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プロローグ

大きく肩で息をしながら、最後の坂道を上り切る。

 七月―。空を見上げると、雲も一つない真っ青な空が広がっている。

 坂道で体力を使い、歩く人と変わらないほどまでに減速していた華は、平坦な一本道の先に校舎が見えるのを確認すると、残りの力を振り絞り自転車を大きく漕ぎ出す。 

 バス通りと呼ばれる比較的新しく舗装されたその道は、華の通う高校までの一本道だ。まっすぐ伸びたバス通りの両脇を街路樹が等間隔で植えられている。まだ八時前だというのに、夏の熱はすでにアスファルトを焦がし、通りすぎる街路樹からは、けたたましく蝉が鳴いていた。

 「あっちー。」

 思わず声が漏れる。次々に華を追い越していく自動車が、むせ返ような熱を残しいく。華は眉間に皺を寄せながら、前籠にあるカバンの上に無造作に置かれたハンカチを取り、汗を拭った。ここにたどり着くまでに、既に何度も汗を拭い、手の平より少し大きいくらいのタオル地のハンカチは、しっとりと湿っていた。

 二百メートルほど続くバス通りを、ほんの数十秒で通り過ぎた突き当りにある扉を、華は勢いそのままにくぐった。間口は広いものの、真っ黒で錆びだらけの鉄製の、ただの横開きの扉が、華の通う高校の門だ。正確にいうと「裏門」と呼ばれる門で、その先は、真正面の校舎へ向かって左右二手に分かれており、左に進むと教職員用の駐車場。そして右手に進むと、生徒用の自転車置き場が並んでいる。その駐車場と自転車置き場の先に、校舎と並行して大きなフェンスが張り巡らされており、そのフェンスの先は、生徒用玄関へ続く通路となっている。

 自転車置き場とはいっても、大きな屋根とその真下の地面に自転車一台分ずつ、置くスペースが白線で五、六台分区切られてあるだけの簡易的なものだ。そんな屋根だけの駐輪スペースが続けて十五ほど並んでいる。

 華は右手の自転車置き場へ進むと、一番手前から二つ目の屋根の下で、自転車を停めた。まだ八時前ということもあり、自転車置き場は人気も自転車もまばらだ。華は、自転車から素早く降りると慣れた手つきで、後輪にある鍵をかける。鍵は、曲がってしまっているのか固く、掛けるのにはコツがいる。鍵だけではない。中学時代から自転車通学の華にとって、この自転車との付き合いも四年目になる。後輪のタイヤホイールには、色あせてきた中学時代の自転車登録証と並んで、この春から新しく高校の自転車登録証が加わった。長年の泥や埃でぼやけた黒い自転車で、まだ新しい色鮮やかな高校の自転車登録証だけが、浮いて見えた。色んなところに何度もぶつけて、大きく凹んでしまっている前籠から、まだ新しい学生カバンを取る。目の前には大きなフェンスが建っていた。

 華のいる自転車置き場からフェンスを眺めると、向かって右側に生徒用玄関があり、左手の職員用駐車場を越した更に先には、いわゆる「正門」と呼ばれる立派な校門がある。そこには、学校名を立派な石に大きく書いた看板もあれば、「自立 誠実 友愛」なんて書いてある記念碑も建っている。門自体も濃グリーンで蔓を模した西洋風の立派な門だ。高校受験に向けて学校見学に来たときや、電車を乗り継いで受験に来たとき、この正門と、その先に広がる比較的新しい、薄いベージュと赤のレンガ調の校舎を見上げて、中学生だった華は、ここで送る高校生活を夢見ていた。

 しかし、華にとってこの学校の象徴でもある正門は、徒歩通学者のみが通ることを許されており、華のような自転車通学者は、迂回してでも裏門を通らなければならないことに校則で決まっている。自転車と徒歩の生徒がぶつかったり、正門から自転車置き場へ進むためには、教職員用駐車場を通らなければならず、様々な事故の可能性を考えると、確かに自転車通学者は裏門だけに使用を絞る方が妥当ではある。それにしても、学校名が申し訳ない程度に小さく書かれた古ぼけた木の板が針金でくくりつけてあるだけの、錆びれた鉄の門を初めて見た時の華のショックは大きかった。校舎の北側にあり、一日中日陰で、ジメジメしているその裏門を通るたびに、あのキラキラした正門をたくさんの友達と笑いながらくぐる夢をみていた華にとって、なんだか不当に自転車通学者だけが不当な扱いを受けているかのような気さえした。

 裏門から自転車置き場と職員用駐車場に挟まれた道を、まっすぐ校舎に向かって進むと、フェンスが途切れている部分があり、そこから、裏門組は、生徒用玄関へとつづく通路に合流出来るようになっている。華は、今自転車で通った道筋を少し戻る形で、通路へと合流した。 

 校舎の北側にあり、まばらに陽が差す通路は、華以外誰もいないこともあり、ひんやりとした風が流れている。通路の真横の校舎からは、楽器の音が聴こえていた。吹奏楽部の朝練だろうか。華がいる場所からは、校舎を挟んで反対側にあるグラウンドから、運動部の掛け声も聞こえてくる。華は、そんな様々な朝の音を聴きつつ、まだ額に噴き出してくる汗をハンカチで拭いながら、生徒用玄関を目指した。

 華の通う高校の校舎は、上から見るとL字型をしている。ちょうどL字の角の部分、校舎の中央に生徒用玄関があり、玄関から向かって正面にグラウンドがある。華が今、歩いている北側の通路からも、グラウンドがある南側からも出入りできるようになっている。生徒用玄関に入ると、更にひんやりと涼しい空気になり、華は思わずほっと一息漏らした。

 (1312…)

 華は1325と書かれた最下段の自分の下駄箱の前へ着くなり、二列隣の上段にある下駄箱へと目を向けた。学年とクラスと出席番号を機械的に並べただけの生徒番号が割り振られている扉付きのその下駄箱には、上部に覗き窓がついており、そこから中を覗くことができる。1312と書かれた下駄箱に、真っ黒の革靴が収まっているのを確認すると、華の胸はキュッと苦しくなった。少し急ぎ気味に、自分の靴箱から上履きを取り出すと、今履いてきた茶色いローファーを靴箱に押し込み、華は靴箱の脇にある階段を小走りに昇って行った。

 一階では日の陰になっていた生徒用玄関から、階を上るごとに締め切られ、朝陽の熱でムッとした空気が増していく。やっと収まりつつあった汗が、またぶり返すのを感じながら、華は一気に四階まで上った。階段の両側をまっすぐ廊下があり教室が並んでいる。左右を見渡し、廊下に誰もいないことを確認すると、華は、小走りで駆け上がり荒くなった呼吸を整えながら、ブレザーのポケットから小さな鏡を取り出した。朝一番にカーラーでふんわり巻いた前髪は、早くも汗と熱気でぺたんとボリュームがなくなっていた。

 (せっかく時間かけたのに!)

 華は、自分の直毛を恨めしく思いながら、せめてもの思いで、ポケットからリップクリームを取り出し、素早く塗る。薄い肌色だった華の唇にピンク色が咲いた。鏡とリップクリームをポケットへしまい込みながら、大きく一息吸うとすぐ左脇にある「1―3」と書かれた教室の扉を、そっと開いた。

 教室には机が整然と並べられており、その机の上に裏返しにした椅子が置いてある。黒板の上に掲げられた時計を見ると、まだ七時五十五分。教室は、ひっそりと静かだった。ちょうど百六十センチほどの背丈の華から見渡すと、まだ持ち主が登校しておらず、裏返しになったままの椅子の足で埋め尽くされた教室に、ぽっかりと一部分、穴が開いている。窓際の後ろから三列目。ドアを開ける音に気付いていないのか、椅子の足の林の中で、一人の生徒がこちらに顔を向けて眠っていた。華は、彼が眠っている顔を見つめながら、後ろ手にでなるべく静かにドアを閉め、自分の席へ向かった。一番後ろの窓際から二列目。ちょうど彼から一列あけた斜め後ろの席の椅子を、華はまた静かに、音をたてないように降ろして座る。ちょうど南東を向いた窓から、眩しいぐらいの陽が入り、華の茶色い髪を更に明るくする一方、彼のつやのない漆黒の髪は、光を吸い込むかのように、更に黒さを増した。

 先に来た彼が開けたのか、教室の窓は全て全開になっており、窓に面するグラウンドから、さっきよりはっきりと運動部の掛け声が聞こえてきた。華は、カバンから下敷きを取り出すと、顔に向かって風を送る。教室へ入る前に、呼吸を整え、汗も抑えてきたはずなのに、なぜかまだ、顔が熱く、息も苦しい。

 (絶対河野君のせいだよ。)

 左斜め前で突っ伏して眠っている彼の背中を眺めながら、華は心の中でつぶやいた。

 二人だけの教室に、華の仰ぐ下敷きの音だけが響いていた。

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