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第四十六話 百太夫、芸能の霊感を語る・上

わらわがその童子を本物の神だと見抜いた理由、それを一言で表すならば……そう、直感じゃな。長年芸能の道を歩んできた、遊君ゆうくんとしての勘働きじゃ」


 意味深な言動で皆を困惑させ、そればかりか若龍にゃくりゅう出瑞いずみ山から降臨した王子神だと会う前から察していたと豪語する、桃塚遊女の女長老百太夫ひゃくだゆう。けれども彼女の明かしたその根拠は、あまりにもあっけらかんとしていた。


「か、勘ですって? ……ふざけないでください長者様! こんな重大事に対してそんな、あまりにもいい加減な……! からかうにしても冗談が過ぎます!」

鈴音すずねや、妾は決して諧謔かいぎゃくを弄しておるのではない。まずはよくお聞き。肝心のいきさつはこれからじゃ――」


 百太夫の単純すぎる説明に、理由を訊ねた当の義郎よしろうよりも先に鈴音が憤慨するも、百太夫は若い娘の短気を厳かに諌め、言葉を続けた。


「妾はこの数日間、古馴染みのお方の別荘に招かれ、宿を留守にしてそちらの屋敷に滞在しておった……そのお屋敷の上様は大層な遊興好きでな。長年朝廷の公務に携わり多忙にも関わらず、一日として管弦を爪弾かぬ日は無いという筋金入りじゃ。梅雨を目前にした百姓たちの慌ただしい田植えが近頃ようやく済み、それに関わる諸々の膨大な仕事を片付けられた上様は、これで梅雨入りまでのわずかな一時を趣味に費やせると大張りきりでの。屋敷に妾を上げてからというもの連日連夜、日頃の憂さを晴らさんばかりに歌舞音曲の遊びに没頭しておった。昨晩も妾は上様のお側で、夜通し今様の歌い比べの相手をしていたのじゃ」

(遊興好きの宮廷人? まさか……いや、よそう)


 予め鈴音から長者の交友関係を聞いていた義郎は、話を聞いている内にその"上様"についてある想像がよぎった。しかし今ここで彼女の話の腰を折って問い質したところで、熟練の遊女が上客の素性を明かすはずもない。義郎は余計な好奇心を抑え、大人しく聞き手に徹する。


「上様の歌声に妾が琴を合わせ、妾の節回しで上様が笛を奏でるといった調子で、交互に音曲を競い合って数刻……気づけば月は西の山端に掛かり、夜は白み始めておった。鶏が朝鳴きする前にお開きにしようという事で、最後に上様の所望で一曲ひとさし妾が歌う運びとなった。上様の別荘から一望できる桃塚湖の美しさを称えて、このようにな――」


 百太夫は深く息を吸うと天井を仰ぎ、頭上の闇をじっとみつめながら今様を静かに口ずさんだ。


 桃塚ももつかの湖は海ならず 出瑞龍女いずみりゅうにょの池ぞかし

 ぞの海 常楽我浄じょうらくがじょうの風吹けば

 七宝蓮華しちほうれんげの波ぞ立つ

(桃塚湖はただの湖ではない。龍女菩薩りゅうにょぼさつの化身である出瑞山いずみやま源主神みなもとぬしのかみが、川をひいてお造りになった浄土の池なのだよ。どのような湖か。永遠不滅で苦も束縛もない清らかな悟りの風が湖面に吹くと、七つの宝玉でできた蓮の花弁のような波が飛沫を上げてきらきら光り輝くのだ)


「その時じゃ――歌ったまさにその如くに、一陣の風が妾の身に吹き付けるのを感じた。いや、現実に風が吹いたわけではない。そのような"気"を感じたのじゃ。遠く彼方の出瑞山から端を発して桃塚湖へと辿り着く、大いなる力の流れ……桃塚湖の御堂島に奔流の如く注ぎ込むその余波が、歌舞に没頭して何も考えられないでいた妾の心にもはっきりと認識できた」

「気……大いなる力の流れ? どういう意味ですかそれは」


 鈴音の問いかけに、百太夫は少し困ったような顔を作る。


「気、霊力、神の息吹……その名称は色々あるが、いざその実態を問われればどう説明したものやら……あの瞬間、無我の境地の中で体感していた妾にとって、"それ"は目に見えるもので、耳に聞こえて、肌触りがあり、舌で味わい、鼻で嗅げるものじゃった。しかし今、正常な理性によって思い起こしてみると、"それ"が何の色に似ているか、何の音に似ているか、何の触り心地に似ており、何の味に似ていて、何の匂いに似ているか……何に例えれば良いのか、妾にも皆目分からぬよ」


「……抽象的で、仰られてる意味がよくわかりません。まるで禅問答みたい」


 鈴音が困惑して呟くと、当の百太夫でさえ「無理もない」と同意を示す。


「これを子細漏らさず教えるのはとても難しい……例えるならば、目の見えぬ者に絵画の美しさを説き、耳の聞こえぬ者に管弦の音色を楽しませるようなもの。その身で体感できない者に正確に伝えるのは、あまりにも困難じゃ。だが誤解を恐れず、あえて言葉を重ねるならば……義郎よ、お前は武芸者だそうだね」


 首を傾げる鈴音を余所に、百太夫は義郎へ視線を移す。彼の傍に置かれた刀を視界の片隅に納めながら、問い質すように語りかけた。


「聞く所によれば真に武芸を極めし者は、敵が巧みに身を隠してその姿が目に映らず、息づかいも耳に入らず、体臭さえ鼻に届かないのに、ただ己に向けられた殺意だけで敵の存在に自ずと気づき、不意打ちを未然に防いでしまうとか。さらに白刃をもって切り結べば、敵の振りかぶる寸前に剣先の軌跡を読み切ってこれを返り討ちにし、また弓を取って矢をつがえれば、暗闇の中で走る敵を一射で仕留めるという――芸能の道を歩む者も、己の技芸と精神を磨き上げて極めていく中で、それに似た直感を体得しうるのだと言えば、理解できるかね」

「……仰りたい事は、なんとなく分かる気がいたします。自分で体験した事はありませんが、技を究めた武人の中には、そのような領域に達する神業の持ち主がいると――」


 そこで義郎ははっと言葉を失って口を閉ざし、自問自答するように呟いた。


「神の、領域……」


 そして神妙な面持ちで改めて百太夫を見据えると、自身の考えを確かめるように彼女へ問いかける。


「……もしや長者殿は、御自身が芸能を極めた末に、生きながらにして人神ひとがみに昇華しておられるというのですか? 豊瑞穂建国の国母、賑姫神さまのように……」

「ええっ? 本当ですか長者さま!?」

「そんな、まさか……」

 

 義郎の大胆な憶測にそばにいる鈴音も、百太夫の後ろに控えているあおいも思わず口を開けて驚く。大人たちの会話についていけずうとうと微睡んでいた若龍も、女二人の驚嘆の声に反応して「ふぇ?」と顔を上げた。

 一堂が百太夫に注目する中、しかし彼女はゆるやかに首を振る。


「妾が力を入れずして天地を動かせるような、偉大な力の持ち主に見えるかね? 自身が神に上り詰めたなどと、そこまで己惚れてはおらんよ……じゃが常人には感じられず、おそらく人知を超えた神仏ならば当たり前に感じられるのであろう、筆舌に尽くしがたい感覚――五感を越えた第六感、神仏の存在や力を認識できる霊感とでも呼ぶべきものが、わずかながらこの身に備わっていると自負しておる」

「第六感……神仏を知覚できる、霊感……」


 義郎たちはごくりと生唾を飲みこみ、長者の言葉の先を促した。彼女は期待に応えてゆっくりと語る。

「桃塚の湖は海ならず……」は『梁塵秘抄』より引用、改変。

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