第四十七話 百太夫、芸能の霊感を語る・下
「芸能とは突き詰めれば、巫女の神遊び。人が神を喜ばせて心を通わせ、祈りを届ける術がその源じゃ。芸能の道に努め励んで来た妾はいつの頃からか、歌舞音曲に没頭して理性を失った曖昧な意識に身を委ねている間だけ、常人とは異なる奇妙な感覚に目覚めている事に気付いた。その時にだけ感じられる不思議な力の流れが、人の世の物事に大きな影響を及ぼしている事にも……妾は自身が神と通じる力を自ずと体得し、神々の知覚している世界の一端を垣間見たのだと確信しておる。だからこそ今朝、その大いなる力が流れ込んだ御堂島に神の子を名乗る童子が現れたと聞いて、疑いなく素直に受け入れられたのじゃ。人目を忍んで密かに御堂島で鈴音を供養していた葵が、神霊を招き寄せた現実をな」
「え、わ、私がですか……?」
「そうだとも」
突然名指しされて背後で戸惑う葵に、長者は振りむいて頷いた。
「今の世の多くの人々は、歌や楽の音をせいぜい座興の慰みとしか考えておらぬが……本来は心地よい音色で神々の関心を惹き、彼らと打ち解けて交流するためにあったのじゃ。葵や、お前の芸能の才は、残念ながら鈴音と比べれば一歩及ばぬのは否めない。じゃがそれでも妾の代参として出瑞大社へ送り出し、神楽を奉納させるに恥じないひとかどの芸達者。七夜毎に御堂島で鎮魂の法楽を奉納しておれば、いずれ神の目にとまってその力を引き寄せたとしても、驚きはすれどおかしな話ではない」
「そんな、過大評価です。私は鈴ちゃんのためにお祈りしていただけで、そんなたいそれた事をしようなどと……」
「野良仕事で山に入った男が気まぐれに歌っていたら、山神に気に入られて魂を奪われ、そのまま還らぬ身となった話がある。人ならざる神々の行いに、人間の思惑など関係あるものか。当人が意図しようとしまいと、お前のお籠もりしていた小島に神々しい力が流れ込んでいくその様子を、妾はしかと認めたのじゃ」
そこで長者はふっと微笑み、誰に言うでもなく感慨深げに独りごちる。
「――さっきは義郎の大げさな考えを一蹴したが、あながち間違いではないのかもしれん。この霊感を研ぎ澄ませて自由自在に発揮できるようになれば、妾は森羅万象の流れを知って未来を見通す、まさに神と呼ぶに相応しい存在へと登り詰められるのやもしれぬな」
遊女の長老が長年の芸能の研鑽の末に霊感を体得したと告白し、さらにその先に神の領域さえも見据えていると仄めかされ、義郎と鈴音、そして葵はどう受け止めたものかと、すぐには言葉を発せられずしんと静まり返る。
「……にわかには、とても信じがたいお話です」
「そうだろうて。しかし、妾は神を自称する招かれざる客を、最上の賓客として引き留めるよう葵たちに指示して、その日の内に挨拶すべく舞い戻って来た。そして、こうして顔を会わせ言葉を交わした今もなお、態度を改めるつもりは毛頭ない。それこそが、何よりもの雄弁な証拠と言えないかね」
こうも力説されれば、義郎にも鈴音にも返す言葉が見つからない。事実、長者の指示した宴の歓待ぶりは、まるで貴人の中でもえり抜きの貴種とその家来に対する待遇だと鈴音が訝しむ程だった。年若い遊女をそそのかした法螺吹き男と物狂いの子供を適当にあしらうには、あまりにも大げさすぎる。最初から確信を抱いていたとしか思えない本気の対応だったのだ。
「ふぁ……ねぇ、そのお話もうおしまい? 長くて退屈で、つまんないよ……」
大人たちが絶句している中、若龍は暢気にあくびをかいていた。ここにいる中で一番好奇心旺盛そうな幼い子供が、長者の語った神秘的な体験を、まるで既知の事を繰り返し聞かされたかのように、実に興味なさげに聞き流していた。
「……あの、若様にもわかるんですか? 長者さまの仰られた、気とか霊力とか言う不思議な力の流れとか、五感を越えた霊感というものが……」
「えっ、人間ってそういうの分からないの?」
鈴音が眠たげな若龍を揺さぶり起こしながら訊ねると、むしろ若龍が意外そうにきょとんと問い返す。
「あれを人間の言葉でなんて言うのかは知らないけど……義郎も鈴音も、今までみてきたじゃない。御山で母上が怒って雷鳴らしたり、雨を降らせたり……さっきだって僕がお池を歩いてみせたでしょ。あんなに近くにいたのに、目と耳で見聞きする以外に何も感じなかったの?」
「……?」
義郎と鈴音は意味を解せず、若龍を挟んで顔を見合わせた。その様子を見て、百太夫はため息を吐く。
「その子に問うても無駄じゃろう。言ったではないか、目の無い者に絵を見せたり、耳の無い物に音を聞かせる事はできないと。元より人知を超えた領域なのじゃ。神の子にとっては、わざわざ言葉で表す必要すら考えられない自然の感覚でも、教えられる側に共感できる能力が備わっていなければ、どれだけ説明されても理解できはしまい……とにかく、妾が確たる根拠をもってお前達の言い分を肯定しているのだと、これで納得してもらえるかね。そして、それと同様の理由で――」
百太夫は言葉を区切り、再び鈴音に目を移す。そして、慈愛の籠った優しげな眼差しで若い娘の顔を見つめ、諭すように語りかけた。
「――出瑞山で行方をくらました大事な養い娘が神隠しに遭い、山の神に召し取られたと公言したのも、本心から発した言葉だと信じてもらえるじゃろうか。身内の不幸に乗じて宿場を喧伝しようなどという、下衆な商売根性からではないのだと」
「……っ、長者様……」
「おかえり、鈴音や……よく生きて帰ってきてくれたね」
「……は、はい……!」
その一言をやっと絞り出すと、鈴音は目頭を押さえながら顔を俯せた。隣に座る若龍が伏せた彼女の表情を見上げて、素っ頓狂な声をあげる。
「あれ、鈴音泣いてる? 悲しいの? ……おばさん、今、鈴音にひどいこといったの!? 駄目だよ、謝って!」
「いいえ、若様、嬉しいんです……!」
立ち上がって百太夫に詰め寄ろうとする若龍の肩を鈴音が制し、ふるふると首を振りながら否定した。
「嬉しいのに泣くの? へんなの……」
「そうかもしれませんね、ふふ……」
しきりに首を傾げる若龍に、目に溜めた涙を拭いながら微笑みかける鈴音。義郎は温かい目でそれ見守り、若龍に座り直すよう促した。
長者の背後でも葵が手元の扇を広げて顔を隠し、嗚咽を漏らしながら肩を震わせている。
皆が落ち着いたのを見計らって、百太夫は再び口を開いた。
「……お前の失踪を妾が霊験譚に仕立て上げたと聞いて、さぞ情けの薄い義母と恨んだじゃろう。妾を憎く思うなら、甘んじて受け容れようとも。どう言いつくろったところで、もはや二度と帰らぬ身と諦めていたのは、紛れもない事実なのだから」
長者は鈴音だけでなく、皆を見渡してこのように説き伏せる。
「なにせ古来より、神隠しにあった男や子供が後からひょっこり帰ってきた話はしばしば聞くが、年頃の娘が無事に生還することは極めてまれなのじゃ。辛うじて消息が知れても、鬼神の妻として囲いものにされていたり、自身が狂って山姥となってしまったり、多くは異界の慣わしに流され屈して、人界に戻るのは叶わぬ身となってしまうもの。だから鈴音が出瑞山の神の下でよしんば生きていたとしても、もう二度と会える身ではなかろうと早合点してしまったのじゃ。いくら芸が達者で気丈な自慢の娘でも、異界の強大な存在に捕らわれて抗う力など持ち合わせてはいまいと……だが妾は自分の娘の道連れに、男も一人消えたという話を失念しておった」
最後の一言と共に、長者の視線は義郎へと注がれた。
「いかなる過ちで鈴音が神隠しに遭い、どうして王子神を伴って帰ってくる次第になったのか、そういった詳しい事はじかに聞かねば分からぬが……義郎よ、おそらくはお前が力を貸して、荒ぶる国神から妾の娘を取り返してくれたのだね。かつて荒彦さまが、生贄に捧げられた賑姫さまを救った如くに」
揺るぎなき確信に裏打ちされたその言葉は、もはや問いかけではなく答え合わせのようなものだった。
(……鈴音の言うとおりだ。この女人はたかが年増の遊女と侮ってはならない、とんでもない傑物だ……)
こちらから事情を明かさぬ内に、自身の直感と見識だけでそこまで見抜いた桃塚の長者。その洞察力に義郎はすっかり感服してしまい、黙って頷くしかできなかった。




