9.1-18 黒い虫18
その隣の部屋には——
「何か、外が騒がしくないですか?」
「……触らぬ神に祟りなしです……」げっそり
——と、ユキの質問に対し、疲れ切った様子で、そう返答にする賢者の姿があった。そんな彼に包帯が増えていたのは、今まさに、その言葉通りことを実際に体験していたためか……。
「ですが、気になりませんか?」
「……気にはなります。気にはなりますが……今ここで余計なことをしたら、まず間違いなく痛い目に遭うと思うのです……。隣の部屋にはワルツ様やカタリナがいます。おそらくは2人が何かをしているのでしょう。こういった場合は、静かに嵐が過ぎ去っていくのを待つのが賢明だと思います……」
「はあ……そういうものでしょうか……」
と、話が噛み合っているようで、噛み合っていないような、どっちつかずのやり取りを交わす賢者とユキ。
そんな2人は、同じ部屋にいた勇者たちと一緒に、今夜の夕食会で催される予定の社交ダンスの練習をしていた。その結果、賢者には、生傷と打撲と捻挫が加速度的に生じていたようだが、彼は自身の回復魔法や身体強化魔法を使って、どうにか窮地を乗り切っていたようである。なお、どうして彼の傷が増えていっているのかについては——ダンスの練習の相手がユキだったから、という言葉からどうか察してほしい。
そこまでして、賢者がユキと共に社交ダンスの練習をする必要があるのかは、甚だ疑問だった。……いや、彼は、それしか選択肢が無かったようである。なにしろ彼の身に襲いかかっていた受難は、彼が口にした言葉のように、放っておいても勝手に過ぎ去っていく類いのものではなかったのだから……。
「さてと。そろそろ休憩を終えて、練習に戻りましょう。ボクも、何十年もの間、踊っていないうちに、すっかりと踊り方を忘れてしまったみたいです」
「あっ……はい……(いや、それは……最初から知らなかっただけなんじゃ……)」
頭の中でそう考えながらも、口が避けてもそうは言えなかった賢者。
こうして今日の夜まで、彼の受難は続いていくのである……。
「……うぁ゛っ!」バキボキッ……
……まぁ、それはさていて。
世界樹を眺めることのできる窓の側では、勇者とリアが、今日もスローなダンスを踊っていたようである。数ヶ月間眠っていたせいで、すっかりと筋力が落ちてしまっていたリアのために、勇者が考えたリハビリ兼ダンスの練習だ。
特に、この数日間、リアの運動能力は目覚ましく回復しており、彼女の体力は、大分戻りつつあったようである。まぁ、朝から晩まで、時間があれば、勇者が相手をして踊っているので、筋力が付かない方がおかしな話なのだが。
「……上手ですよ、リア。次は、そのまま私の腕に身を委ねて、後ろに仰け反ってください」
「…………っ!」
「っと!ごめんなさい。まだ、背中の筋が解れていなかったようですね……」
「いえ……まだ……いけます……!」
痛みを我慢しているのか、身体に大きな負担が掛かるような動きをすると、ときおり顔を顰めてしまうリア。
それが3回ほど続いたところで、勇者は一旦、リアから自身の手を放すと……。そこの椅子に掛けておいたタオルを、汗だくの幼馴染みへと向けながら、こう口にした。
「少し休憩しましょう。今ここで無理をしても、良いことは何もありません」
「……いえ……まだ……足りません……」
勇者が自分の身体ことを慮って掛けてきただろうその言葉の意味を理解していても、難しそうな表情を浮かべて、首を振ってしまうリア。そんな彼女の中には、どうしても曲げることのできない、強い想いがあったらしく、たとえ身体が痛んだとしても、リハビリを止めるわけにはいかなかったようである。……そう。すべては、カタリナへの対抗心ゆえに。
それを知っていた勇者は、それでもやはり、幼馴染みには無理をしてほしくなったようである。これまで身体を鍛えることを一種の趣味としていた彼は、無理をすることによって得られるモノに、碌な結果が無いことを知っていたのだ。
そして、それ以外にも、もう一つ。彼には、リアが無理をする必要が無い、と考える確固たる理由があった。
「……あのですね?リア。あなたは気づいていないのですか?」
「…………?」
「その様子だと、気づいていないようですね……。では、ちょうど良いタイミングなので、この薬を、あそこで倒れている賢者に渡してきてくれませんか?」
「…………はい……」
勇者の言葉が理解できなかったものの、おとなしく彼の指示に従い、床に伏せていた賢者のところまで薬の瓶を持って移動して……。そして、それを、賢者の頭の上に、そっと置くリア。
そこで賢者は、ユキからボレアス式の社交体術(?)を受けて、気を失っていたようだが……。まぁ、時折ピクピクと動いているようなので、心臓が止まっているわけではなさそうである。
そんなミッションを難なく終えて、リアは勇者の元へと戻ってこう言った。
「はい……置いてきました……。飲ませなくても……いいのですよね……?」
「えぇ、それが目的ではありませんからね。それで……まだリアは気づかないのですか?」
「……何の……話です……?」
やはりリアは、勇者が何を言っているのか気づいていないらしく、不思議そうに首をかしげていたようである。
そんな彼女に対し、勇者は苦笑しながら、何を言わんとしていたのか話し始めた。
「普通に歩けていますよ?リア」
「……えっ?」
直接指摘されて、ようやく理解したのか——
「……歩ける……歩けます!勇者様……!」とてとて
——彼女は嬉しそうに、部屋の中を、ぐるぐると歩き回り始めたようである。
それは、彼女にとって、大きな喜びを感じさせる出来事だった。もちろん、無理なく歩けるようになったことも、その一つだったのだが、なにより彼女が嬉しかったのは——
「カタリナに言われていた期間より……ずっと早く歩けるようになりました……!」
——そんな彼女の言葉通り、彼女の主治医であるカタリナの推測よりも、早く歩けるようになったことだったようだ。それはすなわち、カタリナのことを出し抜いた、とも言える出来事だったのだから……。
「それは良かったですね。私も嬉しいですよ?リア」
「はい……!」
そう言って、その場でくるくると回り始めるリア。
彼女がその心に抱いていることが、彼女にとって良いことなのか、それとも悪いことなのか、勇者には判断が付けられなかったが……。彼はとりあえず、快方へと向かう幼馴染みのことを、彼女と共に喜ぶことにしたようだ。
段々と、話が複雑になってきたのじゃ……。
書きたい話に持ち込むために、ここまで"ぱずるのぴーす"を用意してきたわけじゃが、それを思い通りに組み立てる、というのは、妾の頭では困難かもしれぬ……。
まぁ、やるしかないのじゃがの?




