14.19-29 強襲?29
「……ここはどこ?」
ハイスピアは暗闇の中にいた。まるで洞窟のような場所だ。暗く、肌寒く、呟いた自分の声が反響して聞こえるような、そんな謎の空間である。
周囲には誰もいなかった。向こう側を見渡そうとしても、黒い靄のようなものが周囲に掛かっていて見えず、そして誰の声も聞こえない。
そしてさらには——、
「私は誰?」
——彼女は自分の事すら思い出せなかった。
自分の名前、自分がどこに住んでいるのか、何を生業としているのか……。親の顔も、故郷の姿も、友人や恋人などの存在もいたかどうかすら思い出せない。
そんな状況を前に、ハイスピアは一つだけ直感的に分かることがあった。
「……そっか。これは夢か……」
今まで、何百何千何万と見てきた夢。そんな夢の感覚と、今の微睡んだような感覚とが、とても似通っていたらしい。
すると不思議な事に、今まで感じていた肌寒さが段々と薄らいでいく。夢の中だというのに、なぜか眠くなっていき、意識がボンヤリとしてきた。
「あぁ……眠い…………でも……」
このまま眠ってしまっても良いだろうか……。夢の中でさらに微睡んでいるという不思議な感覚の中で、ハイスピアはふと疑問に思う。何か予定は入っていなかっただろうか……。何かしなければならないことは無かっただろうか……。
「思い出せない……」
思い出せないのなら、大した事は無いのだろう。このまま意識を手放してしまえば、夢のもっと深い場所——心地の良い場所に行けるに違いない……。ハイスピアはそんな事を考えてしまう。
ゆえに彼女は目を閉じた。
「おやすみなさい」
誰に向けるでもない言葉をつぶやき、意識を手放そうとした——そんな時。
『あー、お休みのところすみません』
はっきりとそんな言葉が聞こえてくる。
夢の中だというのに、ハッキリとした声が聞こえるというのはどういうことだろうか……。そんなことを思いながら、ハイスピアは再び目を開けた。
しかしそこには誰もいない。黒い靄のかかった空間があるだけ。ゆえにハイスピアは、聞こえてきた声が幻聴か何かだったのではないかと思ってしまうが——、
『まだお休みになるには早すぎる時間ですよ?ハイスピア先生』
——その黒い靄の向こうから、そんな声が聞こえてくる。
その声は、ある一方方向から聞こえてくるものでは無かった。色々な方向から同時に聞こえてくる不思議な声だった。まるで、黒い靄そのものが意識を持って話しかけているかのよう……。
「……あなたは誰?ハイスピアって、何?」
『あぁ、なるほど。ここがこうなって……確かに切れていますね。繋いでおきましょう。おっと、失礼。僕たちの名前はポテンティア。あなたの教え子です。そしてあなたの名前はハイスピア。学校の先生をしています』
「私はハイスピア……先生をしている……」
『えぇ、思い出せなくても仕方ありません。今のあなたは、例えるなら魂だけの存在。記憶を身体に置いてきてしまっているのです』
「…………?」
『このような場所で寝ていても、どこにも行けませんし、そのうち、帰る場所も分からなくなりますよ?さぁ、お帰りはあちらです』
黒い靄のようなもの——ポテンティアと名乗る何かが、フワリと形を変えると、本物の洞窟のような道が出来る。
その先は明るく輝いていたが、何かとても寒い冷気のようなものが流れ込んできているようで、微睡んでいたハイスピアとしては、あまり行きたくない場所だった。
しかし、彼女の中の何かが、彼女の足を進めようとする。それが何かは分からない。本能か、衝動か……。ただ、あの明るい場所に行かなければならない……。そんな気がしていたらしい。
そしてハイスピアは暗闇の中から姿を消した。光の中へと戻って行ったのだ。
そんな彼女の後ろ姿を見送ってから、黒い靄の向こう側にいた者たちは、ふぅっと溜息を吐く。
『えぇ、それでいいのです』
『ここは生者の住まうべき場所ではありません』
『まったく世話の焼ける方ですね』
『もしここに来るのであれば、天寿を全うしたそのあとにして欲しいところです』
それらの声が誰かに聞こえることはない。
その場所は、人が留まるべき場所ではない通路。あの世とこの世とを繋ぐ、回廊だからだ。
ゆえに、誰も"彼ら"の姿を知らない。本来であれば、一方通行のその場所を自由に行き来できる者など、存在しないのだから。
もしもそんな事が出来る存在がいるのなら、人はその存在のことを、迷うこと無く、こう言うのだろう。
……化け物、と。




