第五十一話 義郎の義憤と桃塚紛糾
6000字越えたので二分割して投稿です。
「そんな、長者様……二度と会えない方が良かっただなんて……」
百太夫の冷たい言葉に、義娘の鈴音は雷を受けたような衝撃を受けた。眩暈を覚え、縄で縛められて跪かせられた身体が傾いで倒れそうになるのをなんとか堪えるが、義母の顔を直視できず項垂れてしまう。
「命を懸けて、九死に一生を得てようやく帰って来られたのに、それなのに、こんなのって……あんまりだわ」
垂れた長い黒髪の房が俯けた顔を覆い、美しい小顔が胸を裂くような悲しみでみるみる歪んでいくのを衆目から隠してくれたのは、不幸中の幸いか。
「私、私っ――」
瞼を懸命に閉じているのに、目の奥から熱い滴がこみ上げて来るのを抑えられない。
いよいよ塩辛い洪水をせき止めきれず、声を上げて啜り泣きを始めるのも時間の問題だった。
だが、その前に。
「ふざけるなっ!」
同じく彼女の側で拘束されている義郎が、宿全体に響かんばかりの大音声で叫んだ。手に手に武器をもって囲んでいる若衆たちがすくみ上り、思わず一歩二歩と引き下がる。庭園を囲む建物からも、遊女たちの小さな悲鳴がどよめき立った。
ついでに、真横に座っていた若龍が義郎の怒声に「ひゃっ!」っとびっくりしてこてんと倒れ、反対側の鈴音にもたれ掛かる。
そのような周囲の動揺を意に介さず、青年は叫び続けた。
「お上の機嫌を損ねるのが怖くて切り捨てようってのか!? 余所者の俺と若はまだしも、大切に育ててきた娘の鈴音まで! それが人々を束ねる長老の、いいや、親のする事か! この人非人がっ!!」
武装集団に捕らわれて包囲されている中、いたずらに相手を刺激すべきか否か、むしろ萎縮させて動揺の隙を突くか――そんな武芸者としての小賢しい策謀など、今の義郎には毛頭なかった。ただ弱きを助け強気をくじく、青年特有の青臭い正義感が彼を突き動かし、湧き上がる義憤に伴う激しい怒りを衝動的に次々吐き出しているのだった。
「よ、義郎……」
平素の寡黙さをかなぐり捨て、他人のために猛り狂う青年をみた鈴音は、泣きかけていたのも忘れて唖然としてしまう。湿り気を帯びて曇っていた瞳が、一筋の光明を照らし返してほんのりと煌めいた。
「そ……そいつの言う通りだ!」
そして意外な事に、義郎に賛同する声が湧き起こる。それは彼らを捕らえるために長者が集めたはずの、桃塚の若衆の一人が発したものだった。まだ若衆組に入って日が浅いを思わしき、顔立ちに幼さの残る少年が、手にしていた長棒を地面に叩き捨てて長者に物申した。
「長者様! 夜中に急に呼び集めて何事かと思ったら、死んだと思ってた鈴姐さんを連れて来た、親切な余所者の兄ちゃんと坊っちゃんを、姐さんと一緒にとっ捕まえてお上に突き出そうだなんて……こんな恩知らずの馬鹿げた真似、俺たちにやらせないでくれよ!」
「なんじゃと……お前は、妾の話を聞いておったのか? お前を含めた桃塚の民を守るための苦肉の決断だと、聞かせてやったばかりであろう」
「たしかに俺は、長者様が仰ったことは難しくてちっとも分かんなかったけど……でも、俺たちのためつって鈴姐さんとこの人らを切り捨てたら、明日からお天道様に顔向けできねぇ気がすんだ!」
「綺麗ごとばかり抜かしおって。世の道理を弁えぬ、尻の青い小僧めが……」
長者は顔をしかめて、義郎たちの味方に回った少年を不愉快そうに睨みつける。まさか娘の鈴音を犠牲にしてまで守ろうとしている桃塚の民から、表立って反対の声が上がるとは想像していなかったのだろう。
「これ、若頭や! ぼやっと突っ立っとらんで、不躾な弟分を叱らぬか。放って騒がせていたら、面倒を見ているお前の責任じゃぞ」
「いや、長者様。若ぇ衆の頭張ってる以上、うかつな事は言えねぇと思ってついつい黙って従ってたけどよぉ……俺も実は、そこの余所者の兄さんに賛成なんでさぁ」
「……なんじゃと?」
義郎の義憤に刺激された一人が勇気を奮って異議を唱えると、青年たちを束ねる、二十半ばの若頭までもが担いでいた薙刀を降ろし、同調して長者への反意を示した。それを皮切りに、それまで桃塚の長の権威に唯々諾々と服従していた若い男たちが、続々と内心の不満を噴き出し始める。
「そうだ、今朝、湖の小島からお参りして帰って来た葵姐さんが、この三人を連れて島から戻って来たのは、もう宿場の皆が知ってるぜ。迎え船を出したおいらの父ちゃんが家に帰るなり、そこのお侍さんを宿まで担いだって聞かされたから間違いねぇ!」
「おいらは昼間にいつもの御用聞きにここへ顔出したら、長者様の仰せで一見サンの連れて来たガキを歓迎するからって、急いで鯉を卸せって無茶ぶりされてよ、半日かけて市を駆けずり回る羽目になったぜ。そんな苦労して持て成しといて、いきなり掌返しってのはあんまりじゃあねぇか」
「おう、その鯉なら俺が獲った奴だから間違いない!」
「そもそも鈴姉さんが宿に上げた男ってんなら、もう身内みたいなもんじゃねぇか。姐さん方とお客人の仲を口出しするだけでも野暮ってもんなのに、なんでお上に告げ口しなくちゃなんねぇんだよ!」
「後生だから、鈴さんだけでも見逃してくれよぉ! 小便臭えガキの頃から面倒見てきた娘っこじゃねぇですか……」
庭内の男たちの雰囲気が一気に変わり、自分たちが捉えた三人への同情と、それを命じた長者への非難に傾いた。
元来、難解で複雑な物事や理屈を疎んじ、むしろ単純明快で一本筋の通った頼もしさに憧れる、直情的な若い男たちである。老獪な年長者が里を守るために下した冷徹な政治的判断に「目上だから」と事情も知らずとりあえず従っていた所へ、保身のために親が子を切り捨てる非道を部外者の義郎に一喝されたとあれば、黙ってはいられない。
そして生まれて以来、父母兄弟から諄々(じゅんじゅん)と教え諭されてきた純朴な良心に適う方に理屈ではない共感を覚え、卑劣な行為に加担した負い目が翻って、指示した長者に対して一層反抗的になるのも、無理からぬ話であった。
「な、なんだなんだ? こいつら俺が怒鳴った途端に急に態度を変えて……逆上して嬲り殺しにされるかも知れないと腹くくってたのに」
最初に長者を糾弾して若衆の人情に火をつけた義郎が、焚きつけられた彼らの心境の変化と燃え盛る激情の勢いに追いつけず、一番戸惑っているというのはいっそ滑稽ですらあった。
「え、ちょっと、本当に何も考えないで言いたい事だけ言ってたの? ……私と若様まで巻き込まれたらどうするの!」
「いや、すまない。この状況じゃなにされても抵抗できないし、正直怒りで頭がいっぱいでそこまで考えが回らなかった」
「もうっ、馬鹿じゃないの……」
「あ、鈴音がちょっと笑ったー」
鈴音の膝に仰向けで乗りかかっていた若龍が、彼女の表情の変化を下から見上げて指摘する。周囲を囲む凶器にすっかり怯えていた童子も、男たちが急に武器を降ろして敵意が和らいだのを察すると、少しだけ緊張を解いて朗らかになっていた。
「ぬぅ……お前たち、自分が何を言っておるか承知しておるのか? この者たちの味方につけば、上様を怒りを買いかねないといっているじゃろうが! 桃塚に武士団が押し寄せるかもしれんのじゃぞ!」
いきなり非難の矛先を向けられてたじろぐ長者だが、孤立してもなお自説を曲げず、むしろ一時の人情に流される若者たちの浅慮を詰る。だが、調子づいた若衆たちの興奮は鎮まる事を知らない。
「お上の犬なんざ、俺達が追っ払えばいい! いくら長者様が主尊さまと仲良くしてるからって、身内と客を売り渡してまで媚びへつらう必要はねえよ!」
「そうだ、桃塚の沙汰は俺達桃塚の人間で決めるんだ!」
「この増上慢の、青二才どもがっ……」
地元を愛するがゆえ、朝廷の口だしに反感を覚える青年たちの無謀な大言壮語を前に、長者は吐き捨てるように毒づく。
「図らずも味方が得られたと、ほんの一瞬だけ期待したが……この険悪な雰囲気は不味いぞ」
場の風向きは変わったものの、その行き先を危ぶむ義郎。このままでは、百太夫の統制を離れた血気盛んな武装集団が、感情に身を任せてどのように動くか予測がつかない。
すでに対立の構図は、百太夫率いる地元桃塚の住民と、若龍を主君とする童子神一行の来訪者から、捕らえた後者の処遇を巡る桃塚内での長者と若衆の意見衝突へと変化していた。
「ど、どうしたらいいの義郎? このまま若衆の皆が怒りに身を任せて宿内で暴れ出したら、私たち何もできずに巻き込まれるわよ……」
「畜生っ! こいつら、まずはこの縄を解いてくれよ。目上に歯向かうのに夢中になって、肝心の俺たちをほったらかしにしやがって」
頭に血が上って大騒ぎする若者たちには、義郎の皮肉交じりの苦言など全く耳に届かなかった。
後編は同日19時頃に投稿予定です。




