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第五十四話 真を映す鏡・下

「この小鬼めが! 不遜にも現人神あらひとがみを名乗って我が里に厄介事を持ち込んだばかりか、怪しげな鏡でわらわにいらぬ恥をかかせよって!」


 化粧を暴かれた百太夫ひゃくだゆうは、遊女としての矜持も、桃塚ももつかの長としての度量もかなぐり捨て、顔を真っ赤にして若龍にゃくりゅうを激しく罵った。


 秘め隠していた皺だらけの素顔は、わざわざ声高にあげつらって屈辱を上塗りした、無思慮な童子への苦々しい憎悪に歪められていた。ぽかんと見つめ返す阿呆の顔を、射殺さんばかりの眼差しできっと睨みつけ、ぎりりと歯ぎしりして憤怒をみなぎらせた険しい形相には、もはや仙女か妖狐かと見紛う艶美な面影など微塵もない。醜悪で恐ろしげな山姥だった。


「ええ? お化粧落ちちゃったのは、鏡を無理やり取り上げた自分のせいじゃない。それは僕の母上が鈴音にあげたもので、お婆さんのものじゃないよ!」

「やかましい! ……子が子なら、親も親じゃ!」


 百太夫の悪罵は目の前の童子だけでは飽き足らず、その母親の源主みなもとぬしにまで及んだ。


「こんな不愉快極まりないものを神宝と称して人の世界にもたらすとは、貴様の母神はなんと底意地が悪いのか! 龍女菩薩の化身などというが、しょせんは人の心を解さぬ蛇畜生の女神、とんだ疫病神じゃ!」

「……おばあさん、今、母上の悪口言った?」


 若龍の顔と声がにわかに険しくなる。自分を罵られても糠床に釘を打つように手ごたえがなかったのに、その矛先が母へ向けられた途端、怒りの感情を露わにした。


「ああ、何度でも言ってやろうとも! 貴様の母親は、秘蔵の若返りの霊水を分け与えるどころか、呪われた鏡を寄越して女人を辱める天邪鬼、無慈悲な邪神じゃ!」

「……母上の悪口をいうなぁ! 殺してやる!」


 若龍はかっと怒り叫び、百太夫に食って掛かる。だが百太夫はせせら笑い、かえって童子を挑発した。


「はんっ、殺すじゃと? 天地を動かす神通力もなく、せいぜい水の上を走って木の上を飛び回るしか能のない小僧に、縛られたまま何が出来ると? 妾を殺せるものなら、やってみるがよいわ!」

「……ふん!」


 若龍は一声叫ぶと、縛られたままの状態で大きく身動ぎし始めた。すると手足の関節がぐにゃりと、有り得ない方向に柔らかく曲がり、するりと縄目から脱してしまう。玉砂利の地面に二本の足ですっくと立ち上がって見せると、その場の誰もが驚き目を見張った。


「な、なに……」


 唐突な縄抜けに百太夫がたじろぐ間にも、若龍はさらに信じられない事をやってのける。若龍が大きく口を開けると、上あごから長く鋭い牙が二本飛び出した。そして両脇で拘束されている義郎よしろう鈴音すずねの縄目に噛り付くと、いともたやすくぷつりぷつりと噛み切って、二人を易々と解放してしまったのだ。

 突然自由になった二人は自分たちの手足を眺めながら、何が何やら分からず呆然としてしまう。彼らを取り押さえるべき周囲の若衆たちは、大口を開けて牙を見せつける若龍に威嚇されて後ずさった。


「若、縄抜けなんて出来たんですか? それにその牙……こんな力があるなら、どうして今まで隠して……」

「さっきまで出来なかったけど、あいつを殺したいって思ったら出来た」


 戸惑いながらも問いかける義郎に、上唇から大きな牙を覗かせた若龍が簡潔に答える。


「あいつって……」


 鈴音が問い質す前に、若龍は百太夫へ向き直った。ぎらりと睨みつけて鋭い牙を剥きだし、ゆっくりと近づいていく。眼前の相手に強烈な敵意を抱いているのは明らかだった。


「よくも母上を馬鹿にしたな……咬み殺してやる!」

「な、なんじゃ貴様……わ、妾に近づくな、近寄ったら斬るぞ!」


 化粧を暴かれて感情のまま激昂していた百太夫だが、得体の知れない力を発揮した若龍を目にして強く警戒した。義郎から奪った刀を鞘から抜き放ち、歩み寄って来る童子に切先を突き付け牽制する。

 女長老を守るべく、武器を構えなおした若衆達も寄り集まる。だが彼らも浮き足立っており、我こそはと勇んで取り押さようとする者はいない。


「若様、お止め下さい! いくら母君を馬鹿にされたからって、長者様を殺そうだなんて!」

「落ち着いてください若。よしんばここで長者殿に一矢報いても、かえって状況を悪化させるだけです」


 若龍と百太夫の間に新たに生まれた緊張状態を見て、自由になった義郎たちは慌てて追いすがり、幼い主を諌める。


「むむ……」


 前は百太夫の切先に気圧され、後ろから家来に縋りつかれた若龍は立ち往生してしまい、考えあぐねて視線を宙にさまよわせる――と。


「あ、鏡……」


 百太夫の足元に、彼女の化粧を暴いた神鏡――映真鏡えいしんきょうが地に転がっているのを目ざとく見つける。

 その視線に気づいた百太夫は、憎々しげに一瞥しながらそれを片手で拾い上げると、若龍目がけて打ち捨てるように乱雑に放り投げた。


「こんな不愉快な代物、返して欲しければくれてやるわ!」

「うわっと!」


 いきなり金物の円盤が飛んできて驚いた若龍だが、山育ちの身のこなしで、義郎が庇うよりも素早くはっしと掴みとって見せる。


「母上の鏡!」


 いささか乱暴ながらも、奪われた母神の品の一つを取り戻した若龍は思わず安堵して、後生大事に抱えながら鏡を覗き込む――覗き込んでしまった。


「あれ!?」


 映りこんだ顔をみて、若龍が吃驚仰天する。その理由は、鏡面を若龍の肩越しに、斜めから覗き込んだ義郎と鈴音にもはっきりと分かった。

 鏡に映っているのは、見目麗しい童子ではなく、白鱗赤目の巨大な蛇の頭だったのだ。


「ひ、ひぃっ!?」

「こ、これは……」


 鏡面に映る異形の顔を垣間見た二人が思わず仰け反った、その直後である。

 若龍の手から鏡が転げ落ち、小さな身体が激しく身震いする。そしてたちまち大きく膨れ上がったかと思うと衣服と皮が弾けて破れ、中から白銀に輝く鱗を鮮血色の銭斑紋で彩った、巨木の如く太く長い大蝮おおまむしが出現したのだ。


「ば……化けもんだぁ!」

「きゃぁあああ!」


 目の前の童子が突然、見上げる程に巨大な見るもおぞましい大蛇に変じた事で、宿内に悲鳴と混乱が巻き起こる。


「わ、若様が本当の、大蛇の姿に! なんでよりにもよってこんな時に……!?」


 先刻まで人の童子姿だった若龍が、間近でいきなり蛇神の正体を表わした事に動揺を隠せない鈴音。

 その一方、義郎は大蛇の威容を仰ぎ見ながら、噛みしめるように呟いた。


「映真鏡……真を、映す、鏡――」

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