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第五十五語 威を借る狐と怒れる蛇

 小さな童子が一瞬にして白い大蛇へと変じたのを見て、中庭の若衆たちは大きくどよめき、庭を囲む家屋からは恐慌した遊女たちの悲鳴が響いた。宿内に阿鼻叫喚が木霊する。


 当の若龍にゃくりゅうは、鏡を覗き込んだ自身の変化にすぐには気付かなかったらしい。しばしの間、巨大な鎌首をきょろきょろ動かして、眼下で喚き震える人々を不思議そうに眺めていた。だが自分の首から下が鱗に覆われた蛇体である事に気付くと、身を屈めて地面に転がり落ちた鏡をもう一度覗き込み、そこに映る蛇頭を見てようやく我が身の状況を悟ったようだった。


 そして、今の自分が小さくか弱い人間の童子ではなく、固い鱗と鋭い牙を備えた、誰もが恐れる大蛇であると自覚した若龍の行動は、大胆で迷いが無かった。ゆらりと鎌首をもたげると、鮮血色の巨眼で百太夫ひゃくだゆうをぎろりと睨み付け、大顎を開いて刀のような牙を見せつける。

 その血走った眼差しと鋭い凶器に、自分の母を侮辱した相手への強烈な怒りと殺意がみなぎっているのは、誰が見ても明らかである。


「なんと、これは……」


 大きな蛇の目に見つめられた百太夫は、その威容に圧倒されてしまった。ただ呆然と立ち尽くして見つめ返し、力の抜けた手から刀が滑り落ちた。


「若、もしかして……駄目だっ! ここで長者殿を殺めたら、本当に収まりがつかなくなる!」

「若様、お願いだから落ち着いて!」


 殺意を察した義郎よしろう鈴音すずねが背後から必死に呼びかけるが、若龍は振り向きもしない。激しい怒りと憎悪に突き動かされている者が、不意にその願望を実現できる力を手に入れて、冷静に聞く耳を持つはずがなかった。その太く長い胴体をずるりと前に進ませ、狙いを定めた獲物へとにじり寄る。

 義郎と鈴音は尻尾を掴んで必死の制止を試みたが、牛の胴よりも太い巨体をたかが二人で引き止められるはずもなく、逆に引きずられる始末。苛立たしげに振り向いた若龍が軽く尾を揺らしただけで振り飛ばされ、遠く庭池の真中へ放り込まれた。


「うぉっ……」

「きゃぁ!」


 うるさい従者二人を池に落として黙らせた若龍の行く手には、百太夫を守るべく生垣のように寄り集まった桃塚ももつかの若衆たちが立ちはだかる。


「ガキが縄を引きちぎったと思ったら、今度は化け蛇に……畜生、一体どうなってやがる! ……野郎ども、びびってんじゃねぇ! 化け物が相手だろうと、桃塚を守るのが俺たちの役目だ! 長者様と姐さん達を死んでも守れぇ!」


 先頭に立つ若衆頭が理解不能な状況に悪態を吐きながらも、今すべきことを判断して、恐れおののく仲間たちを大音声で叱咤激励する。慕う兄貴分に鼓舞された青年たちは、ここで女たちを捨てて逃げれば末代までの恥と腹を括り、武器を強く握り直した。


 そんななけなしの勇気で迎え撃たんと臨む人々に、若龍は頭から勢いよく突っ込んだ。集団の真ん中に体当たりしてまず数人を吹き飛ばし、その後は勢いに任せて周囲に群がる敵を咬んでは放り投げ、尾を振って殴り倒していく。 


「俺がぶっ殺してやる……うぐぁ!」

「くそ、くそ、こいつ刃が通らねぇ!」


 若衆達も踏みとどまって果敢に反撃し、飛び込んできた怪物を四方から囲んで一斉に打ってかかる。だが彼らは血気盛んで喧嘩慣れしていたが、商いを生業とする町人であって訓練した武者ではない。がむしゃらに刀槍を打ち込んでも、刃筋の立っていない斬撃、腰の入っていない刺突では、鎧のような鱗に空しく弾かれて折れるばかり。ある者は丸太のような尾に打ちのめされ、またある者は大顎に手足を咬まれて吐き捨てるように投げ出される。


「ぎゃあっ、咬まれた傷が火傷みたいに腫れて痛ぇ……!」

「気を付けろ、こいつ毒もってやがる!」


 特に咬まれた者は、牙から注ぎ込まれた蛇毒に侵され、徐々に広がる痛みと熱に苦しみ悶えた。出血を促しゆっくりと肉を溶かす蝮の毒ゆえに即死は免れているが、それが幸いなどとはとても言えまい。咬傷を押さえながら泡を吹いて呻く姿が、助け起こす仲間の戦意を挫く。


 若龍が頭を突き出し尾を打ち振るう度、三四人とまとめて塵芥の如く無慈悲に倒されていく。

 そんな戦いとは呼べない一方的な蹂躙の間、若衆たちが必死に守ろうとしている当の百太夫は――逃げも隠れもせず、神鏡を覗いて暴かれた老いた顔をぽかんとさせ、呆然と立ち尽くして目の前の光景を眺めていた。


「これがあの童子の真の姿……なんと力強く、神々しい事か……」


 しかしそれは竦みではなく、圧倒的な存在を前にして感銘を受けた放心であった。周囲の人々が狂乱する中、肝の太い人物だった。


「長者様、早く逃げましょう! 何をぼうっとしてらっしゃるんですか!」


 顔面蒼白のあおいが手を引いて避難を勧めるが、百太夫は袖を振って払い除け、静かに首を振る。


「いいや、無駄じゃ。妾の足ではとうてい逃げきれぬ。妾のために身体を張っている若いものたちには心苦しいがの……恐ろしいのなら一人で逃げよ」

「そんなわけには……ああ、駄目です近づいては!」


 百太夫は葵の制止を聞かず、それどころか一歩二歩とゆっくり、自ら若龍へ近づいていく。葵は百太夫を追って大蛇に近づく事も、彼女を置いて逃げることも出来ず、その背中を見守るしかなかった。


「先ほどまで言葉を交わしていたのじゃ。化生の姿になったからといって、言葉を解さぬとは限るまい。今一度、場を収めるべく対話を試みよう……」


 そしてちょうどその時、最後の一人となってまで薙刀を振り回し奮戦していた若衆頭が、途中で受けた毒の苦しみに耐えきれずついにくずおれた。


「う、ぐぅ……畜生! 化けもんが……」


 邪魔者を片付けた若龍は、再び身をくねらせて前進し――自分に向かって跪いて頭を垂れる、百太夫の姿を認めて立ち止まった。


「おみそれいたしました、若龍王子神おうじのかみ。あなた様を非力な童子と侮り、母君までも罵った非礼を、どうか詫びさせて下さいませ」


 ひれ伏した百太夫の打って変わって改まった物腰を見て、若龍は首を傾げて訝しげに様子を伺う。

 人外の相手が聞く耳を持ったと確かめるや、百太夫はうやうやしく面を上げ、若龍を仰ぎ見て言葉を続けた。


「見る者に畏怖を刻むその御姿、何人も抗えぬ猛々しい御力、しかと拝見いたしました。まさしく神話に伝え聞く国神の長、源主神みなもとぬしのかみの御血統を雄弁に物語る何よりもの証。その威風を拝見したならば、誰もが王子神様に一目置かざるを得ませぬ。たとえ上様、そう、大国主尊でさえも軽々しく手出しできますまい――妾が口添えしてお近づきになったならば、なおのこと」


 百太夫は若龍の力の前にひたすらひれ伏し称揚する一方で、帝王との人脈を持つ己の価値を強調して、両者の橋渡しを申し出た。


「どうか妾の数々の非礼をお赦し下さり、その御力をもって我が桃塚の守護者となっていただけませぬか。あなた様が後ろ盾になって下されば、妾は上様や諸々の公卿に強く働きかけて、あなた様の人界修行に様々な便宜を取り付ける事ができましょう」


 それは単なる命乞いではなく、若龍と桃塚が協力関係を結んで、主尊を牽制して譲歩を引き出せる強い立場を共に築こうという提案だった。大蛇を前にして臆さぬ肝の太さもさることながら、この期に及んで堂々と掌を返し、桃塚の安全と権益を追求するその図々しさは、名より実を取り清濁併せ吞む指導者の姿勢として、いっそ天晴ですらある。


「これをご覧くだされ」


 百太夫は羽織っていた紫色の上衣を脱ぐと両手で広げ、高く掲げて若龍に見せつける。


「この禁色きんじき直衣のうしこそ、上様より賜りし昵懇の証。この至宝にかけて、必ずや王子神様と上様の仲をお取り持ちするとお約束――」


 だが若龍は百太夫の言葉を最後まで待たず、目の前に広げられた直衣にかぶりと咬みつくと、牙を突き立てたそれを強引に引きちぎった。


「そんな、上様の衣が……」


 掌に残る、無残に引き裂かれた紫色の布きれを見つめて、百太夫は今度こそ信じられないものをみた思いで唖然とする。自分が長年頼みの綱としていた豊瑞穂とよみずほの最高権力者、その権威の庇護下にあるという象徴が、目の前の怪物に一瞬で否定されたのだった。

 若龍の蛇眼の縦長の瞳は、小賢しい策を弄した百太夫への殺気をますます色濃くしている。


「……虎の威を借る狐が、怒れる龍神と駆け引きしようなどと、やはり分不相応であったか……」


 目の前に開かれた大顎に反り立つ牙を諦観の眼差しで見つめながら、百太夫は独り自嘲した。そして牙が迫り、いざ百太夫の頭に食らいつかんとした時。


「させるかぁっ!」

 

 義郎が横合いから刀を突き出し、間一髪で牙を弾いた。

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