第五十二話 葵の仲裁と鈴音の神鏡
「――皆さん! 一旦落ち着いてください! 長者様も男衆も、同じ桃塚の者同士、喧嘩腰で罵り合っても仕方ないでしょう!」
女長老百太夫と若衆組の喧々囂々たる対立の中、葵御前が唐突に声をあげた。
それまで長者に付き従い事の成り行きを見守っていた彼女だが、身内の争いにもつれこんでしまった状況を見るに見かねて、気丈にも仲裁に割って入ったのだ。
若い遊女を取りまとめる姉分の鶴の一声に、庭園の一同はようやく静まって、彼女の言葉に耳を傾けた。
衆目を集めた葵は、百太夫に向き直って宥めるように語りかける。
「長者様……私たち桃塚の民の安寧のために、主尊陛下のご不興を買う事を恐れていらっしゃるお気持ちは、よくわかります。けれども皆が言う通り、一度は暖かく迎え入れた客人たちを保身のためにと一方的に突き放しては人の道に反しますし、仮に陛下のお怒りは免れましても、客人を告げ口した我が宿に対して、世間の目は以後厳しくなりましょう。身内の鈴ちゃんまで犠牲にするとなればなおさら……そこまでせずとも、この人たちに朝廷への反意が無い事を誰の目にも明らかにすれば、十分ではないでしょうか」
「ぬぅ……葵や、何か案があるというのかね」
過去に見た粛清への強迫観念に囚われて強硬手段を固辞し、真っ向からの反対意見を拒絶していた百太夫だが、一歩身を退いて穏便に間を取り持とうとする葵にはわずかに心を開いた。
「そうですね……この人たちの宝物を長者様の伝手で陛下へご献上なされば、陛下もきっとお喜びになり、彼らの忠誠を認めて御嫌疑をお晴らしになるのでは?」
「宝物といっても、源主神の守る変若水を譲る事はできないと、そこの王子神の口からきっぱり断られたではないか」
「変若水を望まなくとも、彼らが土産に与えられたという神宝がほら……もうこちらの手に渡っているではありませんか」
葵は言いながら、百太夫が腰に差している義郎の刀を見つめ、同時に自分が携えている若龍の数珠と、鈴音の鏡を収めた鏡箱を持ち上げて示して見せた。
「流石に不老長寿の秘薬とは比べ物にならずとも、神から賜った曰くつきの宝には違いありません。これらの品々をお納めすれば、陛下もきっとご満足して頂けるのではないでしょうか」
葵の提案に、それまで頑なに持論を曲げなかった百太夫が「ううむ」と唸った。
「たしかに……その刀の業物ぶりといい、この水晶の数珠玉の輝きといい、世に二つとない名品に違いない。これらの神宝を妾の手で上様に献上すれば、少なくとも妾の誠意をお認めなさり、桃塚の安全は保障されるやも知れぬ。この三人の処遇を決めるのは、上様にご奏上してお考えを伺ってからでも手遅れにはなるまい」
「ええ、そうでしょうとも! それにもし陛下が神宝をお気に召して頂けたなら、当代に降臨した王子神さまを寛大な御心でお認めになり、かえって祝福なさるかもしれません! そうなれば鈴ちゃんたちが助かるばかりか、現人神を迎え入れた我ら桃塚の里の名声も、一層世に轟く事でしょう!」
ようやく態度を軟化させた百太夫に、葵は畳みかけるようにまくし立てる。ただし、その直後にちらりと若龍を見やって、後ろめたそうな面持ちで呟き洩らした。
「ただ……小君から母神様の形見とも言うべき品を取り上げるのは、いささか心苦しくありますが」
寄りかかっていた鈴音に支え起こされて座りなおしていた若龍は、葵の手にした数珠を凝視していた。大人たちの会話と剣呑な雰囲気から、桃塚の進退極まった微妙な立場を一応は理解したらしく、いたずらに騒いで抗議するのを堪え、じっと黙って葵たちのやりとりを見守っている。
それでも責めるような眼差しで見つめられていると、葵は胸がちくちくと痛み、後ろ髪をひかれるような罪悪感が拭えなかった。
「御自身の命と引き換えなのじゃから、納得して頂くしかあるまい。むしろ、源主神が己が子を世に送り出すにあたってこのような宝を持たせたのは、最初からこのような事態を見越した、人智を超えた神妙なお計らいやもしれぬ」
葵の折衷案に乗り気になった百太夫は、若龍の無言の非難を黙殺するどころか、手元にある神宝の存在意義を都合よく解釈して自身の行為を正当化し、意に介さない。
「勝手な事を……」
義郎が毒づくも、百太夫は一瞥するだけで何も言わない。
「なぁ、どう思うよ。今の長者様の言い分……」
「いや……本当に神様仏様からの授かり物だってんなら、そういう事もあるかもしれねぇし」
「ああ、第一、葵姐さんの考えも最もな気がするしよ……」
葵の提案を傾聴している若衆たちも、今度は義郎の発言に容易には同調しなかった。
先ほど若衆が義郎の義憤に靡いた時に縛めを解いてくれればよかったのだが、百太夫の批判ばかりに熱中して肝心の三人を放置し、その内に葵が介入した事で一旦落ち着きを取り戻すと、再び三人の処遇を巡る議論の風向きと若衆全体の空気が変わってしまった。こうなっては、どうにも解放は望めそうにない。
「とはいえ、上様に献上する前に妾がよく検分せねばな……その水晶の数珠の輝きは言わずもがな、刀の刃紋の美しさも先ほど抜いてよくわかった。だがまだ、鈴音が賜ったという神鏡だけは、手に入れたまままだ一見もしておらぬ。葵や、その鏡箱を開けて中身をよくみせなさい」
「あ、はい……どうぞご覧くださいませ」
葵は数珠を手首にかけて片手を開けると、もう一方の手に携えていた鏡箱を捧げるように抱え、蓋を開いて百太夫に中身を見せ示した。
「あ、私の鏡……映真鏡が」
鈴音が自分の神宝が品定めされる様子をみて、思わずその名をぽつりと呟くが、それは義郎と若龍にしか聞こえなかった。
「ほう、これもまた見事な……」
百太夫は箱に収められていた布の包みを取り出し、それを解いて現れた真円の銅鏡を一目見るなり、思わず賛嘆の声を漏らした。その全貌をよく確かめ、また周囲に見せ付けるべく、頭上に持ち上げて月明かりにかざす。
「裏に彫られた絡みあう双龍の仲睦まじさも実に眼福じゃが、何よりもこの明鏡ぶりは、まるで満月を手の内にしているようじゃ」
百太夫は惚れ惚れとしながら、神鏡の裏も表もためつすがめつ見上げ眺める。滑らかに磨かれた曇りなき鏡面は降り注ぐ月光をよく照り返し、たしかに鏡自身が光り輝いているとさえ錯覚しそうだった。
化粧道具になど興味を示さない男たちまでもが、その美しさを前にして「おお……」とおもわず息を呑む。中には手にした武器を取り落として「ありがたたや」と合掌して拝む者さえいた。庭園を囲む対屋からも、鈴音の神鏡の輝きに目を奪われた遊女たちの、羨望の囁きがかすかに聞こえてくる。
「水晶の数珠、神刀、そしてこの神鏡――うむ、この類稀なる三宝をお納めすれば、上様もさぞお喜びになるじゃろう」
百太夫は満足げに頷き、一人得心する。
虜囚の義郎と鈴音は、取り上げられた持ち物を勝手に献上させられる運びになって内心歯噛みし、若龍も眉間を険しくして恨めしげに長者を睨んでいたが、桃塚の長老は一顧だにしない。
さて、ひとしきり神鏡を鑑賞、いや検分し終えた百太夫は、それを再び布に包んで箱に収め直す前に、もう一度じっくり見ようと両腕を降ろして顔に近づけ、真正面から直視する。鏡の中に、己の円熟した妖艶な美貌がはっきりと映っている事を期待して覗き込んだ彼女は――
「ぎゃあぁぁぁっ!?」
先刻の義郎の怒声を遥かに上回る、狂乱の悲鳴を上げた。




