第四十四話 長者の招き
宿門に牛車が到着してから程なくして、鈴音の部屋に女中がやって来る。帰宅した長者が客人の義郎と若龍、それに彼らを迎え入れた鈴音の三人と面会を望んでおり、早速来て欲しいとの旨を伝えられた。
「奥の座敷ですね。ええ、分かりました。長者様には、私が彼らをお連れすると伝えて下さい――というわけで若さま、今から私の義母である長者様の下へ挨拶のためにご案内したいのですが、よろしいですか?」
取次の女中を立ち去らせた後、御簾越しに応対していた鈴音は後ろを振り返り、寝床に伏している若龍に呼びかけた。
「うん、僕もう平気だよ。いこっ」
幼いゆえの回復力か、若龍は薬を飲んで少し休んだだけでずいぶん元気を取り戻していた。二人の勧めで横になっていたが、そろそろ寝ている退屈さに我慢できなくなっていたらしく、勢いよく跳ね起きると鈴音の袖をぐいぐい引っ張って急かす。
「なら良かった。義郎も大丈夫よね?」
「若がその気なら俺に異論はない」
若龍の傍らに座して番をしていた義郎も、すでに刀を手に取り立ち上がっていた。
「それじゃあ私も支度するから、二人は外で少し待ってて」
頷いた鈴音は二人を部屋から追い出すと奥へ引っ込み、几帳の陰に隠れた。室内でごそごそと物音がした後、しゅるしゅると衣擦れの音が聞こえてくる。義郎はすぐそばで鈴音が着替えていると気付き内心で狼狽えた。
(若の介抱に気を取られていたが、よく考えたら俺はさっきまで女人の部屋に上がり込んでいたのか……)
動揺を面に出さずに済んだのは、日頃の平常心が肝要と説いた師父による精神修養の賜物だろう。
「お待たせ」
さほど時間をかけずに部屋から出て来た鈴音は水干から正装の袿に着替えており、両腕に包みを抱きかかえていた。
「それは一体?」
「鏡よ」
義郎が包みの中身を訊ねると、鈴音は短く答える。
「鏡?」
「ええ。私たちが出瑞山の岩屋でお神楽を舞った時のご褒美というか、お土産に持たされたあれ」
「ああ、あの時の……映真鏡とか言ったか」
「そう。一見曇りのない明鏡なのに、いくらお化粧しても分からないくらい映りの悪い妙な代物だけれど……あなたは刀、若様は数珠を贈られて持っているのだし、私も長者様にお見せした方が良いと思って」
「そうだな。長者殿の説得に役立つかも知れない」
手に提げた刀の柄を撫でながら義郎も頷く。足元に目をやると、若龍が鈴音の持つ包みをじっと見上げており、その首元では水晶の数珠が僅かな月光を浴びて煌めいていた。
義郎と鈴音は屈み込んで若龍の顔を覗き込み、言葉をかけてやる。
「若様、長者様の前ではお行儀良く座って、じっとしてて下さいね」
「うん、良い子にする!」
「何か質問されたら、正直にお答えすればよろしいでしょう。返事に困ったり難しくて答えられない時は、遠慮なく拙者たちに頼って下さい」
「うん、僕嘘つかないよ!」
義郎も鈴音も、長者に対面したら出瑞山での出来事を仔細漏らさず打ち明け、事情を説明するつもりだった。同じく当事者である若龍にも誠実な振る舞いを期待している。
元気よくこくこくと快諾する若龍に、二人は最後に力強く念押しした。
「ただし、さっきみたいに人を驚かそうとするのは……人前で大蛇になろうとするのだけは、絶対に止めて下さい。大騒ぎになって、お話どころじゃなくなってしまいますから」
「もし若がそれらしい素振りをみせたなら、拙者は武力に訴えてでもお止めする心づもりです。重々肝に銘じてください」
「う、うん……絶対にしないよ」
鈴音に固く釘を刺され、義郎に折檻も辞さないと警告され、若龍は萎縮しながら小さく頷く。
大の大人が子供一人を囲んで威圧するのは二人とも気が咎めたが、予測のつかない若龍の言動には細心の注意を払う必要があると懸念していた。
「それでは参りましょう」
準備の整った一行は、鈴音の先導で長者の待つ宿の奥へと歩き始めた。
鈴音の部屋を発ち対屋の長い回廊を進む間、御簾の降ろされた屋内から声を押し殺した小さなざわめきが絶えず漏れ聞こえる。
「見て、鈴音ちゃんがお客人たちを案内しているわ――」
「きっと長者様のお呼び出しね――」
宴席がお開きになって、宿の遊女たちも部屋に戻っているらしい。気の合う者同士で集まっていた女たちが、御簾越しに目の前を通り過ぎてゆく三人に注目して身動ぎし、ひそひそと囁いている。
「あの小君……お経の歌声も素晴らしかったけど、何よりお池でのあれは――」
「出瑞権現の落とし子だなんて、御大層な法螺話だと決めてかかってたけど、もしかしたら――」
やはり若龍に興味が集まっているようだ。遊女たちの噂しあう声には、尋常ならざる光景を目撃した興奮と、それを披露した得体の知れない童子への恐れが入り混じっている。
「あの子に付き従ってるお侍さんは一体――」
もちろん、その従者を名乗る義郎も関心を惹かないわけがない。彼は油断なく周囲に目を光らせ、若龍と鈴音を警護している。刀の柄には手をかけず、遊女たちへ要らぬ恐怖を与えないよう配慮しているが、それでも御簾越しに偶然目が合うと女たちは眼光に恐れおののいて奥に隠れてしまう。
「一体、鈴音はあの人たちとどんな縁で――」
二人の奇妙な客のみならず、彼らを招き入れた鈴音も漏れなく仲間たちの好奇の的だった。だが遊芸人として衆目を浴びる事に慣れている彼女は身内の批評など意に介さず、二人を先導してしゃなりしゃなりと進み行く。
肝心の若龍は、義郎のように周囲に気を配って身構えることなく、かといって鈴音のように見栄を張って気取った素振りもなく、宿内を散歩でもしているような軽い足取りだった。御簾の向こうに遊女見習いの童女たちの影を認めると、にこやかに手を振る気さくな仕草さえ見せている。その立居振る舞いはどこか超然としていて、いかにも神秘性を漂わせている……ように遊女たちには映るだろうが、集まる視線に込められた緊迫した雰囲気を理解していないだけだと、義郎と鈴音だけが理解していた。
三人は対屋を離れて渡り殿を越え、寝殿に辿り着く。先刻まで若龍をもてなしていた宴会場が、今はすっかり綺麗に片付けられて応接間へ様変わりしている。鈴音は座敷と廊下の境で立ち止まり、薄暗い室内に向けて呼びかけた。
「長者様、鈴音です。お客人をお連れいたしました」
鈴音が座敷の入り口で恭しく頭を垂れると、義郎も武士の作法で一礼した。大人二人に促され、若龍もぺこりとお辞儀する。
「――うむ、お入り」
やや間を置いて、室内から低い女声の返事が聞こえる。それを受けて鈴音は静々と座敷へ足を踏み入れ、義郎と若龍も彼女に倣う。三人は庇の間に用意された円座に座し、奥の一段高い母屋で待ち構えていた人物と対面する。




