第四十九話 事態急変
「あーあ。質問ばっかりでたいくつー」
一時百太夫の姿が消えるなり、若龍は座りっぱなしに疲れたか、ころんと床に四肢を投げ出した。そのまま右に左に転がりまわり、板敷を軋ませる。
「若、お静かに――」
「まって、義郎」
若龍の行儀の悪さを諌めようとする義郎だったが、彼の袖を鈴音がそっと引いて押しとどめ、幼君を放ってささやきかけた。
「ちょっとそのままにしてあげて……若さまが騒いでいれば、私たちの会話は御簾の内側まで聞こえないはずだから」
「なに……?」
鈴音は声を潜めて内緒話を持ち掛けた。義郎が眉をひそめながらも同調して小声で応じると、鈴音はこくりと頷いて続ける。
「ねぇ、義郎……なんだか、長者様の様子がおかしい気がするの」
「どういう意味だ」
義郎が先を促すと、鈴音は不安げな表情で自分の考えを打ち明けた。
「長者様は桃塚遊君の長、それに主尊陛下に天下の許しを得た当世一の芸能者として、普段から気高く振る舞っておられるわ。『親兄弟を食わせるために身を売り、客を取るために芸を売っても、己の尊厳だけは決して売り渡すなかれ』と、日ごろから私たちに教え諭していらっしゃるの。だからこそ、誰に対しても媚を売らず尊大に振舞いなさって……それなのに子供の若様にこんなにへりくだって、見返りをちらつかせてまで物を乞うなんて。あんなみっともない姿、初めてみた……それは、本物の神様とご対面して、あまつさえ若返りの秘法の実在まで知ったのだから、普段の筋を曲げてでも欲しくなるかもしれないけど」
彼女の意見を聞いた義郎は、思わず腕を組んで唸り、首を捻りながら答えた。
「……たしかに芸道を極め、神々の世界を垣間見る程の徳を備えた御仁が、あんな露骨に俗物ぶりを見せたのは意外に思うが……でも私欲に突き動かされたにしては、問いかけの順番が不自然じゃないか。長者殿は先に若の神通力を訊ねたぞ。単なる変若水欲しさなら、真っ先にそちらから切り出しているはずだ。御自身が神と認めた存在を世間に知らしめたいとお考えなのは、決して嘘偽りじゃないだろう」
「ううん……それは私も、お慕いする長者様のお言葉を疑いたくはないけど」
二人が声を潜めて囁き合っていると、閉ざされた御簾の向こうで唐突に長者が声をあげた。
「葵、几帳を退けてくれ」
「畏まりました」
御簾の向こうで再び葵が立ち歩き、几帳を持ち上げて長者と義郎たちの視界を遮る垂れ幕を除けていく。その間に義郎と鈴音は、床を転がり遊んでいる若龍を慌てて押さえつけて円座に着きなおさせる。
再び長者と義郎たちが対面するが、義郎はふと違和感を覚える。
(御簾を、巻き上げさせていない……)
単に葵に指示し忘れたまま放っているだけかもしれない。だが先刻まで扇で顔を隠しもせず、正面から目線を合わせて言葉を交わしていた上座の人物と、今は母屋と庇間の空間を仕切ったまま対面している状況に、何やら理屈では説明できない、心の隔たりを感じてしまう。
『長者様の様子がおかしい』
百太夫を幼少から知る鈴音の先ほどの言葉が、より一層に不信感を募らせた。
だが義郎がそれを口にする前に、長者が若龍に三度目の問いかけを発する。
「王子神殿、一方的に訊ねたり所望したり、挙句に待たせて、色々と無礼を働いてしまいましたな。だが最後にもう一つ、お頼み申したい」
御簾越しに若龍を見つめていた長者は、その視線を彼の首元へと移した。そこで灯火を受けて星のように煌めく、水晶の数珠を。
「先ほど聞いた出瑞山での一部始終の中でも出て来た、母神さまから授かったと言う神宝を、妾に拝見させてくれんかね。いかなるものか間近で見て、触って確かめさせて頂きたい。鈴音と義郎、お前たちの賜った物じゃ」
「あ……はい!」
名指しされた鈴音はびくりと姿勢を正し、傍らに置いていた鏡箱を慌てて手に取って、長者に対して捧げるように見せ示した。
「これが、源主神から賜った、映真鏡という神鏡です」
「うむ。義郎よ、お前の刀も見せてくれ」
「……その前に一つ伺いたいのですが、何故御簾をお上げになられないのです?」
「虫よけじゃ。すっかり夜も更けて、火明かりに虫が集まってうっとおしくなってきたのでな」
「本当に?」
「他に何があるのかね」
「いえ……」
「納得したなら、刀を妾の手元へ」
「……承知しました」
心のどこかに引っ掛かりを感じつつも、明確に断る理由は見つからない。不承不承、義郎は刀を両手で捧げ持ってみせた。
「源主から賜った、『朽縄』と名を冠する神刀です。拙者の折れた刀を女神自ら修復したとか……自分でも検めましたが、もとは数打ちのなまくらだったとは信じられない名刀に様変わりしております」
「うむ。葵よ、取りに行ってくれ」
「鈴ちゃん、少しだけ預かるわね。深山殿、失礼いたします……」
長者の指示で、葵が御簾をくぐって庇間に入り、鈴音の神鏡と義郎の刀を回収する。その様子をみて頷いた長者は、最後に若龍をみやる。
「では王子神さまも数珠を葵へお預けくだされ」
「えっ……やだ」
左右の二人を見て予感していたらしい若龍は、首元の数珠を手放すまいとぎゅっと握りしめており、拒絶の意を示した。
「若様、私たちと義郎が先に預けたのですから、肝心の若様がお見せしないわけにはいかないでしょう。少しの間、長者さまにお見せするだけですから」
「やだっ」
「若様、そう我がままをおっしゃらないで……」
「やだやだ! 母上が僕にくれたんだもん、誰にも触らせたくない!」
若龍はとっさに立ち上がり、先ほど登った柱に向かって逃げ出そうとする。
「若っ!」
「あぅっ」
だがその襟首を義郎が引っつかんで強引に押し留めた。
「鈴音、俺が抑えておくからお前が数珠を取り上げてくれ」
「え、でも」
「可哀想だが、落ち着かせて納得するまで説得してたら夜が明ける。これじゃ話が進まん」
「ううー……!」
非力な童子の抵抗むなしく、母からの餞別の数珠は従者二人に無理やり取り上げられ、葵に回収される。
三種の神宝を抱えた葵は、再び御簾を潜って母屋の内へ戻り、それらを全て百太夫に手渡した。
「長者様、こちらです。ご覧くださいませ」
「うむ、よくやった葵。では早速拝見……としたい所じゃが。刀がこちらの手中に入った以上、もう伏せておく必要はなさそうじゃ。身の安全のためさっさと呼ぶとしようか」
「……? 長者様、一体何を仰って――」
不審な物言いに眉をひそめる葵の目の前で、長者が唐突に立ち上がり、よく通る声で外に向かって叫んだ。
「ものども、出でよ!」
芸能者として長年練り鍛えた喉から発した声が、静寂な夜闇の中でより一層遠くへと響く。さらに拍手を打ち、乾いた音を二度三度と鳴らした。
そして長者の声と音を合図に一同のいる寝殿の外、その四方から、ざっざっざ――と、玉砂利を激しく蹴散らす足音が幾重にも聞こえ始め、騒音が怒涛の波のように押し寄せ迫ってきた。
「え、え……!?」
予想外の出来事に葵は狼狽して、四方から聞こえる足音に翻弄されながら立ち尽くしてしまう。
「な、なんの音……?」
ぐずる若龍を宥めていた鈴音も強い不安に駆られ、思わず目の前の童子を強く抱きしめる。わけの分からぬうちに鈴音の胸中に押し包まれた若龍が、「むぎゅ」と悲鳴を上げた。
義郎も驚いて一瞬固まりかけたが、彼はすぐさま立ち上がって身を翻し、廊下へ繰り出す。そして眼前に広がる光景に目を見開く。
月下の庭に、男たちが数十人もひしめいていた。松明を持った幾人かが周囲を照らし、庶民的な小袖や水干に身を包む仲間たちの姿を明らかにしている。そしてある者は護身用の脇差や短刀を固く握り締め、またある者は船を漕ぐ櫂や薪割り斧を肩に担いで、皆が一様に凶器を手にしている様子が見て取れた。刃渡りの短い護身刀や生活道具を武器に代用した貧弱な装備だが、頭数だけは多かった。
その種々雑多な装いを廊下から一望した義郎は、男たちが武士や僧兵など生粋の戦闘者ではないと即座に見抜く。さらに彼らの正体を、普段は桃塚の宿場街で商いをしている町人や、桃塚湖の流域で舟を渡している水夫たちが、押っ取り刀で馳せ参じた、地元を自警する男衆だと推定した。
義郎たちは、百太夫の合図で一斉に駆けつけた、桃塚の住民たちに包囲されたのだ。
「長者殿! これはどういう――」
「きゃあっ!」
屋内に振り向いて百太夫に問いただそうとした義郎の声を、鈴音の悲鳴が遮った。
義郎が振り向いたときには、すでに室内の状況も一変していた。鈴音が床に倒れこみ、若龍の姿が消えている。
「おい、どうした鈴音!?」
「あなたが外の様子を見に行った途端、長者様が御簾を払いのけて私を突き飛ばして……若様が、長者様に……」
鈴音を助け起こしながら奥の母屋に目をやれば、若龍を引っつかんで母屋に引きずり込んだ百太夫が、上座に着き直した直後だった。
その背後に控えていた葵は「あわわ……」と口をぱくぱくさせながら、床板にはしたなく尻餅をついている。外の男たちの出現と長者の突然の凶行が同時に起こったせいで、鈴音の穏やかな姉分はすっかり頭が真っ白になって何もできないようだった。
「よ、よしろう……ひぃっ」
長者に捕まった若龍が義郎に助けを乞うが、首下にぎらりと光るものを突きつけられて怯えすくむ。それは義郎が百太夫に預けた――いいや、騙し取られた神刀の鋭い白刃だった。
「二人とも、そこを動くでない。妙な素振りをしたら、この小童の命はないぞ」
御簾の向こう側で、若龍を拘束した百太夫が冷酷に、明確な敵意を込めて義郎と鈴音に言い放った。




