9.5-11 正体11
勇者が失ったものは一体何だったのだろう。羞恥心、プライド、あるいは希望や覚悟……。そんな朧げなものが、彼の奪われたウィッグの中に詰まっていたようである。
「(うぉっ?!やっべっ!)」
よほど大事なものだったのか……。自身の身に起こった出来事を瞬時に把握して、血圧を上げる勇者。ただそれは、恥ずかしさから来るものではなく、彼の身体を全力で動かすための準備だったようだ。
実際、彼は、その場にいた者たちが瞬きをするよりも短い時間で身を屈めると、地面を蹴った音が皆の耳に入るよりも早く移動して、ウィッグを奪った執事(?)に対して、鉄パイプのすさまじい一撃を加えるついでに——
スポッ……
「ふぅ……」
——と、文字通り瞬く間に、ウィッグを取り返した。その際、執事を形作っていた物体は、まるで見えない壁に衝突するかのように潰れてしまったようである。
それと同時に——
ズドォォォォン!!
ドゴォォォォン!!
——と、空間を揺らすような大きな音が、辺り一帯へと響き渡った。つまり彼は、ウィッグを取り戻すためだけに、音速を超えたのだ。
そして、その一撃で戦闘が終わった後。
「……ゆ……勇者……様?」
「……申し訳ありませんリア。少し取り乱してしまいました。今の音、うるさかったでしょう?」
と、戦闘対象の沈黙を確認しつつ、後ろにいた幼馴染みに対し、謝罪の言葉を口にする勇者。
実際、彼を中心として生じた轟音は、周囲で戦闘を見ていた兵士たちの耳にも少なからずダメージを与えていたらしく、多くの兵士たちが両耳を押さえて苦悶の表情を浮かべていたようである。それを見た勇者は、リアが各種保護効果のあるエンチャントの掛かったローブを身につけているとはいえ、彼女も相当にうるさい思いをしたのではないかと心配になってしまったようだ。
その際、彼は、幼馴染みを心配すると同時に、辺りを包む夜闇に対して感謝していたようである。辺りが暗いおかげで、自身の正体がリアに見られずに済んだ、と思ったのだ。
ただまぁ……。彼は、その時点で、大きな失態を犯していたようである。……そう、彼は自身の言葉通りに、取り乱していたのだ。
「えっと……勇者様……?髪の毛が……乱れているようです……?」
「…………?!」びくぅ
勇者はリアのその指摘を聞いて、ある致命的な事に気付いた。ウィッグを取り返して装着し直したはいいものの——焦って付けたせいで、前後が逆だった、と……。
それから勇者は、暗闇でも分かるくらい顔を真っ赤にしながら自身の頭に手を載せると、そこにあったウィッグを180度ゆっくりと回転させてから、そのままの体勢で悩んで、そして固まってしまった。
そんな彼はこう考えていたようである。……このままウィッグを取り外して、自身の正体を明かすべき時がやってきているのではないか。そして、真実をリアに明かしてしまえば、楽になれるのではないか、と……。
結果、勇者は決心して、そのままウィッグを頭から外そうとするのだが……。しかしその前に、リアが自身のポケットから櫛を取り出すと、ウィッグを外そうとしていた勇者の手を取って、そしてこう口にする。
「勇者様……。私が……勇者様の髪を……梳かします」
「えっ……」
「ほら……手をどけて……下さい」
「えっと……」
そこでどう返答したものかと、再び悩んでしまう勇者。周囲が暗い為に、リアの目にはウィッグのことが見えなかったのか、それともすべてを分かっていて梳かすと言っているのか、彼には判断が付けられなかったのである。
そしてひとしきり悩んで、彼が選んだ選択は——
「……では、お願いします」
——乱れた自身の髪を、リアに任せて梳かして貰う、というものだった。
◇
「勇者様……終わりましたよ?」
「ありがとう、リア」
「それと……勇者様?」
「…………なんですか?リア」
「勇者様の髪……すっごく綺麗です」
「えっ……」
ウィッグごと勇者の髪を梳かした後。リアが口にした言葉は、勇者の予想とは大きく異なっていたようである。
「櫛が……すーっと……通ります」
「…………」
「…………」
「あの……それだけですか?」
「……はい?」
「いえ、何でもありません……。とにかく、ありがとう、リア」
「はい……。どういたしまして」
そう言って、屈託のない笑みを浮かべる魔法使いリア。
対して勇者の方は、表情こそ晴れやかだったものの、内心の雲行きはあまり良くなかったようである。
「(……やはり、まだバレていないのでしょうか?)」
自身の正体がバレているのか、それともバレていないのか……。バレることを前提に、髪を梳かしてもったというのに、しかしリアからは、それに気付いた様子がまるで感じられなかったのである。
「(さて、どちらなのでしょう……)」
「あの……勇者……様?」
「あ、いえ。ちょっと考え事をしていただけです。さて……それでは、そこに転がっている曲者についての報告を、ワルツ様にしに行きましょうか?」
「はい……わかりました」
そう言って、再び勇者に向かって、笑みを見せるリア。
それから勇者は、そんな幼馴染みと共に、潰れた執事——の格好をした、大量の黒い虫たちについて、ワルツに報告をしに行くのだが……。そんな彼の頭の中は、人の形をした虫の集合体が現れたことなどよりも、隣にいる幼馴染みのことでいっぱいだったようである。
取り方によっては恐ろしい話なのじゃ……。
まぁ、真逆の可能性も否定は出来ぬがの?




