第九話 旅は道連れ人助け
出瑞山の山中は神々が闊歩していた太古を偲ばせる、鬱蒼とした森に覆われていた。
ブナやミズナラの大木が天空を支える柱のように立ち並び、緑葉の屋根が地上を木陰で埋めている。地面では木々の隙間を埋めるようにシダの草が茂っていた。
出瑞の名が表すように山中のいたるところで湧き水が生じており、谷川を成して平地へ下っていく。
空気は新鮮な草木と湿った土、それに冷涼な水の香りで満ちていた。
およそ文明を感じられない風景の中で、麓から伸びる参道だけが唯一の人工物である。
地形の起伏に合わせて蛇行しつつ敷かれた石段を、酒樽を背負った義郎が黙々と登る。麓の喧騒が嘘のような、恐ろしく寂しい光景だった。
満杯の五升樽を背負って坂道を登るのは、なかなかの負担である。
すり鉢型の出瑞山は裾野こそ末広がりでなだらかだったが、その分山上への道のりは長く、深く入るほど勾配も厳しくなっていく。
苔むした石段は所々古木の太い根に押し上げられて隆起しており、足を取られないよう用心しなければならない。
一度転べば背中の重荷に重心を奪われ、再び立ち上がるのは難しいだろう。
とはいえ山岳育ちの義郎の足運びは平地を行くが如く慣れたものであり、決して楽ではないが危なげなく登っていく。
「大社の人間が苦行を課して、入山を制限する理由が分かるな……心無い者が水源を汚せば、下流の都や諸国を滅ぼすのは簡単な事だ」
ときおり垣間見る清水の流れを眺めながら、義郎は呟く。
近くでは沢のせせらぎが、遠くでは滝の轟きが絶えず木霊していた。彼が一歩進むたび、錫杖に連なる鉄環のしゃくしゃくとした金鳴りが水の静寂に波紋を打つ。
「ん、先客か……?」
しばらく歩いていると、前方に人影が見えた。
薄布を垂らした市女笠を被る旅装の女で、行李(柳や竹で編んだ荷物入れ)を背負い、供物の神酒を湛えていると思わしき三升の大瓢箪を腰にぶら下げている。手には義郎と同じ錫杖が握られていた。
「どうしよう……これじゃあ先に進めないわ。でもここまで来て引き返すなんて……」
女はためらいがちに足を踏み出してはすぐ引き戻し、進退窮まった様子で立ち往生している。
「そこの君、どうしたんだ?」
一際強く錫杖を鳴らして存在を主張すると、女は後ろから悠々とやってきた義郎に気づき、助けを求める。
「あの、道の真ん中に蛇がいて……」
前方を見やれば、石段の真ん中に三尺(約九十センチ)はあろう大蛇が、とぐろを巻いて横たわっている。
褐色の太い胴に銭模様の斑紋を浮かべているそれは、豊瑞穂に棲む蛇の中でも最も危険な毒を持つマムシだった。
豊かな水源は蛙や蜥蜴の棲家となり、それを餌とする蛇も多く集まる。春の訪れと共に冬眠から目覚め、日光の降り注ぐ石段で身体を温めていた縄状の生き物は、自分より大きな生き物の存在に気づくと鎌首もたげ、尻尾で地面をぱちんぱちんと打ち鳴らして威嚇した。
「なるほど、あいつのせいで通れないと。よし、俺が追い払うから、後ろに下がっててくれ」
義郎は蛇に怯える女を横切り、蛇と相対する。
「昼寝の邪魔して悪いが、お前らの親玉に挨拶しにいくんだ。ちょっと通らせてもらうぞ」
義郎は距離をとって用心しつつ、錫杖の先でそっと突く。
蛇は杖の先端に二、三度咬みつこうとしたが、すぐに怯えてするりと逃げ出し、うねうね蛇行しながら藪の中へ引っ込んだ。
「ほら、いなくなった。もう大丈夫だぞ」
「ありがとうございます。見知らぬ方にご迷惑を……あら」
市女笠を取って義郎の顔を見た女は、彼の顔をまじまじと覗き込んだ。
「うん? 俺の顔に何か?」
「あなた昨日、川原で舞を見物していなかった? 終わった後、舞人に声をかけたでしょう」
「ああ、見物していたし、見事なもんだと思ったから、御捻り手渡すついでに褒めたかな。まぁ、口説き落とそうとする男がたくさんいたから、向こうは気に留めていないだろうが」
「じゃあやっぱり、あのお武家さまだったのね。そういえば、御山に登るっていってたものね……」
一人で得心してくすくす笑う女が解せず、義郎は問いかけた。
「俺は君を知らないんだが、どこかであったか?」
女は十七、八歳の若い娘。
目鼻の形整い、漆のように艶やかな黒髪を腰まで流した美しい容貌の持ち主だ。
しかし物心ついたときから師父と山岳で過ごてきた義郎は、顔見知りの女性といえば里山の素朴な百姓女や、辻で占いをする老婆くらいのもので、目の前の見目麗しい少女を見てもぴんと来なかった。
「あら、つれないお方。だったら、これならどう?」
義郎の反応を残念がった女は、大きく息を吸い込むと高らかに今様を歌いだした。
出瑞の姫の 舞う日には
龍女が岩戸 押し開き
水穂の神酒の 慰なぐさめに
広大慈悲の 雨降らす
鈴のように凛と通るその歌声に、義郎は聞き覚えがあった。
「もしかして、昨日川原で男装して舞っていた娘か? 白拍子とかいう……」
「そう、白拍子の鈴音ですわ。烏帽子を被ってないから、分からなかった?」
肯定して微笑んだその顔をよくよく見れば、化粧や身に纏う衣こそ違えど、確かに昨日川原で舞を舞っていた遊女、鈴音御前と一致した。
「こんな山奥でまた会うなんて、女神さまのお導きかしら……ねぇ、あなたも本宮へ御参りに来たんでしょう、道連れになって下さらない? こんなひどく寂しい山の中を女一人で歩くのは心細いし、また蛇が出てきたら怖いわ」
「そうだな……一緒の方が安全だろう。俺が先達するから、後に着いて来てくれ」
不安げな表情で訴える鈴音の頼みを、義郎は特に断る理由もないので承諾した。鈴音はほっと息をつき、神仏を拝むように手を合わせて感謝する。
「ありがとう、お武家さま」
「お武家さまはよしてくれ。俺は億里国の住人、深山義郎だ」
「深山殿、ね。わたしは中原京桃塚の女、鈴音ですわ。改めてお供をお願いいたしますね」
互いに挨拶を済ませた男女は各々神酒を携え、錫杖を突きながら共に参詣を再開した。