第五話 遊女鈴音の川原舞台
昼頃に山間の茶屋を発った義郎は、日の暮れぬうちに出瑞国の平野部へ入ることが出来た。今は川沿いの道を歩き、上流にある宿場町を目指している。
「これが神代からその名を知られる大河、八俣川か」
出瑞国は神話の時代から水源豊かな土地と名高く、出瑞平野には八十を越える河川が走る。
その中で最も太く長大な流れが八俣川である。出瑞山で生じる無数の小さな渓流が麓で合流して一本の大河となり、平野に降ると今度は八流に別れて、それぞれが諸国を貫く大水路になって大海を目指すという。
義郎が横目に眺めているのは分かれた八流の中の一つに過ぎないが、川の規模はそれ単体で既に大河の域に入っており、現に目の前では数隻の商船が川の上下を行き交い、その合間を塗って無数の渡し舟が両岸を往来している。水運に恵まれた土地柄を一目で教える光景だった。
「そしてこの川の源流を辿った果てが、霊峰出瑞山……出瑞大社はあそこだな」
遥か遠方を仰げば、青々とした山脈が連なる中に頭一つ抜きん出た大山、出瑞山が見える。深緑の木々に覆われたすり鉢状の地形が、とぐろを巻いて眠る大蛇を連想させた。
その名山を目印にしばらく街道を歩き続けていると、道行く人の数が徐々に増えていき、宿場が近い事を予感させた。
道の果てに賑やかな町並みが見えた頃、道沿いの川原に黒山の人だかりができているのを発見する。興味を抱いた義郎は道を外れて川原に入り、群集の端にいた男に訪ねた。
「失礼、川原で何か始まるのですか?」
「遊芸人が何か芸をやるらしいね」
「ふぅん、なるほど……」
遊芸人の興行と聞いて、義郎は納得した。諸国を渡り歩く旅芸人が名を売るために、道の辻や川原で芸を披露する光景は、どこへ行っても珍しくない。
「宿場はもう目と鼻の先だし、せっかくだから少し見物していくかな」
前方を眺めれば、川原の平らな場所に杭を立てて注連縄を渡らせ、内側に茣蓙を敷いた簡素な舞台が設けられている。芸人の姿は見えないが、舞台の背後に小さな天幕が立っており、中で準備しているらしい。
「そこのお侍さんはどこから参られたのかね」
所在なさげに立ち尽くしていた義郎は、近くでたむろしている旅装の集団から声をかけられた。
彼らの年格好はばらばらで、川原での催しに惹かれてふらりと集まった一期一会の輪らしい。世間話で時間をつぶし、興行の始まりを待っているようだ。
「億里国の住人です」
「ほう、たしか東でしたかな。たしか大口主とかいう、狼の神様の棲む山があるとか……」
「東国には金山銀山がたくさんあるらしいが、金ぴかの社が建ってるって噂は本当なのかい」
旅人との交流は、見知らぬ土地の話を聞ける貴重な機会である。
義郎と同郷の者はここにいなかったらしく、周囲の人々は縁無き東方の土地柄を根掘り葉掘り聞いてきた。義郎は質問攻めにあって面食らったが、一つ一つ真摯に答える。
「ここから東国へ行くなら、関所があって警備の行き届いた、安全な街道を選ぶべきです。近道しようと軽い気持ちでわき道に入ると、賊に出くわしますよ」
義郎が真剣な顔で忠告すると、旅人達はつまらない冗談を聞いたという風情で笑った。
「そんなの東国に限った話じゃないし、旅慣れてる者なら常識だよ。関所の通行料を惜しんで悪党の巣窟に飛び込むのは、世間知らずの間抜けだけさ」
「ははは……そうですね」
世間知らずの間抜けは、苦々しく愛想笑いしてお茶を濁す。
「ところでお侍さん、字は読めるのかい? もし読めるなら、あそこになんて書いてあるか読んで欲しいんだが」
旅人の一人が指差した方向を目で追えば、舞台の傍に演目を記した札が立てられていた。読み書きできる義郎は求めに応じ、目を凝らして読み上げる。
「ええと……『お出瑞の神々に奉る、白拍子の舞。舞手は桃塚の遊君、鈴音』」
義郎が読み上げると、都から来たという男がひゅうと機嫌よく口笛を吹いた。
「桃塚といえば、遊女の宿で名高い所じゃねぇか。桃塚の白拍子とくれば、こいつは期待できるな」
「白拍子ってなんだ?」
義郎を含めた数人が問うと、都人はちちち、と気障っぽく指を振る。
「今様(今風の意)の最先端を知らないとは、人生の半分は損してるよ。ま、これから始まるんだ。どういうものかは観ればわかるさ」
さてまもなく、天幕から芸人が出てきた。鼓を抱えた女楽人が最初に現れ、舞台の脇に座る。さらに間を置いて、今か今かと勿体ぶってからようやく舞人が現れた。
演目札によれば鈴音という名の舞女は、年の頃十七八だろうか。
薄く白粉を施した丸みのある顔立ちは繊細に整っており、腰まで流した黒髪はさらさらとして漆のように艶やかだ。
高名な遊女の里の女というだけあって、申し分の無い器量の持ち主だった。
しかし義郎は、舞台に立った鈴音を見て一瞬困惑する。
「あれが舞人の鈴音……御前、なのか? 女だよな。しかし、あの格好は……」
問題は舞女の美貌ではなく、格好である。鈴音が着ているのは上は水干、下は袴――すなわち男装束なのだ。
さらに頭に立烏帽子を結び、腰には白鞘巻の小太刀を佩いている。
冠といい帯刀といい、女性が着飾るのにこれほど見当違いなものは無かった。
とはいえ水干の胸元には膨らみが認められ、袴を締めた腰は細くくびれている。衣服こそ男物だが、中身が女体なのは疑う余地がない。
「男装の舞姫とはたまげたな。随分と風変わりな……東国ではあんなものは見た事がない」
「そういうのがいいんだよ」
義郎が呆然と呟く横で、都人は通ぶってしきりに頷いた。
鈴音の凛とした佇まいに、性別を偽ろうという素振りは見受けられない。
むしろ異性装による"ずれ"で女としての存在感を強く意識させ、衆目を惹くのが狙いらしい。
事実その姿は単に奇抜なばかりでなく倒錯的で、同性すら惑わしかねない退廃的な魅力を醸している。義郎が周囲に目を配ると、舞姫を見つめたまま惚けている娘も見受けられた。
(素直に娘らしく着飾れば、もっと綺麗に映えるだろうに)
男装の価値を認めつつ、それでも惜しく思ってしまうのは、義郎が草深い辺境の地で育った風流を弁えない武骨者だからなのだろうか。
田舎侍の野暮な嘆きなど露とも知らぬ鈴音御前は、舞台中央へ静々と歩み出ると、深々と頭を垂れて神前の礼を取った。それを受けて観客もしんと一様に静まり返るが、彼女の仰々しい礼式は通りがかりの野次馬どもに向けてのものではない。
再び面を上げた鈴音のきりりと引き締まった眼差しは、観客の頭上を通り越した遙か彼方――舞台と正対するようにそびえ立つ、霊峰出瑞山を仰いでいた。
(眼前の俺たちではなく、出瑞の神々に披露するというわけか)
剣術修行者の義郎は師父の薫陶を受けていた時分から、稽古の始まりと終わりには必ず軍神を祀る寺社がある方角へ神前の礼を取っていた。だから武芸と芸能という違いはあれども、川原で同じ所作を見せた舞姫の意図を察した。
脇に控えた囃子方の女楽人が鼓を打つのを合図に、鈴音は手にした扇を天にかざして花が咲き誇るが如く華やかに広げる。そして川原に響く鼓の音に合わせて茣蓙の舞台をゆっくりと踏みしめ、両腕を広げて美しく舞い始めた。