければなるまい。
その方がレネにも余計な疑いが掛からないからだ。
せっかく用意した藁は無駄になったがそんなことはどうでもいいか。
この際、朝まで寝てやることにしよう。
――結局、明け方まで寝付くことは出来なかった。
「毎日お寝坊の、アラタ・クロキ殿、そろそろ起きていただこう」
いつものようにグレゴリー兵長自らが俺を起こしにやって来る。
こいつは俺を起こすのが日課になっているんじゃないだろうか。
一日中俺の尋問をするほどに暇なのだろうか。
俺のような弱者を甚振って楽しんでいるのかも知れない。
その割にしっかりと朝飯を用意するのは軍の規則だからか。
この村で最後の朝飯をしっかり味わって飲み込むといよいよ尋問室へ移動となる。
「今日も楽しい尋問の始まりかよ」
どのタイミングで騒ぎを起こすかは、尋問の流れ次第だ。
最後なのだから色々情報を聞き出したい。
「ローバーってのは口が悪いんですかな?
いい加減、本当の事を言ってくださいよ」
兵長は相変わらず慇懃な態度だ。
こいつがシルビアを手篭めにしようとしているなんてとてもじゃないが許せないな。
巫山戯た野郎だ。
「ハンッ、本当のことってなんだよ?
俺は本当の事しか喋っちゃいねーぜ?」
当然、これまで以上に反抗的な態度で接することになる。
こんな男と仲良く出来るはずがない。
死んで欲しいとまではは思わなくても、遠くで不幸せになって欲しい奴だ。
「そうですかい、クロキさんは知らないかも知れませんがね、昨日ハンスさんがこの村に来てくれたんですよ。
知ってますか、ハンスさん」
「残念ながら、俺は村人の名前はあまり詳しくなかったよ」
ニコさんの名前もじい様の名前もおばさんもその子供も。
俺はあんな小さな村の中でも閉じこもってみんなと接することをしなかったのだ。
「ああ、レオ・ドールマンの村の人だってのはわかるんですかい。
あたしらに村の襲撃を伝えに来たうちの一人ですよ、途中で熊族に襲われて命からがら逃げてきたそうで」
昨日、レネから聞いて知った事だ。
今頃になって本家ドールマンの村にやって来たということはどこかで怪我を治療でもしていたのだろうか。
本家の村とレオの村の間には怪我を療養するような場所があるとは思えない。
彼は一体どこに潜伏していたのだろう。
俺はハンスという人物の人相も知らないのだけれど。
「なんでもあなたが村で火を着けて回ってるのを見た、とか?」
「はぁ!?何言ってんだよ。
ふざけんな!なんでそういう話になる。
俺がそんなことする意味がわかんねーよ」
これも聞いた通りの情報だったが、とんでもない話だ。
そもそもそのハンスはどうやって村から逃げ出したのだ。
あの状況で俺を見てから逃げ出せたということは、他の村人を見捨てたということだろうか。
いつ、俺に会ったのだ。
俺があれこれと悩む表情を見せると何を勘違いしたのか、兵長がこれまでの尋問中で見なかった態度を示してきた。
厭らしく俺を見下すようなものへと変貌する。
「ところであなた、村の男達に随分と嫌われてたようですね?」
今までと違って答えにくいような下衆い質問を浴びせてくる。
俺も改めて考えるとそうだったのではないかと思えてくる。
そもそもレオ一家以外に俺と接点があったのは年寄りやおばさんなど数人しかいなかったのだ。
その全てが今は亡き人々――。
「そのくせ、村長の娘さんに恋慕してた。
異種間の恋慕はご法度だ、その恋は成就しない。
あなた、娘さんを奪って逃げるついでに村の連中に復讐しようと、そう思った。
随分と身勝手なことを考えついたもんですね。
非道い人だ」
この決めつけたような言い方は、こいつが今言ったストーリーで俺を断罪しようとしているということか。
今までやってきた尋問はそのための証拠を探していたからか。
ハンスがやってきて、ようやく俺を犯人にして事件が解決する状況が整ったということか。
「……俺がそんなコトするはずがない」
「なんのハズだかわかりませんが、村で生き残った人たちの話を総合するとそうなるんですよ。
レオ村長はあなたが娘さんと仲よかったと言ってますし、パウルさんもアントンさんもあなたは可怪しかったと言ってます。
あの時にニコさんを殺したのを見たって。
だから、他の村人も熊族と一緒に殺して燃やしたんだろうって
レオ村長はあなたは良い人だって言い張ってますから、これからも暫くは牢屋に居てもらうことになるでしょうね。
お二人は非常に協力的なのでお話は終わりになりました」
敢えて尋問とは言わないつもりらしい。
あの二人から見た俺が異常な力を持った魔法使いだったことは間違いない。
どう言い繕っても熊族を倒し、森に火を着けたのも俺だ。
一つひとつ、兵長にとって都合のいい事実の組み合わせだ。
こいつは俺が黙っているのをいいことに嵩にかかって言い募る。
口の両端が吊り上がり、巨大なネズミが好物を前に舌なめずりしているかのようだ。
「それにしてもあなたも趣味が悪い。
あなた人族でしょ?なんでまた猫族に恋慕なんてしちまったんです?
しかもよりによってあんな混ざり者なんて。
やっぱローバーはどこか特殊な性癖でもお持ちなんで?」
突然の話題転換にたじろぐ。
こいつは何を言わせたいのか。
俺は目を剥いてグレゴリー兵長を睨みつけた。
「あんただってシルビアが好きなんじゃないのか?
レネの家であんなにも言い寄ってたじゃないか」
いや、こいつはそうじゃないのだ。
立場の弱い人間を言葉で痛めつけることが好きで仕方ないのだ。
「ハン!何を言ってるんですか?あんなのはお遊びですよ。
ここいらの村は碌な人族がいませんからね。
どうしてもあたしに相手をして欲しいってんなら、せめてまともな猫族の娘さんを用意していただかないとね。
猫だったら家畜として扱ってあげようがあるってもんでしょう?
混ざり者を相手にするなんてイカれてます。
ハハッ、そんなのはクレイジーだ。
あ、こんなことあの娘に言っちゃダメですよ?
あの娘は分家の村長の娘さんなんだから。
プライドって奴がありますからね。
村人から陰口叩かれてるとか、このままだとあたしの慰み者になるとか変な噂が立ちますからね。
って言ってもあなたはここから出ることは出来ませんけどね、一生。
残り少ないですけど一生は一生ですよ」
俺はこいつの言い様に我慢がならなかった。
俺を挑発する気なのは分かったが、それでも赦せなかった。
シルビアの涙が目に浮かぶ。
よし、その喧嘩大枚叩いて買ってやる、覚悟しやがれ。
椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
「あれ、そういう態度はいけません。
ここでは暴力がご法度です。
あなたには今まで言ってませんでしたけど、この建物内は物理攻撃も魔法攻撃も出来ないようにそれはもう強力な結界が張ってあります。
あなたみたいなローバーは知らないことですが、この国の兵舎や牢屋にはレベル三以上の結界が張ってあるんですよ。
ちょっとやそっとの魔法じゃあ、壁にも床にも傷つけることだってできやしません。
結界には、一番弱いレベル一から一番強いレベル四までクラスがありましてね。
レベル三の結界ってのは、国家資格で言うところの一級魔導師クラスじゃないと破れないようなとても強力な結界なんですよ。
レベル四になると特級魔導師でも簡単に破れないらしいですよ?
レベル三でも普通の魔法使いだったら、まずはあたしに小指の先も傷を付けることができません」
勝ち誇ったような長広舌を振るって捲し立てる。
この男は自分で自分を煽ってより興奮するタイプの変態だ。
圧倒的な立場から他人を見下して悦に入るような悪趣味な男だ。
「それがどうした?」
俺はもうこいつのご高説に付き合ってやる暇など持ち合わせていない。
「だから、あなたはあたしに何も出来ないってことです。
もっともあたしもあなたを殴ることもできないんですけどね。
それは後のお楽しみですよ。
しっかりと手続きを踏んでから、しかるべき場所でやることにしましょう」
フフンと嫌らしい笑みを見せる。
俺に頬を見せてどうだと煽る。
俺はその安い挑発に乗ることにした。
全身を念動力のエネルギーで包み込んだイメージをつくり上げる。
特に両手に強力なパワーをイメージする。
「なるほど?つまり、こんなことはできないってわけだ!」
俺の渾身の右ストレートが注文通りグレゴリー兵長の左頬に炸裂した。
兵長は避けもせずまともに食らってたたらを踏む。
さすがに兵士なだけあって素人高校生のパンチなどでふっ飛ばされたりしない。
しかし、念動力で強化されたそれは簡単に兵長の顎を粉砕した。
口から盛大に血と歯を吹き出す兵長。
「なっ、なんでそんなことが!!!」
「だから言っただろ?それがどうした?」
俺は昨日の脱獄の際に、結界とやらの影響を全く受けなかった。
で、あるのならばこれは当然の結果だ。
俺にとってこの世界のレベル三の結界など蚊ほどの拘束力も齎さない。
テーブルを持ち上げると兵長の頭に叩きつける。
しかし、テーブルは兵長に当たる直前に急停止した。
なるほど、確かに俺以外の物には結界の効果があるらしい。
どういう理屈か知らないが、物理的なダメージを無効化するようだ。
身体強化した俺が後ろに放り投げた木製のテーブルは、床に落ちても壊れる素振りを見せなかった。
兵長は無防備な頬に食らったストレートで脳を揺らされたのか足許が覚束ない。
俺は動けない兵長を立て続けに殴りつける。
上、上、下、下、左、右、左、右、蹴り、蹴り。
こんなに人を殴ったのは初めての経験だ。
兵長を気の済むまでタコ殴りにすると尋問室の扉を蹴破って廊下に出た。
兵長は最後に食らった蹴りで身体をくの字に曲げで尋問室に蹲っている。
怨念のような声を絞り出す。
「貴様ぁ、こんなことして只で済むと思ってるのか?」
「どのみちタダで済まないんなら好きなだけ暴れるさ」
最初からタダで済ます気など双方になかったのだ。
だから、これは予定調和だ。
兵長にとっては想定外かも知れないが。
尋問室を蹴破った音に驚いて兵隊が現れた。
こいつらはレネの家で、燃える森の傍で見たことがある。
多分、ガイア(仮)とマッシュ(仮)の二人だ。
そう言えばこいつらにそんな名前を付けていたな。
「グレゴリー兵長!どうしました!?」
「貴様、どうなっている!何をした!?」
初めてこいつらの声を聞いた気がする。
格別な感慨など無い。
こいつらももうすぐ兵長と一緒に仲良く寝てもらう予定なのだから。
出来るだけ陽気に挨拶を返すことにしよう。
兵長に煽られた憤りが全く収まっていない。
非道く苛虐的な気分になっている。
「いやー、スマンが、ここから出ることにした。
グレゴリー兵長の言ってることが我慢ならねー。
あんたらも邪魔すると容赦しねーぞ!?」
満面の笑顔で脅してみたが無駄だろうか。
俺は心底ぶちキレでいるのだ。
こいつらに恨みは無いが、兵長の部下なのが悪い。
「貴様!我らに楯突くのか」
「やはりお前が盗賊どもと共謀したという話は本当だったのだな?」
ガイア(仮)とマッシュ(仮)が自分の腰に穿いた剣を抜く。
ここではそれらの攻撃も無効化されると思うのだが、どうするつもりなのだろう。
まさか、彼らの武器はレベル三の結界を無効化出来る付加魔法でも掛かっているのか。
俺が無効化出来る程度の結界ならそんなこともあるかも知れない。
兵長は大仰に宣っていたが、レベル三なんて実は大したこと無いのだ。
単なる脅し文句だ。
「あんたらが俺を犯人に仕立て上げるつもりなんだろうがよ!」
俺の怒声に二人がたじろぐ。
剣を構えながら互いに視線を交わし合う。
素手の俺に対して武器を持った二人が何を恐れる必要がある。
「こ、ここは魔法が使えないぞ!」
「大人しくしろ!」
妙に腰が引けた事を言うガイア(仮)とマッシュ(仮)。
彼らの泳ぐ目線が俺にボコられて這い蹲った兵長の上を行ったり来たりしている。
俺が一歩踏み出すと、彼らが一歩退く。
こいつら、変だ。
武器を持っているのに戦う意思がない。
やはり、ここでは武器も攻撃も無効になるのではないか。
ならば簡単だ。
「じゃあ使ってみるぜ?」
《念動力》
俺の両手から放たれた念動力の弾丸がガイア(仮)の顎先を撃ちぬき、マッシュ(仮)の額に叩きこまれた。
ガイア(仮)は崩折れ、マッシュは(仮)吹き飛ばされて廊下にたたきつけられた。
こんな連中、踏み台にするまでもない。
兵舎全体に攻撃無効の結界を張るなんて考えた奴は馬鹿なんじゃないだろうか。
脱走するつもりの囚人をどうやって捕らえるつもりなのか。
俺は牢屋の並ぶ廊下を抜け建物の出口に向かった。
レオのことは多少気になったが、ここで解放すると余計に立場を悪くする。
別れの挨拶は出来ないが、それはまた次の機会があることを祈ろう。
レオへの挨拶代わりに兵舎の玄関扉を派手に吹き飛ばした。
玄関から覗く外の景色は秋晴れの空である。
(レネには火を着けるといったけど、それやるとレオにも被害が及ぶからな……)
かといって解放してから放火するわけにも行かない。
俺は玄関ホールでもう一度両手に念動力を集めると、それを天井に向かって放った。
ドーンッ!!
と兵舎の天井に巨大な穴が開く。
あの時の落とし穴より遥かに広い穴が開く。
そこからも抜けるような青空がはっきりと見えた。
玄関を通って外にでると、遠くにオルテガ(仮)が白目を剥いて転がっている。
吹き飛ばした扉の直撃で強打失神したらしい。
その近くには何とか言う名前の伝令兵が呆然と立っている。
今の一部始終を見ていたことだろう。
彼には一言挨拶しておくことにしよう。
「色々とお世話になりました。
グレゴリー兵長にはよろしくお伝え下さい」
「は、了解いた……?」
伝令兵は突然の事態に表情をなくしたまま頷きかけて慌てて首を振った。
「だ、脱走ー!脱走だー!総員、囚人が脱走したぞー!」
血相を変えて大声を上げ始めた伝令兵の怒号を嘲笑うかのように、俺はその場から瞬間移動で消え失せた。
これにて『ドールマン事件』は顛末を迎えた。
――そして俺は、目出度く賞金首となったのである。