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第四十二話 若君さまのお歌声

「話し込みすぎたわね……早く戻らなきゃ」


 義郎よしろうから秘策を授かった鈴音すずねは早速実行するべく、四方四季の間へ引き返していた。足早に回廊を行く彼女はその途中で、目指す奥座敷から耳に心地良い歌声が漏れ聞こえるのに気づく。

 音曲に囲まれて育ったおかげで耳の肥えている鈴音は、その歌声が強弱を豊かに使い分ける成熟した大人の女の声質ではなく、しかし幼く優しさの籠った少女の声色とも異なると知る。思い切り良く突き抜けて澄み渡るその響きは、変声前の男児特有のものだった。


「……若様の歌声?」


 足音を立てず滑るようにして廊下を進み、開け放たれた座敷の出入り口からそっと内を覗き見る。すると室内には、鈴音が中座した時よりもずっと大勢の遊女が伺候していた。


(まぁ、姉様達がこんなに集まって。これは一体……)


 推参している遊女は十数人、この宿に起居する中で今宵手空きの女たちがそろい踏みと見える。幼い頃からこの宿で過ごしてきた鈴音だが、一つの座敷にこれほどの遊女が伺候する光景は初めてだった。

 遊女らが所狭しとひしめく輪の中心には、宴席から立ち上がり軽やかに歌唱する若龍にゃくりゅうの姿がある。


「――、――」

(短歌、催馬楽、異国詩、今様、どれとも違う……)


 その歌はとても長大で、数多の歌謡を諳んじる遊里の女ですら聞き慣れない、独特の節回しを持っていた。歌詞は世俗離れした荘厳な雰囲気を湛えており、若龍の美声も相まって聴く者の心を震わせる響きがあった。

 鈴音も思わず聞き惚れて、今から割り込んで場を乱すのは憚られ、つい物陰から立ち聞きしてしまう。途中からながらも耳を澄ませて拝聴していると、いくつかの詞章が彼女の胸を打ち強く印象に残った。


――童子の戯れに 砂を集めて仏塔を作れる かくの如き諸々もろもろの人らは 皆すでに仏道を成じたり

(子供が砂遊びで仏塔を作る時、その心にはすでに悟りの種が芽吹いている)

――童子の戯れに もしくは草木及び筆 あるいは指の爪甲そうこうをもって いて仏像を作る かくの如き諸々の人らは 皆すでに仏道を成ぜり

(子供が筆や爪で仏像を落書きする時、その心はすでに悟りの種が芽吹いている)

――あるいは歓喜かんぎの心をもって 歌唄かばいして仏の徳をじゅし 一の小音しょうおんをもってせしも 皆すでに仏道を成じたり

(仏の供養のために喜び歌い、たった一つでも楽器を奏でる時、その心はすでに悟りの種が芽吹いている)

――諸々の過去の仏 現在あるいは滅後において もしこののりを聞くことありしならば 皆すでに仏道を成じたり

(過去の仏であれ、あるいは今この世にいる仏であれ、彼らから教えの一部でも聴いた時、その心にはすでに悟りの種が芽吹いている)


(これはお経――声明しょうみょうだわ)


 声明とは、経文に節を付けて歌う宗教賛歌。本来は寺院で修行する僧侶の中で喉の優れた者が専門家として選ばれ、口伝で伝授される。所詮俗世の遊女に過ぎない鈴音には、到底身に付ける事の叶わない高尚声楽であった。

 遊里の華やかな雰囲気にはいささかそぐわない、しかし清く尊い歌声が高らかに響き渡っている。


――まさに諸仏の法はかくのごとく 万億の方便ほうべんをもって よろしきに従って法を説きたもうと知るべし その習学せざる者は これを暁了ぎょうりょうすることあたわざるも 汝らはすでに 諸々の仏・世の師のよろしきに従う方便の事を知り また諸々の疑念無く心に大歓喜だいかんぎを生ぜよ 自ら当に仏と成るべしと知れ

(仏たちが体得した悟りはこのように、人々の資質や環境に合わせ、それぞれに相応しい方法で説かれてきた。いかに高度で専門的な言葉で多弁を弄しても、学ぶ事のできない者に真理を理解させるのは難しい。けれどもあなた方はすでに、良き教師である仏たちが一人一人に相応しい方法で悟りを説いた事を知っている。もう疑念に惑わされる必要はなく、大いなる喜びの内に自らが如来となりなさい)


「……おしまい!」


 最後の章句を歌いきって、若龍は満足げに胸を張った。それをきっかけに、しんと静まって聴き入っていた遊女たちが我に返って一斉に拍手を送り、ざわめき始める。


「主さま、お上手!」

「綺麗な歌声!」

「意味はよく分からないけど、良いお歌だと思う!」


 見習いの童女たちは素直に感動を露わにし、若龍を囲んで無邪気にほめそやす。

 一方、葵たち先輩遊女は遠巻きに童子を見つめ、拍手もそこそこに打ちひしがれるように伏して顔を袖で覆い、ぐっと涙を堪えていた。


「声明を諳んじるなんて、なんと立派な小君こぎみなのでしょう……」

「それに引き換え私たちは、写経の一つもせず男たちに愛想を振りまいてばかりで……」

「これほど道心の深い男の子を、お寺へ預けず川へ流してしまう母親がいるなんて、信じられないわ……!」


 妹分と姉分たちの正反対の感想を交互に見ながら、鈴音自身も若龍の思わぬ特技に舌を巻いていた。座敷の入り口で呆然と立ち尽くしていると、若龍が戻って来た鈴音に気付いて、回廊へ飛び出し駆け寄って来る。


「あ、鈴音おかえり! 義郎、元気にしてた?」

「ええ、はい。彼なりに楽しんでおりました。それよりも若様、今のは……」

「皆にお遊戯いっぱい見せて貰ったから、お返しに僕が知ってるお歌を歌ったんだよ!」

「それはありがたい事です。でも、声明なんて難しいものをよくご存じでしたね。桃塚の女の持ち芸の豊富さは煩悩の数に勝ると自負しておりますけど、流石にあれほど有り難いものを口ずさめる者はいませんよ」

「しょうみょう? 今のお歌の事?」


 若龍は聞き慣れないと言った風に首を傾げたが、歌の事だと気付くとぽんと手を叩いた。

「母上が歌ってるのを聴いて覚えたんだよ。お歌の意味はわからないけど、母上がよく御山の皆を集めて聴かせてたんだ」


 母から教わったと聞いて、先輩遊女たちの啜り泣きが一層哀れみを深める。特にあおいは額を抑えて「お経を歌う母親……つい最近どこかで見たような……」とぶつぶつ呻いていた。


「お母君が出瑞いずみ山の人達に……?」


 鈴音もまた、若龍の母神たる源主みなもとぬしが声明を諳んじていると聞いて目を見開く。それと同時に、別の疑問を抱いた。


「失礼ですが、お母君は出瑞大社の社僧や巫女たちの前に、自ら進んでお姿を現すようなお方には見えませんでしたけれど……」


 源主が声明を歌えるのは納得できる。自ら龍女菩薩りゅうにょぼさつの化身を名乗っているし、大社の社僧が境内の仏堂で毎日誦経しているだろう。祀られている当の女神が仏典に精通し、節回しを付けて暗唱できるのは不思議ではない。

 だが息子が人間の空間へ近寄るのを快く思わず、自身も人界から隔絶した暗い岩窟の奥深くに籠っていた、人間嫌いの女神が一体誰に説法しているのだろう。


「御社の人じゃないよ。御山に住んでる、他の皆」

「大社の人間以外の"皆"……?」

「そう。母上、僕が岩屋御所おみやの外へ出かけて遊ぶと怒るのに、自分はしょっちゅう滝の前に皆を集めてお話したり、歌って踊って騒いでるんだよ。ずるいよね」

「はぁ……そうですね」


 頬を膨らませて同意を求める若龍に対し、鈴音はいまいち要領を得ない答えに困惑したまま曖昧に頷く。

 だが鈴音はふと我に返って、深く追求するのを止める。今の彼女には座興で聴いた歌の出所を確かめるよりも、ずっと大事な用事があった。


「まぁ、それはひとまず置いて……若様、お歌もとてもお上手で素晴らしいですけれども、どうせならばもっとすごいものを、我が宿の皆にご披露していただけませんか?」

「もっとすごいの? でも僕、鈴音みたいにたくさんお遊戯知ってるわけじゃないよ……ずっと一人で遊んでたから」

「いいえ、そうではなくて」


 満面の笑顔に一抹の陰が差しかけた若龍を、鈴音は慌ててなだめすかす。


「若さまには出来て、私たちには出来ない事をお見せして欲しいんです」

「僕にしかできない事って?」

「ほら、出瑞山で初めてお会いした時、私と義郎の目の前で――」


 鈴音が身をかがめて若龍に耳打ちする。


「……そんなのでいいの? うん、いいよ! 皆に見せてあげる!」


 若龍はこっくり頷くと、回廊に設けられた庭へ降りるきざはしを駆け降り、裸足のまま勢いよく庭園へ飛び出した。


「あ、小君! こんな暗い中お庭へ出ては――」

「大丈夫よ姉さま。若様のお邪魔をなさらないで」


 葵が慌てて連れ戻そうと駆け寄るが、鈴音が袖を引いてそれを制止する。その間に若龍は玉砂利の上を音も無く駆けて建物から離れていく。


「鈴ちゃん! あの子に何を吹き込んだの? もう日が暮れてるのに、子供を勝手に庭で遊ばせたら危ないでしょう!?」

「まぁまぁ、皆ももっと欄干に寄って、若様の御業みわざをご覧くださいな」


 叱責する葵に対して鈴音はあくびれる事なく、むしろ不敵な態度で仲間の遊女たちを欄干に呼び集め、庭園の夜景とそこへ飛び出した若龍に注目させた。

 今夜の月はあいにく雲に隠れがちだが、月明かりに頼らずとも庭園のあちこちで篝火が焚かれ、明滅する炎のゆらめきが夜景を幻想的に映し出している。

 特に庭内の中央に設けられた池は、揺れる水面が灯りを千々(ちぢ)に反射して、地上に満月が降りたかのごとく照り輝いて見えた。

 若龍は、その庭池を目がけてまっすぐ突っ込んでいく。


「危ない、止まって! 池に落ちてしまいますよ!」


 葵の注意など耳にも入れず、若龍は放たれた矢の如く池へと迫り、その勢いのまま淵に達すると「えーい!」と一際高く跳躍して水面へ身を投じた。


「きゃあっ!」


 遊女たちが思わず悲鳴を上げる。童子が大きな水音と水柱を立てて水中に沈む、当然の未来が容易に脳裏で描かれたからだ。


「…………え?」


 しかし、彼女らの予想は裏切られた。大きな水音も、水柱も生じない。不自然な静寂。当然だった。何故ならば――


「水の上に浮かんで、いえ、立ってる――!?」


 若龍は池に沈む事なく、水面の上を、二本の足で大地を踏むように直立していたからだ。

 声明の歌詞は法華経・方便品より引用。

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