第八話 酒樽背負って山道へ
義郎は早朝に宿を発ち、出瑞山の麓に建つ大社へ向かった。
出瑞大社の鳥居前には朝から市が立つ。
中原京の大国主尊陛下も御用達と名高い出瑞山葵、八俣川で今朝捕れた川魚の塩焼き、地元の伝説を題材にした工芸品などなど、様々な物産がむしろの上に並び、行き交う人々を誘惑する。
参拝を済ませた者は土産を求め、これから参る者も故郷ではお目にかかれない逸品に惹かれて、ついつい足を止めてしまう。十数人の団体客が一箇所に留まって道を遮り、どやされる事もしばしば。
入り口からしてこの有様なので、境内の混雑も並大抵ではなく、行き交う人々と肩をぶつけずに往来するのは困難を極める。
大社の主祭神の『源主神』を祀る、巨大な注連縄で飾られた壮麗な拝殿には供物の酒樽が積み上がり、鳥居から賽銭箱へ至るまでの石畳に長蛇の列が並んでいた。
境内に点在する、『王子神』と呼ばれる源主の子供たちの摂社は八十を数え、やはり各々のご利益を求めて人々が集っている。
義郎は自分の刀を他者にぶつけないよう気を配りつつ、人の波を掻き分けて拝殿ではなく社務所へ向かい、巫女に訪ねた。
「岩屋の御所という場所に詣でたいのですが、どこにありますか」
「それは本宮への参詣を望まれるという事ですね」
「本宮?」
「出瑞大社は"本宮"と"外宮"の二つに分かれており、御山の中に建つ社を本宮、麓にあるここを外宮と呼んでいるのです。滝御簾の岩屋御所は本宮の本殿を指します。鎮守の森の奥にある本宮専用の参道へお回りください」
指示通り拝殿の横をすり抜けて鎮守の杜へ入ると、表の外宮とは打って変わって、たちまち人気が霞のように失せていく。杜の中を貫く細道を進むと、やがて古びた鳥居が見えてきた。鳥居の向こうには人間二人がすれ違える程度の狭い石段が敷かれ、山奥へ向かって伸びている。
鳥居の脇には番小屋が建っており、二人の神主が番を勤めていた。どちらも大社の人間の中から選り抜いたと見える筋骨逞しい大男で、公家様式の神職装束よりも山伏の格好が映えそうだった。
義郎が本宮への参詣を申し出ると、神主たちは「しばしお待ちを」と断って小屋へ入る。先に戻ってきた一人が、錫杖を持ってきて義郎に手渡した。
「錫杖の音には毒蛇を遠ざける力がございます。山中は蛇が多いゆえ、これを突いて鳴らしながら、石段をお登りください」
義郎が錫上を拝借していると、もう一人の神主が遅れて戻ってきた。ゆうに五升(約九リットル)は入る酒樽を担いでいる。歩くたびにどっぷんと響く重い水音から、容積に見合う量の酒で満たされているのは明らかだった。
「出瑞山の女神さまがおられる本宮へ参る者は皆、酒を供物として捧げるしきたりです。この神酒を山上のお宮に篭っている巫女たちへ届けてください」
「まさか、この大樽を背負って山を登れと?」
義郎が驚いて聞き返すと、神主たちは「左様」と頷いた。
「豊瑞穂の建国の祖であられる初代大国主尊荒彦陛下は、お后の賑姫陛下と共に岩屋御所でお神楽を奉納された時、女神に神酒を捧げるために一斗の大酒壺を背負って山を登ったと伝えられています。これは神話の時代より長く伝え守られてきた、女神の神前へ詣でる作法なのです」
「山上は女神さまとその王子神の住まう領域であり、我ら人間が生半可な気持ちで踏み荒らしてよい場所ではありませぬ。畏れ多き女神への謁見を望む敬虔な信心と大願を抱く者であれば、これしきは苦行の内に入らぬというもの。厳しいとお思いならば、むこうの外宮へ御参りになられた方がよろしいかと」
義郎はここまで杜の中を歩く道すがら、「表の外宮は縁日のような賑わいなのに、どうして本宮へ向かうこちらはこんなに人気がないのだろう?」といぶかしんでいたが、疑問が氷解した。
来る者全員にこのような苦行を強いているならば、観光気分でやってきた旅行者は皆敬遠するだろう。自ら苦行を積みに来る修行者の類しか受け入れないのだ。
「いや、郷に入らば郷に従えだ。それが神前の作法なら従おう」
しかし彼は物見遊山で来た訳ではないし、幼い頃から峻険な砥石山を駆け巡った足腰には自身がある。
神職たちに無理難題を突きつけられても臆するどころか、むしろ「先生が岩屋御所に参れと命じたのは、この苦行を乗り越えてみせろという試練を課したのだな」と奮起した。
義郎が寄進の金銭を差し出すと、神主たちは酒樽を背負えるよう木枠に括る。二人がかりで持ち上げたそれを義郎に渡す時、危ぶむように問いかけた。
「確認しますが、本当に大丈夫ですかな。今ならまだご寄進をお返しできますぞ。足腰に不安があるならばもう少し軽い、ご婦人用の瓢箪もありますが……」
「お情けは無用。並みの鍛え方はしておりませんので……ふんっ」
義郎は一声唸って酒樽を背負うと、錫杖を突きながらしっかりとした足取りで歩みだした。石段を少し登った所で一度止まり、後ろを振り向いて神主たちに問う。
「ところで、岩屋御所へ詣でた者には特別な御朱印を頂けると聞いたのですが、どこでもらえますか?」
「山上の本宮の巫女が帰りにお渡しします」
「了解」
それだけ聞くと登山を再開し、その姿は早々と山中に没した。義郎の背中を見送っていた神主たちは、彼の姿が見えなくなると感嘆の声でささやきあった。
「……これは魂消た。二貫半(約十キログラム)の重荷を背負って、全くふらつく様子がない」
「見かけによらぬ豪傑だなぁ。あの調子なら、先に入った遊芸人もたちまち追い越しそうだ」