14.4-35 学生デビュー35
アステリアは逃げた。脱兎——いや脱狐のごとく逃げた。真っ暗闇の扉の向こう側から現れた狐の獣人——カタリナのことが、アステリアにとっては恐ろしくて恐ろしくて堪らなかったのである。本能的な恐怖を感じていたと言っても良いだろう。
彼女はひと飛30m以上という驚異的なジャンプ力を見せて、地下空間の地底部分から天井部分へと一気に登ると、そのまま地上に繋がる扉を突き破るように開けて、外へと飛び出した。後ろから何かが追ってくるような気配を感じるが、当然、お構いなしだ。そして、月の無い真っ暗な森の中を駆けて、数十キロメートルをノンストップで走り抜け、運良く見つけた窪地に身を隠す。
それでも彼女の鼓動は止まらない。嫌な汗が手のひらからブワリと吹き出し、ほんの小さな音にも耳がビクッと反応してしまう。
『いったいアレは何なんですか……』
アステリアは必死に息を整えながら、カタリナの姿を思い出す。強者の気配を放っていたコルテックスですら片手で掴んで玩具のように扱い、白衣の裾からはニュルニュルと真っ黒な触手を見え隠れさせ、強い冒険者たちを撃退したテレサでさえも酷く怯える人物……。それはまさしく——、
『あの方は、伝説にあるような魔王なのでしょうか?』
——恐怖の権化、魔王。アステリアは、ここまでずっと走って逃げてきたというのに、カタリナの姿を思い出すだけで、身体はブルリと震わせた。
そんな時である。
『おや?もしや迷子でしょうか?』
アステリアが身を隠していた窪地のすぐ近くから、そんな声が聞こえてくる。
その声を聞いたアステリアは、慌ててその場から飛び出そうとするが、声の主がカタリナではなかったためか、逃げようとする足を止めた。そして、暗い地面と同化するかのように佇む黒い虫の存在に気付く。
『えっと……もしかしてあなたが話しかけてきたんですか?』
『えぇ、そうです。最近、誰とも話していなかったので、ついつい話しかけてしまいました。それで、どうなのでしょう?あなたは迷子なのでしょうか?』
『迷子のようなもの……かもしれません。あなたは何者ですか?喋る虫なんて初めて見ましたが……』
アステリアが問いかけると、少年とも少女とも言えない声質の"誰か"は、会話をすることが嬉しかったのか、小さくフフッと笑みを零してから、返答を始めた。
『僕は見ての通りただの虫さん。どこにでもいる黒い虫です。いやー、まさか、狐さんとお話し出来るとは思っていませんでした。みんな僕の姿を見たら、驚いて逃げていってしまうか、叩き潰そうとしてくるんですもん』
自らを"虫"と名乗った彼(?)は、闇に紛れたまま、カサリと動く。所謂Gだ。それも極大の。
『もしよろしければ、あなたのお名前を聞かせては貰えないでしょうか?』
『アステリア、です……』
アステリアが自身の名を名乗ると、虫も自分の名前を名乗ろうとするが——、
『僕の名前は——』
ザザザザザ……
——偶然強い風が森を吹き抜け、彼の名前はアステリアには聞こえなかった。
『なるほど。アステリアさんですか。良い名前です。ところで、先ほどアステリアさんは、何かを怖がっている様子でしたが、どうかされたのですか?こうして出会ったのも何かの縁ですから、もし良ければ僕がご相談に乗りますよ?』
アステリアの身体に比べれば、黒い虫は遙かに小さかったものの、親しみやすいしゃべり方をしていたので、アステリアは思わず事情を吐露した。
『実は恐ろしい方に出会って逃げてきたのです』
『ふむふむ。どのような見た目の方ですか?』
『……狐の獣人の方でした。でも私みたいに毛深くなくて、すっごく綺麗で……でも、すっごく冷たい眼をした方です。お医者様が着るような白衣を着ていて、その裾からはニュルニュルと影のようなものが蠢いていて……』
『あー、なるほど。分かります、分かります。アステリアさんの怖がる気持ち、よーく分かります。その方はまるで……そう、魔王のような方だったのですよね?』
『はい……。もう少しで捕まって、何かをされるところでした。もしも捕まっていたら、実験台にされていたかも知れません』
『それは酷い話だ。アステリアさんは何もしていないのですよね?』
『はい……。どうして私が追われることになったのか……』
アステリアはしょんぼりとして俯いてしまった。本当に訳が分からないと言わんばかりの気配が、彼女の身体から滲み出る。
対する"虫"の方は『まったく……』と呆れたように小さな頭を横に振る。そして彼は、どこに向けるでもなく、こう言ったのだ。
『……とアステリアさんは仰っていますが、どうされるおつもりですか?カタリナ様』
その瞬間だ。アステリアが、『えっ』と言って顔を上げると、そこにはまさかの——、
「…………」
——カタリナの姿が……。音も無くアステリアに追いつき、そしてその場に佇んでいる様子は、もはや魔王と言うよりも亡霊。そんな彼女の姿に気付いたアステリアは、思わず腰を抜かして——、
『ひゃん?!』
——その場にひれ伏してしまう。
一方、カタリナは、アステリアを追い詰めたことで嬉しそうな笑みを浮かべて——はいなかった。まるで自分の目が信じられないと言わんばかりに何度も眼を擦った後、彼女は黒い虫に向かって問いかける。
「ポテンティア。本当にこの狐がアステリアさんなのですか?」
すると黒い虫が即座に返した。
『間違いありません。彼女は自らの名前をアステリアと名乗っていましたので』
「…………」
黒い虫——ポテンティアの返答を聞いたカタリナは、難しそうに眉を顰めると……。アステリアに向かってこう言ったのである。
「……アステリアさん。あなたはもしかして……人間ではなくて狐なのですか?」
と。
星狐『あなたはもしかして……人間ではなく、魔王なんですか?』
医狐「…………」




