第四十三話 水神さまの池遊び
「あの池、舟遊びが出来るくらいに深いはずよね……」
「ええ……でも、私の目にはあの子が、水面に立ってるように見える」
「あたしもよ。目の錯覚じゃなければ……」
先輩遊女たちは我が目を疑い、お互いの正気を確かめ合うように囁きざわめく。
「へっへー。僕、お水の上を歩けるんだよ! すごいでしょー?」
水上に立って誇らしげに自慢する若龍は、その足を無造作に振り上げ、宣言通り一歩、二歩と歩き始めた。凪いだ水面を踏むたびに、小さな波紋が広がっていく。水面下を泳いでいた鯉の群れが驚いて一斉に離れていき、彼の周囲でいくつもの飛沫があがった。
「ここ、流れが無いから歩きやすいね」
足元の具合を確かめた若龍は、池の住民たちが水底へ逃げ隠れたのを良い事に、水面を我が物顔で走り回る。童子が夜闇の中、火明かりに照らされた池の上に立って自在に足を運ぶその姿は、とてもこの世の情景とは思えない。仙郷を再現して造園された庭に、本物の天人が舞い降りたかのようだった。
眼前の光景に先輩遊女たちは言葉を失い、回廊の欄干に身を乗り出したまま呆然と眺めている。一方その足元で、小さな見習い遊女たちは欄干の隙間から顔を覗かせ、黄色い声を上げて拍手喝采していた。
「すごい、主様!」
「お水の上を歩いてる!」
「神様みたーい」
まだ幼く、常識や知識の枠組みに囚われていない童女たちは、目の前の現実をありのままに受け入れた。水上歩行を披露してみせた若龍の姿に素直に興奮し、声明を聴いた時よりもはるかに感激している。
「まさか、本当に水神さまなの……?」
狐につままれたように呟く葵を横目に、鈴音は若龍への驚嘆の眼差しを我が事のように思いながらほくそ笑んでいた。
(よしよし、皆驚いてる。これで若様も一目置かれるでしょう!)
◆
「よし、皆驚いてるな……よくやったぞ鈴音。これで宿の人々も、若が常人じゃないと理解するだろう」
その頃、義郎もまた満足げに頷いていた。彼は鈴音と別れた後離れ屋から庭へ降りて、桃園の陰から一部始終を見守っていた。
「出瑞山で初めて会った時、俺から逃げようとして川の激流の上を走ったのには度胆を抜かれたが……あの経験が生きるとはな」
ほんの短時間だが確かに目撃した若龍の水上歩行を、宿の庭池で披露させようと発案し、鈴音に若龍を唆すよう言い含めたのは、他ならぬ義郎であった。離れ屋にまで響く遊女たちの驚嘆とざわめきを聞いた彼は、期待通りの反応に我が策成れりと若干誇らしげであった。
「これでもう、若を物狂いの捨て子みたいな眼差しで見たりしないはずだ……ついでに、当人も楽しそうだしな」
苦笑する義郎の眼差しの先には、水上で縦横無尽に動き回り続ける幼い主君の姿がある。
若龍は速度をつけて池をぐるぐる走り回り、小さな飛沫を立てながら飛んだり跳ねたり、果ては宙返りして見事に着水までしてみせる。彼の一挙一動が遊女たちの注目を集め、感嘆と歓喜を呼び起こす。出瑞山の奥深くに隠れ潜んでいたら決して味わえなかっただろう喝采を一身に浴びて、狂喜乱舞しているのが見て取れた。
しばらくそうしていた若龍だが、突然何か思いついたようにぴたりと立ち止まる。そして鈴音たちのいる方へ向き直ると、興奮で声を上ずらせながら叫んだ。
「……よーし! それじゃあ、もっと驚かせてあげる!」
声高に宣言した若龍は、その場で屈み込んで、「んんー……」と唸りながら小さな身体を力ませた。そして両手を広げて「えーい!」と叫びながら勢いよく立ち上がり――その瞬間、姿勢を崩しながらちゃぷん、と真下の池水へ沈んだ。
「む……?」
若龍が思わせぶりな仕草の直後に水中へ没したのを見て、義郎は何事かと注視する。奥座敷から眺めている鈴音たちも、今度は何をするのかと静まり返った。その場にいる皆が一様に沈黙し、若龍の次の動きを見守る。しばし待った末に……何も起こらなかった。
若龍は、沈んだまま浮き上がって来ない。
「――若さまっ!?」
鈴音の甲高い悲鳴とどちらが早かったろうか、若龍の異常に気付いた義郎は反射的に桃園の陰から飛び出していた。庭園を早馬のように駆け抜けた彼は、池のほとりに着くなり刀を鞘ごと帯から引き抜いて玉砂利の上に置き捨て、ためらいなく池に飛び込む。そして水に浸かった足にかかる抵抗を押しのけて、牛の如く突き進んだ。
急いで若龍の消えた池の中央部に辿り着くと、そこはもう胸の下まで沈む深さだった。
「若! ……くそ、どこにいる?」
呼びかけてみるも、水中から返事が聞こえるはずもない。義郎は若龍の陰を探して忙しく周囲を見渡した。
雲に遮られた月光と池を囲む篝火の、仄かな明かりしか頼れない宵闇の中では、暗い水底を見通す事は難しい。わずかな光を反射して輝く美しい水面が、今はむしろ視界を邪魔して憎らしかった。
焦る心を抑えて一旦身動きを止め、視線をさまよわせる。すると、こぽこぽと激しく水泡が沸き立つ箇所を発見した。水面下で必死に空気を求めているものがいる。
「……そこか!」
見当をつけて水底をまさぐると、指先が柔らかな物体に触れる。すかさず両手で掴んで力強く水上へ引き上げてみれば、はたしてそれは溺れかけた若龍であった。
義郎は若龍を抱き上げ、小さな身体を揺さぶりながら呼びかける。
「若、御無事ですか!? 若!」
「けほ、けほ……」
濡れ鼠となった若龍はかたかたと震え、義郎の腕の中でぐったりと手足を投げ出している。だが自力で水を吐き出してか細くも呼吸しており、辛うじて意識を保っていた。ひとまず安堵しつつ、義郎は急いで陸へ引き返す。
「義郎、こっちの方が浅いわ! 来て!」
鈴音が甲高い声で義郎に呼びかける。
彼女も庭におりて池のほとりに駆けつけていた。義郎の刀を回収して胸に抱き、池に落ちるぎりぎりまで縁石に寄ってはらはらと見守っている。
「助かる!」
義郎が鈴音のいる方へ向かっていくと、助言通り徐々に水深が浅くなり、池縁に着いた時には足首が浸かる程度だった。陸に上がると鈴音がすぐさま若龍の顔を覗き込み、義郎に安否を尋ねる。
「義郎! 若様、大丈夫なの!? いきなり池に落ちちゃったけど……!」
「命の心配はないが、身体を冷やしてる。すぐに着替えさせて、床に寝かせてやってくれ。それに身体を温める物も」
「と、とりあえず私の部屋に! ついてきて!」
短いやり取りの後、鈴音が刀を両手に握ったまま走り出し、義郎も若龍を抱えてその背中を追う。
後に残された遊女たちは状況の理解が追い付かず、一連の出来事を回廊から傍観していた。だが遅まきながら若龍が溺れた現実に気付き、突然の事態に俄かに狼狽えだして右往左往する。
「ええと……急いで女中さんに、鈴音の部屋へお着替えとお薬湯を持っていくようお伝えして! 着替えは小君と深山殿の二人分! 幼い子は女中さんたちとお座敷の片づけ! 後の方々は、道具をしまって部屋へお戻りなさい!」
年長の遊女が叫ぶように指示を飛ばすと一同は我に返り、統率を取り戻しててきぱきと動き出した。
自然とお開きになってしまった宴席の後始末の中、鼓を抱えて退出した葵は回廊でふと立ち止まり、今一度庭池を眺めて独り呟いた。
「何故いきなり溺れたのか分からないけれど……さっきのあれは、見間違いじゃないわよね。長者様がお戻りしたら、是が非でもお伝えしなくては――」
◆
宿の内装が貴族の邸宅を模していれば、そこに住み働く鈴音の部屋もまた女房風だった。南北に伸びた対屋の廂の間を几帳や襖で仕切った一画が、彼女の起居する私的な空間だった。
義郎は鈴音が慌てて敷いた寝床に若龍を横たえさせると、後から着物と薬湯を持ってきた女中に介抱を委ねる。鈴音と女中が若龍の身体を拭いて着替えさせる間に、彼も池で濡らした着衣を別室で着替えた。再び入室するとちょうど女中が退出する所で、頭を下げて礼を述べる鈴音の傍らで若龍が身を起こしている。
「うへぇ、お薬苦い……」
薬湯を嫌々すすって顔をしかめる若流の回復ぶりを見て、義郎と鈴音は胸をなで下ろす。落ち着いた頃合いを見計らって声をかけた。
「御無事ですか、若」
「若様、お身体の具合はどうですか? どこか痛い所は……」
「うん、平気。まだちょっと寒いけど、大丈夫」
左右に膝を着いて顔を覗き込んでくる従者二人に、若龍は穏やかに頷き返す。
「ごめんなさい、皆に水の上を歩く姿を見せて下さいって私が唆さなければ、こんな事には……」
「いや、そもそも提案したのは拙者です。すみません若、このような危険に御身を晒す事になるとは思いもよらず……」
「ううん、二人は悪くないよ」
安堵と同時に頭を下げて詫びる二人に、若龍は恨み言の一つも吐かず面を上げるよう促す。
「途中までは皆驚いて喜んでくれてたし……それでもっと驚かせようと僕が自分で思いついた事をやろうとしたら、急にお池に落ちちゃったの」
「たしかに沈む直前、意味ありげな素振りを見せてましたが……一体何をなさろうと?」
義郎が不審げに訊ねると、若龍は決まりが悪そうに顔を目線を逸らす。いたずらを正直に告白するように、ためらいがちに呟いた。
「うーんとね……皮を脱いで、本当の姿を見せようかなー、って……」
「皮を……ちょっと待って、まさか皆の前で大蛇になろうとしたんですか!?」
信じられないと言った表情で鈴音が絶句する。若龍は「うん……」と叱責に怯えながら小さく首肯した。
「……なんと軽率な」
義郎も呆れ果て、渋面を作ってため息を吐く。
忘れられるはずもない、人ならざる蛇神である若龍王子の本当の姿――俵ほどの太い胴を持つ、白鱗赤眼の大蝮。閉じる事のない瞳を爛々と輝かせ、刀の如き長く鋭い毒牙を剥き出して、白い蛇体に鮮血色の銭模様を浮かび上がらせた、異形の風体!
それまで無邪気に遊んでいた幼気な童子が、いきなり恐ろしげな大蛇に変じたならば人々はどう思うか……想像するだけで胃が重くなる。
「そんな事したら、皆喜ぶどころか悲鳴を上げて逃げ出しますよ! むしろ、化け物扱いで退治されます! すぐに桃塚中の用心棒が集まって……都からは法師や陰陽師が調伏しに来るだろうし、最悪武士団が押し寄せて桃塚の街もろとも焼き討ちなんて事も……ああ、恐ろしい!」
「ごめんなさい……正体がばれたら苛められるって分かってたのに、皆が僕を見て驚く様子が楽しくて、浮かれてつい……」
「そんな酔っ払いが裸になるような勢いでやろうとしないでください!」
「ごめん……」
鈴音に金切り声で叱られて、若竜はしゅんと項垂れる。
ここで自分まで非を責め立てて、追い詰めるのは大人げないだろう――義郎はあくまで平静を堅持して、引き続き幼い主君に事の次第を伺った。
「……実行する直前に事故が起こって、結果的にはむしろ幸いだったわけですね。でも、どうしていきなり溺れるはめに? ご自分の意思ではなかったんでしょう」
「いざ皮を脱ぐぞって身体を伸ばした時に、首の辺りがなんだかきゅって締め付けられて……そのまま金縛りみたいに身体が動かなくなって、何もできずに沈んじゃったの。どうしてなのか、僕も分かんない」
「首が締まる……?」
義郎は若龍の首元をまじまじと見つめる。そこには、源主が餞別に与えた水晶の数珠が首にかけられ、燭台の火明かりできらきらと妖しく照り輝いていた。
「数珠と、金縛り……ね」
気付けば鈴音も怒りを鎮め、神妙な面持ちで数珠を見つめている。細い顎に白い手を添えて思案するが、まもなく首を振って諦めたように呟いた。
「できればもう少し休ませて差し上げてから、詳しくお聞かせ頂きたい所だけど……残念ながら時間切れみたい。長者様のご帰宅よ」
宵の静寂の中、門の方角から牛のいななきと牛車を曵く音が彼らの耳に届いた。




