第六話 神に聴かせる今様歌
「おお……」
舞が始まった途端、義郎は思わず感嘆の呻きを上げてしまった。
白拍子なる芸の奇抜さは、その格好だけに留まらなかった。舞人が男装の麗人ならば、その舞もまた派手な男舞だった。
楽人が緩急交えた激しい乱拍子で鼓を打ち鳴らすと、楽の音に応じて舞姫がしなやかな四肢を巧みに動かし、見る者をたちまち虜にする。鼓が一度響けばひらりと袖を振り上げて、二度轟けば滑るように旋回するといった具合に、ほとんど即興で行われる舞は一挙一動が素早く力強く、周囲を圧倒して呑み込む迫力があった。
さらに、この女芸能の見所は舞に留まらない。鈴音御前が蝶の羽ばたくように大きく袖を翻したその時、彼女の薄く小さな唇が開かれて、小鳥のさえずりを想起させる妙なる歌声が紡がれた。
出瑞の姫の 舞う日には
龍女が岩戸 押し開き
水穂の神酒の 慰めに
広大慈悲の 雨降らす
(その昔、人々を忌み嫌って洞窟にお隠れになった龍の女神の源主さまは、出瑞の賑姫の神楽舞に御心を動かされ、再び降臨なさった。そして捧げられた米の神酒を大層お気に召し、全ての憎しみを水に流して恵みの慈雨をもたらしたのである)
鈴音という芸名に相応しい、鈴を振るような心地よい歌声が川原に響き渡る。
八俣川の奔流が絶え間なくせせらぐ中でもなおはっきりと耳に届くその声量は、歌唱のために鍛え上げられた優れた喉を持つ証だった。
彼女が歌っているのは伝統的な三十一文字の短歌ではなく、『今様歌』と呼ばれる流行歌謡だった。七五調を四句繰り返して一首を定形とするが厳格な形式に執着せず、口ずさむに心地よい流れるような優美さを重視する。
義郎は歌道には疎かったが、読み書きを覚えるのに今様歌の『いろは歌』を手本としたし、旅の道中で流しの芸人等が歌うのを幾度と無く聞いたから、にわか程度の知識はあった。
素人の義郎から見ても、鈴音の歌には節回しといい声の溜めといい、聴衆を唸らせるものがある。流石は芸能を売りとする遊女の業だった。
鈴音は一局終える毎に化粧と衣装を直しつつ、出瑞にまつわる数首の今様を舞い歌う。
龍女の御山の 湧き水は
駒が飲めども なお涸れぬ
婿はおらねど 若宮は
八十王子あり 若ければ
(源主の泉は、逞しい馬がどれほど飲んでも涸れずに潤い続けている。源主に夫がいるとは聞かないのに、八十柱もの子供がいるのはなぜだろうか――若返りの変若水を守る女神だから、いつまでも若くてお盛んらしいよ)
「全く、今時の女子は恥じらいを知らんのか。男の格好で足を広げて、あんな猥雑な歌を……わしの若い頃の女子は皆、礼節を重んじて慎み深くだな……」
「爺さんや。そんなに嘆かわしいのなら、鼻の下を伸ばしてあの娘をじっくり眺めとるわけを、この婆さんにとっくり教えてくれんかね」
男装した少女が激しい男舞を舞い、俗で猥雑な流行歌謡を歌うその様は、年長者からすれば風紀の乱れを感じずにいられないだろう。
しかし若者にとっては目新しく刺激的であり、川原に集まった大多数が舞姫の美貌と芸能の業前にたちまち魅了されていた。誰もが息を呑み、舞姫が作り出す一時の享楽の世界に身を委ねるのだった。
出瑞は山の 雅なれ
霞の香の 匂い満ち
沢は奏でて 音絶えぬ
奥には滝御簾 岩屋御所
(出瑞山こそ最も優雅な山である。香を焚いたように霞が立ち込めて、沢は絶え間なく楽を奏する。最奥には滝水を御簾のように垂れ下ろした、女神様の棲む岩窟の宮殿があるよ)
(歌や舞なんてのは、場を賑わすための余興としか思ってなかったが……本当に良い業前には、人の心に響くものが宿るんだな)
出瑞の神の尊さや名所を讃える鈴音御前の歌舞に、この地を目指して長い旅路を歩んできた義郎は自分が励まされているように感じ入った。
だが、義郎のような者はそう多くなかったらしい。
「なかなか別嬪さんじゃねぇか」
「一晩いくらで買えるかな」
「止めとけ。ああいう連中は玉の輿を狙ってるから、男の選り好みが激しいんだよ。馬鹿高いお代を払えば芸は買えるが、言い寄っても適当にあしらわれるのが落ちだぜ」
「ちぇ、川原で寝そべる乞食芸人のくせに、お高くとまりやがって……」
川原の大衆を己の技で魅了し、御当地の神々を称えて健気に舞い歌う少女に注がれているのは敬意ではない。美貌と芸技で男を誘って客を取る遊女に対する、好色と侮蔑の眼差しだった。
舞台に立つのが神社に奉仕する正真正銘の巫女であれば、また違ったのかもしれない。
だが義郎は、彼女の活き活きとした白拍子舞には、神前に捧げても恥ずかしくない素晴らしさがあると感じていた。
当の鈴音は冷ややかな視線に慣れているのか、さして意に介していない風に見える。歌舞を終えて深々と一礼した後、沸き起こる拍手喝采の渦中で彼女はただ一点を――観客の頭上を過ぎこした遥か先、出瑞山を仰いでいた。
遊女の芸を大いに楽しんだ見物客達は、舞台の前に逆さで置かれた市女笠におひねりの銭や金品を次々と投げ入れる。義郎も決して重くない財布の紐を解いて銅銭を一枚取り出したが、単に投げ入れるのでは味気なく思い、舞台を降りた舞人に直接手渡して感想を告げることにした。見知らぬ女人に話しかけるのは不躾かとも思ったが、純粋に感じ入った者がここにいる事を伝えたいという気持ちが勝った。
「良いものを見せてもらった。拙者は出瑞山の龍神さまへお参りしに行く所だが、山道が辛くなったら君の歌を口ずさんで励みにするよ」
「……え?」
義郎が声をかける前から、鈴音御前の傍には既に何人かの男が集まって言い寄り、適当にあしらわれていた。また誰かが口説きに来たと思ったのだろう、義郎に話しかけられて反射的に振り向いた鈴音の表情は最初うんざりしているように見えたが、色欲とは無縁の、芸の腕前に対する誠実な感想を述べられて虚を突かれたようだった。
しかしそれも一瞬の事、すぐに広げた扇で口元を隠して、目元を緩めてにっこり微笑み返してくる。
「ええ、ありがとう。お侍さんもお願いがかなうよう、頑張ってね」
それが本心からのものか、単なる社交辞令か、武芸一筋で女人慣れしていない義郎には分からなかった。ただ舞い終わって滝のような汗をかき、火照った肌を桜色に紅潮させている彼女の疲弊した顔に、晴れ晴れとした笑顔を見る事ができて満足だった。
用を終えると義郎は足早に川原を立ち去り、改めて宿場町へ赴く。土手を上りきった時、霊峰出瑞山を遠方に捉えた義郎は、ふと思った。
(彼女の舞は、神々に届いたのだろうか)
そんな、他愛のない事を。
◆
春にも関わらず暗く鬱蒼とした森が広がる出瑞山の奥深くで、切り立った断崖の上に腰掛ける人影がある。
それは七歳程度の男児で、丸い童顔は眉目秀麗、肌はつきたての餅のように白くて瑞々しく、髪を左右の耳元で結って垂らす下げみずらにしていた。
衣服は狩衣の裾を短くした半尻で、白絹に金糸で縫われた銭型の斑紋が日光を返して目に眩しい。
履物を履かず裸足である点を除けば、立派な公家童子の装いだった。
童子は崖端に尻をついたまま、眼下に広がる出瑞国の平野を見下ろしている。
八俣川の八本の流れが脈々と大地を走り、地の果てまで続いていく風景は圧巻の一言だが、彼はただ一点、出瑞山の麓に近い宿場町の川原だけをじっと注視していた。
ここからそんな場所ばかり眺めても、人の耳目では何も見聞きできない。
けれども童子はらんらんと目を輝かせ、宙に投げ出した足を楽しげに揺らしている。彼には何かが聞こえ、何かが見えているのだろうか。
「いずみのひめがまうひには――」
童子が機嫌よく口ずさんだ時、別の声が山中に轟いた。
『このような日の下で何をしているのです。わたくしの所へ戻りなさい』
女と思わしき声が低く重く、山中に木霊する。
声の主の姿は見えない。だがその声が響いた途端、周囲がばたばたと騒がしくなり、樹上からは鳥が先を争って飛び立ち、地上では柴を踏み分ける獣の足音が遠ざかっていった。
童子の近くから生き物の息遣いは立ち消え、出瑞山中から際限なく湧き出る水と、風に擦れる木々の枝葉だけが音を立てていた。
「母上。お山の外から歌が聞こえるよ。誰かがお遊戯をやってるみたい。一緒に観ようよ」
振り向いた童子は物怖じせず、姿の見えぬ声の主に母と呼びかけ、喜色満面で見物に誘う。
『そのような事でいちいち惑わされるものではありません。人に見つかる前に、早く戻るのです』
声が山中を再び震わせる。童子をたしなめるその物言いは、言いつけを破った子供を叱る親を思わせた。
「大丈夫だよ。ここまで上ってくる人間は滅多にいなもん。もし見つかっても――」
童子の反論を遮って、森の奥から丸太よりも太く長い影が伸びてくる。
木々の隙間を縫いながら童子に迫ってきたそれは白い鱗に覆われており、まるで巨大な蛇か蜥蜴の尻尾だった。
白い尻尾は先端で童子を絡めとり、軽々と持ち上げる。
『一緒に、戻りなさい』
三度目の声は短かったが、静かな憤りが篭っていた。
「……はぁい」
諦めてうなづいた童子は、尻尾に縛められたまま大人しくさらわれて行く。
童子を捕まえた尻尾は森の中をずるずると引き返し、出瑞山のさらに奥へ潜っていった。
そして入り口に滝水が落ちる大洞窟――『滝御簾の岩屋御所』と呼ばれる、源主が棲むと伝えられる最奥神域の暗闇へ消えて行くのだった。
「出瑞の姫の舞う日には~」は
『鷲の御山の法の日は 曼荼羅万殊の華降りて 栴檀沈水匂い満ち 六草に大地ぞ動きける』
「龍女の御前の湧き水は~」は
『王子の御前の笹草は 駒が食めどもなお茂し 主は来ねども夜殿には 床の間ぞなき若ければ』
ともに『梁塵秘抄』より引用・改変。