第五十三話 真を映す鏡・上
鈴音の神鏡を覗き込んだ途端に、悲鳴を上げた百太夫。彼女は手にした鏡をとっさに放り投げると、空いた両手ですぐさま顔を覆い隠してしまった。
「どうなさいました、長者様!?」
驚いた葵や若衆たちが慌てて駆け寄るが、当の百太夫は差し伸べられた手を振り払い、顔を隠したまま切羽詰まった声音で激しく拒絶する。
「やめろ! 寄るな、触るでない!」
髪を振り乱して、近づく人々を寄せ付けない百太夫。だが彼女の身に起こった異変を最初に知らしめたのは、皮肉にもその頭髪だった。背中を流れる豊かな髪の変化を、周囲の若衆が驚愕と共に指摘する。
「お、おい……長者様の髪が、白くなってくぞ!?」
百太夫自慢の、長くしっとりとした艶やかな黒髪。それが葵と若衆たちの前で見る見るうちに色褪せて、無残な白髪一色へと様変わりしてしまったのだ。漆黒から白灰となった髪色は月光を浴びて一層際立ち、否が応でも衆目を集める。皆が我が目を疑い、どよめき立った。
だが異変はそれだけではない事を、葵が突き止める。彼女は百太夫の髪色の変化に恐れおののきながらも、肉親の身を案じて勇気を奮って進み出る。正対して様子を伺った彼女は、その途端に「ひぃっ」と悲鳴を上げて思わず身を退き、戦慄しながら呟いた。
「か、顔が……長者様のお顔が、溶けてる!?」
掌で覆い隠された百太夫の顔色は分からない。だが固く閉ざした指の隙間から、白く濁った液汁がどろりとあふれ出して、顎を伝ってだらだら滴り落ちていく。あたかもそれは、百太夫の白い細面が溶け落ちているかに見えた。
「なにぃ!? おい、野郎ども手を貸せ! 大丈夫か長者様!」
葵の言葉を聞いて若衆頭が驚き騒ぐ。安否を確かめるべく、百太夫へ駆け寄った若衆たちは、頑なに顔を見せまいとする女の抵抗を男数人がかりで抑え込んで、力づくで両手を顔面から引き剥がした。
「やめんかお前達! 見るな、見るな! 妾の顔を、見るなぁぁぁ……!」
百太夫の恥も外聞も捨てた悲痛な絶叫と共に、その身に起こった異変が月下で明らかとなる。
その顔を再確認した葵が、己の勘違いに気付いて叫ぶ。
「溶けてるのは、長者様のお顔じゃない……これはお化粧だわ!」
百太夫の顔面から溶け落ちているのは皮膚ではなかった。肌に塗り込めた白粉、唇に差した紅、眉に引いた墨――彼女の顔に施されていた濃厚な顔料が俄かに溶けだして混ざり合い、白粉を基調とした白濁汁となって滝の如く一斉に流れ落ちていたのだ。先の髪色の変化も、白髪染めが落ちたと見える。
「化粧だって? ……うげぇ! じゃ、じゃあ、これが長者様の素顔なのかよ!?」
百太夫を案じて駆け寄ったはずの若衆達は顔を見るなり、無礼にも総毛だってしまった。化粧の下から表れた女長老の容貌は、それほどまでに様変わりしていたのだ。
白く滑らかだった肌は、今は土気色を帯びて額から顎まで皺が刻まれている。細い弧を描いた眉も、ふっくらした頬も、張りを失って垂れ下がっていた。額には鼻下から上唇にかけての両端に走る法令線が、一層年齢を意識させる。
妖狐を思わせた艶めかしい熟女は、狸の如き老婆に変貌してしまったのだった。三十路の女盛りと錯覚させた外見も、およそ二十歳は老けこんでいる。
「う、うう、おおぉ……!」
若衆たちが驚いて手を引くなり、百太夫は地に膝を着いてうつ伏せになる。羽織った直衣の袖を頭に被せたまま、己の素顔を衆目に晒された恥辱に耐えかねて震え、咽び泣いた。
「な、なぁ、鈴音……あれが長者殿の、化粧を落とした素顔なのか? 急に老け込んだとかではなくて」
「え、ええと……」
義郎が百太夫の変貌ぶりに胆を潰しながらも問い質すと、鈴音は養母の方をちらと見てから、ためらいがちにこくりと頷く。
「ご本人の近くで言うのは気が咎めるけど……間違いないわ。お若い頃は数多の殿方に貢がせて家を傾けた傾城傾国と名高かったそうだけど、流石に寄る年波には勝てなくて……同じ宿に起居する身内以外には決して見せない、絶対に世間に知られたくなかったはずの、本当のお顔よ」
「長老として立つ歳と里を束ねる心労を慮れば、さもありなんといった有様だが……つくづく、女は化けるものなんだな」
初対面の時に零した第一印象を、義郎は唸るように繰り返した。
「だが、お前が源主から貰った鏡に、まさかあんな力が秘められていたとは。映真鏡か……真を映す鏡とは、なんとも皮肉な名だ。覗き込んだ長者殿の化粧をたちまち剥がして、見られたくなかった素顔を暴いてしまうなんて」
「そんな! 私、あんな風になるなんて全然知らなかったのよ! 出瑞山で貰った時も、今日の昼間も、鏡を覗き込んだけど何も――あっ」
義郎に反論しかけた鈴音は、自身の体験を思い出して気付いた事実にはっとする。
「私が覗き込んだ時は、いつも素顔だった……山では全身雨に打たれた後ですっかり濡れ落ちていたし、昼間もお風呂上りのお化粧直しで使ったから。でものりが妙に悪くて、結局鏡を取り換えた途端に普段通りになって……」
「鈴音っておけしょー薄いから、塗ってる最中に落ちてても気づきにくかったんじゃない? 鈴音の母上のお顔が溶けたみたいになっちゃったのって、ものすごく濃く塗ってたからでしょ」
若龍が鈴音の顔を覗き込みつつ、彼女と百太夫の違いを指摘する。
「ああ、確かに……女の化粧の事はよく分からんが、お前のは多分、素材を活かす感じみたいだからな」
義郎が鈴音の顔を覗き込み見ながら若龍の意見に同意すると、見つめられた鈴音は恥じらい顔を背けた。
「え、そんな、面と向かって綺麗だなんて……」
「あ、いや、口説いてるわけじゃないんだが……」
若龍は頭上で交わされる家来たちの場違いな漫才を無視して、百太夫へ目を移す。
「それにしても――」
そして、この場の大人たちの誰もが遠巻きに小声でささやき合ったしても、本人にだけは面と向かって言うまいと憚っていた、自明にして禁断の言葉を、鬼の首を取ったかように声高に言い放った。
「鈴音の母上って、おばさんじゃなくておばあさんだったんだね! びっくりしちゃった!」
瞬間、百太夫を中心としたどよめきが一斉に鎮まり、若龍へと視線が集まる。
老いさらばえた正体を暴かれ身悶える老遊女に対し、良く言えば曇りない眼で見たものを素直に述べ、悪くいえば残酷な現実を無思慮に突きつける子供の一言に、皆が凍りついた。
「ちょ、ちょっと若様! 長者さまになんて失礼な事を……!」
鈴音がとっさにたしなめるが、手足を縛められていては不躾な幼君の口を塞ぐ事は叶わない。
「ええー? だって義郎も今さっき『女は化ける』って言ってたじゃない。それに、おばさんから離れた所で皆も言ってるのが聞こえたよ」
義郎や若衆の男達は痛いところを突かれて、うっと押し黙る。
「それは……だからといって、面と向かって言って良い事と悪い事があって……」
「うーん……? 本当の事を言ったら、何でいけないの?」
物事の分別を諭す鈴音の言葉を、幼い若龍は解せずにしきりに首をかしげたるばかりだった。
そのような気まずい雰囲気の中で――
厚化粧を暴かれてうずくまり恥辱に震えていた百太夫は、無慈悲な一言を受けた途端にぴたりと身動ぎを止めていた。しかしやがておもむろに立ち上がり、身体をわなわな震わせながらゆっくりと若龍に振り向く。
そして、容色が変わり果ててもなお健在な鍛えられた喉から、憎悪と殺気のみなぎった怒号を轟かせた。
「……この性悪な小鬼めがぁっ!」




