第五十話 天下の許し
先刻まで静寂なる夜の帳に包まれていた宿内は、にわかに騒がしくなっていた。
宿の女主人である百太夫が、伏兵として用意していた桃塚の若衆に突然寝殿を包囲させ、対談していた三人を捕まえて中庭に引き出したのである。
中庭に集結した若衆の喧騒に刺激され、庭園を囲む対屋からも異常に気付いた遊女たちの悲鳴とざわめきが轟き始めた。女たちは武装した地元青年たちの物々しい雰囲気に気圧されて一歩も外に出られず、家屋の戸を固く閉ざして、降りた格子の隙間から事態の成り行きを固唾を飲んで見届ける構えを見せた。
降り注ぐ淡い月光と、男たちの掲げ持つ松明の火明かりが、庭内の一部始終を詳らかに照らし出す。
「ぐっ……」
男たちによって手足を縛られ、玉砂利の地面に罪人のように跪かせられた義郎が苦痛に呻く。
刀を取りあげられた徒手空拳で、武装集団に無闇に抵抗するのは下策と判じて、寝殿から屋外へ連行される間、黙って従順に振る舞っていた。だが十四、五から二十半ばまでの、血気盛んで喧嘩っ早い町の男たちは、怯えを見せない彼の毅然とした態度が気に入らないのか、あるいは捉えてもなお武芸者を内心で恐れているのか、「さっさと歩け」「余所見するな」と棒の先で小突き乱暴に引き立てたのだった。
一方、流石に女子供を甚振るのは良心が咎めたのか、同様に拘束して庭に並べられている他の二人は、そこまで手荒な扱いを受けなかった。刃物を手にした男たちに囲まれながら抱き運ばれた若龍は、すっかり怯えて降ろされた後も萎縮しているし、元来桃塚の住人でさらに長者の養子である鈴音は、むしろ下手に傷付けたり苦痛を与えないように気遣いさえあった。
だが多少手心を加えられたとて、それで喜ぶはずもない。鈴音は地に膝を着くなり髪を振り乱して面を上げ、寝殿の方をきっと睨みながら甲高く叫んだ。
「――長者さま! これは一体、どういうおつもりなんですか!?」
その声に応えて、暗い屋内の入り口から百太夫がちらりと顔を覗かせた。屋内の暗影の端から、入念に白粉を施した細面だけが亡霊のようにくっきり浮かび上がり、縛り上げられた鈴音たちを冷淡に見下ろしている。
「仕方あるまい。お前たちを生け捕りにするには、こうするしか方法が無いのじゃ。本来は、王子神が手のつけられない荒神だった時の備えとして、里の若い衆を呼び集めて潜ませていたのじゃが……結果的には役に立ったのう」
「私共を謀ったのですか!? 今上の主尊からの覚えめでたく、芸能の第一人者を名乗る天下の許しを得たほどの、立派なお方が!」
「鈴音や、お前は勘違いをしておる。天下の許しを得ているから、だからこそなのじゃ――葵、庭に降りるぞえ」
「あ……はい! 今お履物を……」
入り口の影に佇んでいた百太夫は、未だ怯えて屋内に籠っていた葵に用を言いつけると、回廊へ進み出て庭の衆目に姿を見せる。片腕を高く掲げて袖を翻し、上衣をその場の皆に見せつけた。一番上に羽織っている、濃い紫色に染め上げられた男物の直衣――薄暗い室内ですっかり闇に溶け込んでいたその暗色が、月光の下でまざまざと明らかになった途端、鈴音があっと叫ぶ。
「あの色、深紫……!」
「色がどうかしたのか」
義郎が問うと、鈴音は目を見張らせたまま教えた。
「禁色なのよ。貴重な紫根を湯水のように使って、何度も染め上げないと出せない贅沢な色で、あの色に染めた衣に袖を通せるのは、この国ではごくわずかな方々……大国主尊陛下の御一族と、朝廷の要職を任された一握りの公卿だけなの」
「なんでそんな大層なものを、遊女の長者殿が……」
「陛下より直々に賜り、身にまとう御許しを得たからじゃ」
義郎の疑問に百太夫自身が答える。鈴音の顔から視線を離して振り向けば、葵の用意した履物で庭に降りた長者が、袖をはためかせながら玉砂利を踏みしめてこちらへ近づいていた。
義郎から奪った刀を腰に帯びているが、長い金物の重さに振り回されない颯爽とした優雅な足運びは、流石は熟練の遊女であった。
若衆たちに道を開けられて悠々と進むその背中を、若龍の数珠と鈴音の鏡を携えた葵が、武装した男たちの様子を伺いながら恐る恐るついていく。
葵を付き従えた百太夫は三人の目の前で立ち止まると、彼らに諭すように告げた。
「鈴音が出瑞山で行方をくらましたと聞いた、あの日……娘が神隠しされたと嘆く妾の言葉を、自らが真実と認めてお慰めになったと、世間に知らしめる揺るぎなき証としてな」
その言葉を聞いて義郎の脳裏に、先刻に抱いたものの軽く流してしまったある予想が再浮上した。
「もしや、長者殿が今朝まで滞在しておられたという屋敷の、芸能好きの上様とは……」
「そうとも。妾はここ数日、政務を一段落させた主尊陛下――上様の御移り遊ばされた離宮に招かれて、管弦のお相手をしておった。その最中に、桃塚湖で起きた尋常ならぬ奇跡を密かに悟り、さらに遣いの者からお前たちの来訪を聞くと、すぐさま上様に暇乞いを申し出て、引き留めを固辞して舞い戻り――そして、お前たちと顔を会わせて、事情を詳らかに聞いた」
「はい……長者様は私たちの説明に一から十まで頷いて、ご理解してくださいまして。それがどうしていきなり、私たちを生け捕りにしようなどという話になるのですか」
「神隠しに遭ったはずの鈴音が生還し、出瑞権現の申し子を連れて来た――そこまでは良い。上様の御世に現人神が降臨したとなれば、本朝始まって以来のかつてない瑞祥じゃ。世の人々も礼賛するじゃろう……だが、その目的が『世直し』となれば、話は大きく変わる」
「え……?」
戸惑いの声を上げる鈴音に、百太夫は険しい眼差しを注ぎながら理由を説いた。
「我が宿に迎えた出瑞権現の申し子が、当代の世直しを唱えているとなれば、世間は一介の遊芸人に過ぎぬ妾が怪しい童子を担いで神仏の威光を騙り、朝廷の政に口出ししようという野心を疑うに違いない……そして上様は、そのような分を超えた振る舞いを決して御赦しにならぬ。桃塚に類が及ぶのを防ぐには、お前たちを妖言惑衆の徒として上様に引渡し、潔白を示さねばならぬ」
「そんな……妖言だなんて! 長者様は若様が本物の神様であると、会う前から確信していたとまで仰ったじゃないですか!」
「妾は今も固く信じておる」
百太夫は即座に断言した――したが、次いで力なく首を振った。
「だが……それは妾が芸能の道を極めて自ら体得した、霊感によって察した事。それを理解できず、お前たちのように直に神とまみえた事のない俗人どもに王子神の正当を説いた所で、下衆の勘繰りしかせぬのは想像に難くない。そしてそれは残念ながら、世俗の頂点に君臨するあのお方とて同じ事……ましてや自らの手で禁色の衣を与えた者が、掌を返して楯突いたと誤解したなら、どれほどの怒りを買う事か……!」
まくし立てる長者の顔はこわばり、半ば恐慌状態だった。ただでさえ白く塗った顔が、余計に蒼白して見えた。
そこへ、鏡と数珠を携えたまま側に控えていた葵が、なだめるようにそっと進言した。
「長者様……どうしてそこまで主尊陛下の御機嫌を恐れていらっしゃるのですか? お若い時分からお側に召し寄せられ、今も師弟の縁を結んでいるほどの、昵懇の仲でございませんか」
「長く付き合い良く知っているからこそ、妾はあのお方に敵意を抱かれるのが恐ろしいのじゃ……」
長者は誰にと言うでもなく、夜空を仰ぎながら呟いた。そして目を細めて月を見つめながら、遠い過去を思い起こすように昔語りを始めた。
「もう二十年も昔の事ゆえ、お前たちは知るまいが……上様が御即位なさって最初に行われたのは、主尊の権力を脅かす有力な公家の大粛清じゃった」
不穏な言葉に周囲の若者たちがにわかにざわつくのを無視して、長者は月を見ながら語り続けた。
「先主の御世まで、豊瑞穂を真に支配していたのは主尊の御一族ではなく、その外戚の名門公家たちじゃった。代々の主尊の后に名家の姫を宛がい、主尊の義父や祖父となった貴族が、婿や孫にあたる主尊に圧力をかけて宰相の地位を手に入れ、権力を独占していた……そうして数百年の長きに渡って私腹を肥やしてきた佞臣たちの罪状を、上様は太子時代に密かにお集めになっていた不義不正の証拠によって明らかにし、ことごとく捕らえなさった。さらに死の穢れを忌んで長らく免除されていた貴人への処刑を自らの勅命で復活させ、見せしめとして盛大に執り行ったのじゃ……ううっ」
そこまで言うと、長者は耐え切れなくなったように膝を崩して地面に手を突く。
慌てて傍に寄り添う葵に支えられてなんとか立ち上がる百太夫だが、その顔は俯き、足元の玉砂利を凝視したままだった。ぶるりと身を震せて両肩を抱き、呼吸が荒くなっている。
「この世のものと思えぬ、恐ろしい光景じゃった……我が世の春を謳歌していた名立たる公達がある日突然、上様が従える武士団に一斉に引き立てられ、項垂れながら都の大道から河原の刑場まで歩かされていく長い行列……砂礫の地べたに座らされ、悲痛な叫びと命乞いもむなしく粛々と斬首されていった……湧き溢れた血の河が川に注ぎ込んで、下流を朱の一色に染め上げていた……因果応報とはいえ、あまりにもむごい……」
過ぎ去ったはずの昔の出来事をまざまざ思い起こし、同時にこみ上げた恐怖と悲しみをひとしきり吐き出した長者は、ようやく再び面を上げた。いまいち実感が伴わず困惑している周囲の若者たちを、ぐるりと一瞥して言い放つ。
「当世の太平と繁栄しか知らぬお前たちには、にわかに信じられまい。膿を出し切った後に残った歪みを正して汚れを清めた、上様の御統治の恩恵に浴して育った者たちには……当時すでに上様のお側に侍っていた妾からして、我が身可愛さに固く口を閉ざしてきたのだから」
最後の呟きには、目を伏しがちにしてわずかに口元を歪ませた自嘲的な笑みが添えられていた。だがすぐに眉を歪めた悲壮な表情で、語気を荒げて叫んだ。
「――かくの如き苛烈な君主のお膝元で、神を名乗り世直しを唱える童子を、我が娘の手引きで桃塚に迎えたとなればどうなるか、火を見るより明らかではないか! 妾が上様の引き留めを固辞してまで急ぎ宿へ戻った以上、明日にでも使者が仔細を問い質しにやってくる。お前たちを匿うためにその場凌ぎでしらを切っても無駄じゃ……あのお方が優れた『目と耳』を持っておるのは、妾自身がよく知っておる」
唇を噛みしめながら呟いた最後の言葉には、何か皮肉げな響きがあったが、半ば恐慌状態の彼女を前に疑問を挟める者はいなかった。
「……やがて王子神の存在に気付いた上様が、妾に対してわずかでも野心の疑いを抱いたならば、もう一巻の終わりじゃ。妾の釈明など問答無用、桃塚へ武士団を送り込むのに躊躇するまい。所詮は取るに足らぬ遊芸人の里、見せしめに焼き払ったとて、治天の君にいかほどの痛痒があろうか? いくら妾が芸能の才を買われて覚えめでたくとも、女の身では頼み込むにも限りがある……!」
そこまで言うと、今度は若龍をきっと睨みつけた。縛られて周囲の刃物に怯えている童子神の情けない姿に、逆恨みに近い腹立たしげな怒りをぶつける。
「いっその事、本当に上様の寵愛を捨てて出瑞権現に与しようにも、担ぎ上げるのが天地を動かす術を知らず、ただ水面を歩いて経文を歌うしか能のない、非力な童子神では……せめてその子の口添えで、母神の持つ若返りの変若水を手に入れられれば、上様に献上して赦しを得る一縷の望みもあろうものを……与えるのに相応しくないと一蹴されては、返す言葉も無い……こうなってはもはや、連れて来た鈴音もろとも上様に引き渡して妾の身の潔白を示すしか、桃塚を守る方法はないではないか!」
口角泡を飛ばす気迫をぶつけられ、縮こまっていた若龍は、義郎と鈴音の顔を見比べながらたどたどしく口を開く。
「ねえ、僕何か悪いことしたの?」
「若ご自身に非はありませんが、長者殿にとって拙者たちは都合の悪い存在らしいですね」
じっと黙って鈴音と百太夫の問答に耳を傾けていた義郎が、若龍に教え諭した。そして百太夫を睨みながら、要点を確認した。
「『一旦は神の一行を手厚く迎え入れたは良いが、その目的を聞いてお上の逆鱗に触れると恐れおののいたから、自分の里を粛清から守るために悪党として捕らえて無関係をはっきり示そう』――それがあなたの、桃塚の長者としての判断ということか?」
百太夫は「そうじゃ……」と力なく頷いた。胸中の一切合財をぶちまけた彼女は肩を落とし、一度義郎をちらと見てから、鈴音に言葉をかける。
「鈴音よ……どうして帰って来てしまったのか。こんな事をせねばならぬくらいなら、むしろ二度と姿を見せず、この男と共に神の宮で永遠に遊んでいると信じて祈らせてくれた方が、どれほど心安かったか……」
娘を責めるその言葉は、身を切るような哀調を帯びていた。




