第七話 神を訪ねるその心
出瑞の宿場に泊った翌日、鶏の鳴く前に起床した義郎は身だしなみを整えて精進潔斎し、参詣の準備を整えていた。
最後の仕上げに刀の手入れを終えると感慨深いため息をついて、己の目的を確認するよう呟く。
「いよいよ出瑞山に登るんだな……ここまで長かった。道中危険は多かったし死にそうな目にもあったが、良いものも拝めた。ともあれ、あとは岩屋御所に詣でて、御朱印を貰って帰れば目的達成だ……しかし、起きるのが早すぎたな。朝飯が来るまで黙想して、気持ちを整えよう――」
義郎は正座して目を閉じ、故郷からこの地まで旅立つ事になった日に思いをはせた。
◆
深山義郎は東国の人。
豊瑞穂の中枢たる中原京から関を隔てた東方の遠国、億里国の砥石山で、養父の義蔵に『深山流』と称する剣法を指南されながら育った。
その地名どおり砥石に適した荒々しい岩肌を露にした峻険な深嶽が彼の生活の場であり、武芸の修行場でもあった。
それは義郎が数えて二十歳になった、今年正月の出来事だった。義蔵は昨年の暮れから仕込んでおいた濁酒の壺をあけ、義郎は白湯をすすりながら、炉辺で猪鍋を挟んで新年を祝っていた。
養父であり深山流剣法の師匠である義蔵は老境に入って久しく、白髪頭は髷こそ結っているものの額は随分後退している。けれども深いしわが刻まれた顔に宿る眼光はいまだ猛禽の如く鋭く厳めしく、四肢の筋骨は若者の義郎に劣らぬ剛強を保っていた。
「義郎。お前はな、本当は神さまの子になるはずだったんだが、わしが横取りして人として育てたのだよ」
感覚が鈍るのを嫌って普段は酒を嗜まない義蔵だが、生来酒豪の気があるらしく、一度飲み始めるとなかなか酔い潰れなかった。
そういう気分が良い時の養父は大抵、目の前の息子と初めて会った時の事を語る。
昔からの事なので、義郎は酌をしつつ相槌を打って話に付き合った。
「あれは、剣客として諸国を流浪していたわしが億里国の片田舎を当てもなくさまよっていた時だった――」
――野辺で日が暮れかかってその日のねぐらを探していると、ふと遠くから何かの声が聞こえた。おやなんだろう、獣とは違うらしいぞと怪しんで声のする方へ向かうと、何を祀っていたのかも定かではない荒れた社にたどり着いた。
屋根の破れた社の奥を覗けば、布に包まれた赤子がわんわん泣き喚いているじゃないか。周囲に人の気配はなかったが、赤子の傍に僅かな酒と餅が供えてあった。
それを見たわしは『ははぁ、さては口減らしで子を捨てた親が、せめて神様に拾って貰えればと儚い祈りを捧げたのだな』と合点がいった。生んだ子供を養いきれずに神へ"返す"ならわしは、どこにでもあるからな。
そして同時に、こんな想いが頭をよぎったのだ……わしは若くして妻子と死に別れて故郷を捨て、剣法一筋に生きてきた。だが死した後、この世に冷たい腐肉と骨以外の何が残るのだろうか?
いまさら己の罪業を悔いて仏門に入るつもりはないが、己が頼みとしてきた剣の技だけでも誰かに伝えて、生きた証を遺したいと思った。我が秘術を伝授する望みが叶わなくとも、せめて己の亡き後に偲んでくれる者の一人は欲しい。
人ならざる神へくれてやるくらいなら、人であるわしが親代わりになってもよかろう。そう思い立つと置いてあった酒と餅を平らげ、勝手に頂いた供物と引き換えにこの赤子を一人前の人間に育てる事を神仏と、名も顔も知らぬ生みの親に誓ったわけだ――
「――その赤子が義郎、お前なのだよ。まぁ、言ってしまえば自己満足だ。少なくとも哀れみからの行動ではなかった。むしろ神様が召し取るはずだったものを横から分捕ったのだから、してやったりとほくそ笑んだものよ。ともあれ、そんなわけで一人前の剣客を育てるためにお前を連れて山に篭って、こうして色々教えてきたのさ……」
そんな話を義郎が幼少の時から、冗談を交えつつ幾度も教え聞かせたのは、己が実父でない事実をひた隠しにしても、遅からず露見すると察していたからだろう。
時々山中では得られない塩や金物を求めて近隣の人里へ降りるから、他者に問いただされる機会はいくらでもあるのだ。実際、里の子供たちは義蔵とまともに言葉を交わしたことがないのに、いつの頃からか義郎を『お山の捨郎』とあだ名していた。
「……なんで俺は、捨てられたんでしょうか?」
「あまり悩むな、そして親を恨むな。あの時お前を包んでいた布の厚みや清潔さを思えば、ぞんざいな気持ちで手放したのではあるまい。強いて言うなら、時代が悪かったのだ。お前を拾った当時の豊瑞穂は都の政治の乱れを受けて、どこもかしこも荒んでいた。夜討ち強盗に人買いは日常茶飯事で、用心棒で糊口をしのいでいたわしが引っ張り蛸だったからな。今の世の繁栄と平安は、今上の主尊陛下が御立ちになって御政道を正されてからさ……陛下があと数年早く即位していたら、お前もこんな老いぼれにさらわれる羽目にはならなかったろうとは思うが」
「そんな、とんでもないっ!」
義郎は身を詰めて師父の呟きを否定した。
「俺は先生に育てられた境遇を不幸だと思っていません。貴方が自己満足と自嘲する慈悲の心によって今日まで生きながらえてきて、感謝こそすれど憂う理由がありましょうか。今は主君も土地も持たない身ですが、将来必ずや先生の武芸で身を立てて、御恩に報いたいと思います。たとえ時運に恵まれず主君を得られなくても、深山流剣法の一の弟子として先生の技を伝え広め、その御名前を後の世に長く残す所存です!」
胸に秘めた孝行の志を力説する義理の息子の眼差しを、養父は微笑ましく眺めた。
「つくづく、いい拾い物をしたもんだ……おう、お前も飲まんか。今年で二十になったし、ちょっと付き合え」
義蔵は自ら酌をして、白濁した酒を杯になみなみと注いで義郎に差し出した。
「ありがたく頂きます」
義父の許しを得た義郎は、恭しく杯を受け取って口を付ける。
初めて飲む酒は酸味がきついものの、ほのかに甘みがあって口当たりがよく、素直に美味いと感じた。
師父に勧められるままついつい飲みすぎた義郎は、一刻(二時間)も経たぬうちに顔を真っ赤にして酔いつぶれてしまう。
「あ~……先生、いつの間に分身の術なんて編み出したんですか? 俺にも教えてください……ぐぅ」
「ちと飲ませすぎたか。まぁ、最初は皆そんなもんよ。何事も一度馬鹿やらかして初めて自分の限度が分かって、加減を覚えるのさ……って、聞こえてないか。少し休め。わしは厠に行ってくる」
義蔵はそういって立ち上がり、外へ出かけていった。
酩酊した義郎はうつらうつらとしながら師父の帰りを待つが、やがて囲炉裏の前でぐたりと横たわってしまい、片耳を床に付けたまま意識もまどろんでいった。
(ん、かすかに床板が軋んでる……先生が帰ってきた。でも妙だな、歩みが静かすぎる……ゆっくりと慎重で、まるで……狩りで獲物に近づく時みたいに――)
鈍い思考に稲妻が走ってはっと面を上げた時、木刀を振り上げた師父が傍に立って自分を見下ろしていた。
固く重い赤樫の凶器が頭上に振り下ろされるのと、とっさに囲炉裏に掛かった鍋の蓋を手にとって突き出し、太刀筋を受け止めたのが同時だった。
木の打ち合うかぁんと弾くような大音響と、腕に痺れを覚えさせる強い衝撃が、戯れではない本気の打ち込みだった事を物語る。
「な……何をするんですか!」
義郎は手元の刀をあわてて引き寄せると、跳ねるように床を蹴って後ずさった。腰を深く落として重心を低くし、酔いにふらつく身体を安定させる。柄に手をかけて相手を睨み、次の動きを伺った。
一方の義蔵は木刀をゆっくりと床に置き、満足げな笑みを浮かべている。
「完全な不意打ちのつもりだったが、よく凌いだな」
「一体なんの真似です。酒に呑まれて乱心でもなされたんですか!?」
狼狽する義郎に、義蔵は常の如く落ち着いた態度で応えた。
「んなわけあるか。二十年かけて心血注いだ努力の成果を、この目で確かめたまでよ。酒で不覚を取るようじゃ、早かれ遅かれその辺のやくざものに討たれておしまいだからな。しかし義郎よ、お前は見事にわしの太刀を防ぎきった。これなら世に出ても無様な死に方はせんだろう」
師父の言では、奇襲に対する動きで弟子の腕前を計ったというわけである。
「試しただって? 冗談じゃない、受け損なって死んでたらどうするつもりだったんだ!」
しかし、やられた側からすればたまったものではなかった。
ついさっきまで杯を酌み交わして同じ釜の飯を食べていた、しかも父と慕う人物に突然襲われたのである。殺されかけて「試しただけ」と流せる程、義郎は聖人君子ではない。
むしろ絶対無比の信頼を寄せていた相手にそんな仕打ちをされて、裏切られた思いで激昂していた。
「急所は狙っていない。しかし、万が一打ち所を誤ってお前が死んだら、いや、わしがお前を殺してしまったら、か。そうだな、その時は……」
義蔵は一瞬目を伏せた後、視線を激昂する息子に戻して静かに呟く。義郎が二十年の人生の中で初めて見る、鎮痛の面持ちだった。
「……お前の供養を里の坊主に頼んだ後、自分の腹かっさばいていたろうな。息子を一人前の剣士に仕立て上げる事を老後の楽しみにしていたのに、失ってしまったらもう生きる望みはないからな……」
最後の方は声が萎れていた。
急に襲われたかと思えば今度は胸中に秘めていた悲壮な覚悟を告げられ、義郎は怒りも忘れて沈黙してしまう。
どう返答すればいいか戸惑っていると、養父は床に腰を下ろして我が子に頭を下げた。
師弟としての譲れない矜持か、膝を着かず胡坐をかいての座礼だったが、養父が人に頭を垂れる姿など義郎は未だかつて見たことがなかった。
「事が終わってからいうのはあまりにも図々しいがその、なんだ……怖がらせてすまなかったな。お前の腕前を見定めた以上、こんな馬鹿げた振る舞いは二度とせんと誓うよ。ただ、奇道策略も兵法の内。お前が剣を頼みに生きるつもりならば、わしが見せたような卑劣な戦法を好む奴は、世にごまんといる事を肝に銘じて欲しい。今日の事を糧にして、つまらぬ相手に不覚を取らない事を切に願っている」
その時にはもう義郎は刀の柄から手を離し、父の肩にそっと手を載せていた。
「先生……そんなみっともない姿見たくないです。もう分かりましたから、頭を上げてください」
促されてためらいがちに顔を上げた義父は、努めて師匠の顔を作ってこう告げる。
「義郎、明日から旅に行って来い。西の出瑞国の大社に、国神の長を祀る岩屋御所という神域がある。そこへお参りして神前に演武と神酒を捧げるのだ。神様から分捕った子が立派に育ったのだから、神々の長老にもきちんとお披露目せんとな。神域に詣でた証の御朱印を持ち帰ってきたら、免許皆伝の認可状を授けよう」
「え、あの、急に旅立てと言われましても先立つものが……旅費が無いんですが」
いきなり旅立ちを命じられてたじろぐ義郎の言葉を、義父は「なんだ、そんなつまらん事」とばっさり切り捨てる。
「当座の路銀に米を少々持っていけ。あとは大の男の一人旅なんだから、道中の宿や人家で薪を割るなり水を汲むなりして自分で工面しろ。言っておくがお参りへ趣くからには、当然殺生厳禁だからな。野仕合で金品を賭けたり、狩りや釣りで食い扶持稼ぐのは無しだ。今までこんな辺鄙な山奥で過ごしてきたのだ、世に出て人と交わり見聞を広めるには良い機会だろう。無理に道を急がず、遠回りしても良いから自分の足で旅を完遂するのだぞ……とはいえ、わしがぽっくり行く前には戻って来いよ」
「は……はいっ!」
義郎が旅立ったのは、そういう次第だった。
◆
(――ん、そろそろか)
宿屋の厨房から、味噌汁の匂いが漂ってくる。もうすぐ朝食が出来るのだろう。
黙想を止めて目を開いた義郎は、窓から臨める出瑞山を見据えながら、胸に抱いた大志を静かに、そして熱く表明した。
「神々の長と呼ばれし出瑞の龍女よ、拙者は破れた社で人知れず死ぬはずだった我を救い育て、世に送り出してくれた師父の恩義に応えたい。これより御前に参るゆえ、我が技前を御覧あれ。それが神の意に叶うならば我が名を高めさせ、ひいては師父たる深山義蔵の御名を、後の世に長く伝えて残したまえ!」