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第四十五話 桃塚の長者、百太夫

 桃塚の長者は上座に腰を降ろし、脇息に肩肘を預けてゆったりと構えていた。御簾を巻き上げ几帳を脇へ押しやり、堂々と姿を晒している。灯台が煌々と燃え輝き、暗い室内に彼女の姿をはっきり浮かび上がらせていた。

 その斜め背後には鈴音の姉分であるあおいが介添え人のように控えており、やってきた妹分と客人たちを不安げに見つめる。


「……鈴音、長者殿は遊女の長老なんだよな」


 長者からの言葉を待ちつつ、上目づかいに相手を伺い見た義郎は、若龍を挟んで並び座る鈴音に囁き訊ねた。


「そうよ」


 鈴音が首を動かさず小声で肯定すると、義郎は戸惑いの呟きを漏らす。


「……とても老人には見えないんだが」


 人々から長者と仰がれるからには、どう若く見積もっても四十路は下らないはずだ。しかし目の前にいる人物は、とても女の盛りを過ぎていると思えなかった。たしかに決して若くはない――だが老いているとも断言できない。義郎が事前に何も知らされず、葵や鈴音の年の離れた姉だと紹介されたならうっかり信じてしまいかねなかった。


桃塚ももつか遊君の頂点に立つお方だもの。入念におめかしすれば、あれくらいは容易いものよ」

「……女は化ける物なんだな」


 鈴音の言い足しを横に聞きながら、義郎は開いた口を閉じるのも忘れて呆然と長者を仰ぎ見る。それほどまでに目の前の人物は美しい――いいや、艶めかしかった。

 それは鈴音の溌剌はつらつとした生気溢れる可憐さや、葵の落ち着いた穏やかな華やかさと異なる、むせかえるように濃厚で熟した色気だった。妖艶さという意味で、源主に似た雰囲気の持ち主かもしれない。ただしあの女神の見る者を凍てつかせる氷の美貌に比べ、遙かに柔和で人間的な温もりがある。


 長者の容貌を例えるなら、まるで妖狐だった。

 端正な面立ちには王侯貴族に勝るとも劣らない気品があるだけでなく、男を誑かして城や国を傾ける魔性の魅力が宿っていた。丹塗りの唇はふっくらと瑞々しく、烏の濡れ羽色の長い髪が火明かりの中でしっとり照り輝いている。整った眉は蛾の触角に似て細い弧を描き、白い肌は凝り固めた脂の如く滑らかそうだった。切れ長の目を細めた様は実に悩ましげだ。

 鈴音や葵の着物より一等上質な、目に痛いほど色彩鮮やかな衣をいくつも重ね着している。一番上に男物の直衣のうしを一枚だけ羽織っていたが、その取り合わせにちぐはぐな印象はなく、むしろ粋に着こなしていた。衣に焚き染めた伽羅きゃら香の深く甘い芳香が、離れていても匂ってくる。


 長者はしばらく沈黙して三人を高座から睥睨していたが、やがてその細面に微笑を浮かべておもむろに口を開いた。


「お前が若龍なのだね」


 年季が入っているがよく通り、低くとも衰えを感じさせないその声質は、喉を長年鍛えてきた熟練の芸能者である事を匂わせる。

 円座にちょこんと座り、正対する長者をじっと見つめ返していた若龍は、名指しされても物怖じせず、朗らかな笑顔で元気に返事した。


「うん! 僕、若龍! おばさんが"ちょーじゃさま"? 鈴音のお母上なんだよね?」


 開口一番、初対面の女性を『おばさん』と呼ぶ若龍の失言に、義郎は気まずい思いを味わった。


(こんな若作りしている遊女に年増呼ばわりは……いやしかし、年端のいかない子供が『あなた』や『ご婦人』などと畏まるのもそれはそれで不気味だが………)


 さりげなく隣を見ると鈴音は澄まし顔で佇んでおり、この程度の粗相は問題ないと言外に語っていた。事実、長者は余裕たっぷりの態度を崩すことなく若龍の誰何に応じた。


「いかにも。わらわ百太夫ひゃくだゆう。この宿の主人であり、桃塚の民からは長者と呼ばれておる。そして、そこの鈴音の育ての親にして芸能の師でもある」


 百太夫と名乗った長者は、仮にも客人として迎え入れた若龍に対して巻頭徹尾、尊大な物言いを貫き通している。それは相手を侮っているというよりも、誰であろうとへりくだらず対等に振る舞おうという、身分に縛られない遊女の長としての気概なのだろう。


「葵から話は聞いておるよ。出瑞国から来たそうだね。小さい身の上で、遠い所からよく来たものじゃ。急な来訪ゆえ万全の用意でお迎えする事はできなかったが、それでも宿の主人として客人に不自由の無きよう、心づくしのもてなしを手配したつもりじゃ。お気に召してもらえたかな?」

「楽しかったよ。ありがとう!」

「それは良かった。お料理は口に合ったかね」

「とっても美味しかった!」

「そうかそうか。葵からも出した膳を全て平らげた健啖ぶりを聞いておるよ。食べ盛りの子供らしい旺盛な食欲よの」


 百太夫は若龍と二、三言を交わし、喜びと感謝を素直に表す幼子を微笑ましく見つめていた。だが次の一言と同時に、彼女の表情は人をからかう化け狐のような笑みへと変化した。


「ところでお前は出瑞権現いずみごんげん源主神みなもとぬしのかみの末子らしいね」

「うん、そうだよ」

「神前や仏前に供えられた食べ物を、神仏が綺麗に平らげるという話を妾は寡聞にして存じぬが、王子神殿はそれについてどうお考えかな?」


 あからさまな疑惑の目を注ぐ百太夫の問いかけに、若龍よりもその両脇にいる義郎と鈴音がぎくりとした。長者の態度の豹変のみならず、その質問は二人の虚をつくものだった。


 確かに神が物を食うのなら、毎日捧げられる供物に一切手が付けられていないのは筋が通らない話だ。それに対する明瞭な答えを、神の身にあらず宗教家でもない義郎と鈴音は持ち合わせていなかった。難解な話を振られたら若龍に代わって引き受けると請け負っていた二人は、悔しくも冒頭から答えに窮してしまう。

 しかし、若龍は二人に頼るどころか大して悩みもせずに長者の疑問に答えていた。


「うーん。母上は、まだ小さいからたくさん食べて大きくなりなさいって、僕に御山の物を色々採って食べさせてくれてたよ。でもお社の人達が気味悪がるから、お供え物には手を付けちゃ駄目って言って、母上も全然食べなかった。御山にない甘いお菓子が欲しくてこっそり食べてたから、しょっちゅうばれて叱られたけど」

「そうかい。それでは、母君はどうして信者が丹精込めて作った捧げものを召し上がらないのかな」

「それなんだけど、母上はそもそもお食事があんまり好きじゃ無いみたい」

「どういう事だね」

「『どんなに豪華で美味しそうなご馳走も、結局は生き物の亡骸なきがらなんだから、そんな不潔なものを食べて身体を汚したくない』って言ってた」

「ほぉ……死の"穢れ"をいとうて口に入れぬ、とな」

「それに母上は僕と違って、もう立派な神様だからお腹が空かないんだって。お供え物の"香り"を味わえば満足だから、時間が経って香りの無くなったお供え物は人間に返すって言ってた。だから食べ物も良いけれど、良い香りのするお花やお香をお供えしてあげるととっても喜ぶよ」

(香りを食べる……仙人は霞を食って生きるというが、神や仏も似たようなものなのか……)


 普段あまり意識した事のない献花や焼香の意味を幼い子供の口から教えられ、義郎は密かに関心した。鈴音も興味深げに耳を傾けている。


「でも、一番大好きなのはお酒じゃないかな。ご飯は身体に汚れがたまるからって滅多に食べないけど、お酒は心が和やかになるって言って、いつも飲んでたもん。お供えされたお神酒はお参りした人にあげるから香りだけで我慢してるけど、時々人間に化けさせた"しもべ"を人里へ遣って、お忍びでお酒を買いに行かせてるんだよ」

「ふぅむ……」


 お喋りに夢中になるあまり母神の、大社の主祭神として体面のよろしくなさそうな事まで赤裸々に明かす若龍。その饒舌さを目の当たりにした百太夫は、納得とも驚きともとれる感嘆を漏らした。


「実に淀みのない答えじゃな。そして神の食するのが供物そのものではなく、内に宿る霊魂の賑々しい陽気である事をきちんと理解しておる。付け焼刃の入れ知恵ではないし、物狂いの思いつきにしては出来すぎだ……」


 百太夫が思案気に口を閉ざすと、側に控えていた葵が膝を立てて声を上げる。


「長者様、物狂いなどととんでもない! それは確かに、私も最初はそのように疑っておりましたが……そちらの小君は先刻、私たちの前で庭へ降りて池の上に立ち、自由自在に水上を歩く様をご披露なさいました。とても常人の子供に為せる所業とは考えられません。まさしく徳を備えた神の御業と呼ぶに相応しい……そうだ小君、今から再びお庭に出て長者様にもお見せして――」

「お黙り葵! そのように取り乱すでない」


 身を乗り出してまくしたてる葵を、百太夫は振り向いて一喝する。


「一流の遊君ならば、何者を前にしようとも気後れせず渡り合うものじゃ。いにしえの神話の時代、まだ人であった賑姫神にぎひめのかみが源主神と正面から向かい合った如くに――それに、水神の御膝元たる出瑞山から降臨した者であれば、あめんぼの真似ごと程度は児戯に等しかろう。わざわざ見なくとも宿の者たちの証言があれば十分じゃ」

「え……降臨?」


 辛抱強く上座からの声かけを待っていた鈴音が思わず呟き返す。妙に確信ありげな百太夫の言葉に、かえって彼女の方が戸惑っていた。


「長者様は、この子が神様だとあっさりお認めになるのですか? 私たちがでっち上げた法螺話と疑う事も無く……」

「ああ、そういえば葵が使いの者に持たせて寄越した手紙には、色々とつまらん邪推が書かれておったな。山の事故で鈴音の頭が道連れの男ともどもおかしくなったとか、あるいはその男と示し合わせて足抜けの狂言を弄しているかもしれんとか」


 妹分と客人に対して抱いていた疑念を暴露され、葵は顔を俯けた。義郎と鈴音も薄々察していたとはいえ、面前ではっきり言われると彼女に気まずい視線を向けずにはいられない。しかし百太夫は構わず言葉を続ける。


「一応かまをかけてみたが、今の受け答えを見るに妾の見立て通りとみてよかろう……少なくとも、その童子が異界から人界へ降り立った人ならざる存在なのは間違いあるまい」


 一人で得心する百太夫についていけず、皆がぽかんと呆気にとられる。話題の人物である当の若龍は、大人たちの会話に入り込めず退屈そうに首元の数珠を弄んでいた。

 その時、今まで黙っていた義郎が初めて口を挟む。


「失礼ですが長者殿、見立て通りとはどういう事ですか。何故そのような確信がおありなのです」

「義郎と言ったか。どうしてお前がわざわざ問いただす?」


 男客へ振り向いた百太夫は、やはり言葉遣いを改めることなく横柄に応じる。


「妾はお前と鈴音が頭のいかれた狂人でなければ、子供をだしにする詐欺師でもないと認めたのじゃぞ。何が不満なのかね」

「こちらの童子が神の子であるという我々の主張を、戯れ言と一笑に付さず真剣に受け止めてくださる長者殿のご判断は、真にありがたく存じ上げます……しかし今宵の宴席の手配の仕方と言い、先んじて宿の人々に披露した水上歩きを、葵御前から聞いただけで肯定する飲み込みの早さといい……いくらなんでも不可解です。まるでここで初めて対面する前から、いや葵御前に我々の事を伝え聞いた時点で、この若君が只者ではないとすでに見抜いていたかのようにさえ感じられます。あなたがそのようにお考えになる根拠をお伺いしたい」

「……若造のくせに頭の固い奴じゃな。一々理屈を通さんと気が済まんらしい」


 状況の有利不利に関わらず、あくまで納得の行く道理を追求する青年の愚直な姿勢に、女長老は呆れて深々とため息を吐いた。


「だが、お前の言うとおりじゃ。というのも妾は今朝、お前達三人の来訪を知らせる葵からの遣いが到着するより前に――厳密に言えば未だ夜の明けぬ内からすでに、桃塚湖の御堂島みどうじまで尋常ならざる出来事が起こると予知していたのじゃ。その理由を知りたいというなら、望み通り教えてやろうとも」


 百太夫は三人を見つめながら、ゆっくりと話し始めた――

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