第四十一話 憂う大人
"四方四季の間"の賑わいから離れた鈴音は、中庭を横目に見ながら静々と回廊を行く。向かう先は、宿内で最も端近の離れ家である。
築地塀と桃の木々に挟まれて庭の眺めは良くない反面、寝殿からの視界に入らず、酔客が騒いでも奥座敷まで響きにくい、上客に配慮した間取り。門からそれほど離れておらず、来客の牛車や牛馬を留め置く厩にも近い、宿の出入りに便利な立地。
貴人の客が奥で戯れ遊ぶ間、主人を待つ舎人や牛飼童に酒食を振る舞うために設えられた、家来用の大広間に鈴音はやってきた。
「義郎、私よ。入っていいかしら」
「うん? 鈴音か。構わないぞ」
仕切りの屏風越しに許可を得た鈴音は、屏風の間をすり抜けて入室する。普段は十数人の男が車座になって飲み食いし、時々乱痴気騒ぎを起こす猥雑だが活気に満ちた大宴会場。だが今夜は、そんな酔漢たちの人影は無い。
暗く広々とした空間の中央に一基の燭台が立てられており、その薄明りの下で青年がたった一人――義郎が円座に腰を下ろし、庭を正面に見据えながら黙々と膳に箸をつけていた。
義郎は鈴音が近づいてくると、箸を置いて彼女に向かい合う。
「よう。どうしてこっちに? 若の所に侍ってるんじゃなかったのか」
「あなた、こういう場に慣れてなさそうだから、中座して様子を見に来たの。でも見た感じ、お料理は気に入ってもらえたみたいね」
「ああ、寺社参りの精進明けに生鯉が食えるとは思わなかった。米も五分つきの粥じゃなくて、箸が突き立つ山盛りの白飯とはな。少し味付けは薄いが、こんな御馳走は生まれて初めてだ」
義郎に供された食膳は若龍よりも格が低く品数も減っているが、それでも庶民の目には大盤振る舞いである。鈴音が覗き込んでみたところ、ずいぶん箸が進んでいたようで、ほとんど器が空いていた。
刀は手の届く範囲に置いて最低限の備えを残しているものの、ぴりぴりと警戒して殺気立った様子はない。若龍ほど能天気で無防備ではないにしろ、肩の力を抜いて十分寛いでいるようだった。
「あら……お酒は全然進んでないみたいね。都のは口に合わなかった?」
多くの皿が空いている中で、鈴音は酒器を見咎める。舶来品の透き通った玻璃瓶の内は酒をなみなみと湛えたままで、ほとんど減っていない。杯に一杯注いだきり、ちびちびと舐めていたようだ。
指摘されると義郎はどうしたわけか、平素の堂々とした態度を崩して口ごもった。
「いや、旨いんだが……酒を口にしたら、どうもあの時の事を思い出してしまってな……」
「あの時?」
鈴音が首を傾げていると、義郎は直視を避けながらためらいがちに呟く。
「……岩屋御所で、お前に酒を……」
「……あっ」
鈴音は小声を上げるとさっと顔を背け、扇で覆い隠した。岩屋御所での最後の光景が脳裏に去来する。
源主の毒に侵されて悶絶した鈴音は、義郎から差し出された毒消しの神酒を自力で飲み干せず、彼のとっさの判断で口移しで強引に飲まされたのだった。
意識が朦朧としていた最中でもおぼろげに覚えている、情景と感触。紅を差した唇をつつ、と指でなぞってみると、白粉で染めた顔が桃色に染め変わるのを肌で感じた。
「あの時は一刻を争う状況で、ああするしか思いつかなかったんだが……それでも、すまなかった。好いてもいない男と無理やりに……」
「別に、気にしてないわ」
謝罪しようとする義郎を遮って、鈴音がきっぱりと言い放つ。振り向いた彼女は、内に秘めた感情をつゆほども表に出さず、むしろ尊大な態度で義郎を睥睨した。
「たった一度唇を奪った程度で、遊君をものにできたと思って? 田舎娘じゃあるまいし、あんなの犬に咬まれたようなものよ。そんなつまらない事で私を煩わせないで頂戴」
「あ……ああ。分かった」
面と向かって忘れろと言われては、義郎も二の句を継ぎようが無く、黙って引き下がるしかない。
「それよりも、あなた一人きり? お座興の姉さまたちは来てないの?」
ふんすと居直る鈴音は、両者の間にわだかまる気まずい雰囲気を払拭すべく強引に話題を切り変えた。
普段ならこの場所には、羽目を外した酔漢のあしらいに慣れた年上の遊女たちが伺候し、座興を務めているはずだった。しかし広間を見渡しても、自分と義郎以外の人影は見えない。
露骨な話題転換に義郎は一瞬逡巡したが、直前の話を女々しく引きずる愚行は犯さず、新たな問いかけ に率直に答える。
「風呂を上がってここへ通されてから、すぐに年上の遊女が二、三人来たな。お酌を受けて少し喋ったが、料理が来た後は退がって貰った。あんなけばけばしい女人が何人も傍にいたら、落ち着いて飯が食えない」
「お座興の前に帰しちゃったの?」
花より団子といわんばかりの物言いに、鈴音は呆れ驚く。
「……不味かったか?」
「いえ、遊君は押して参るものだから、気に入らない推参を拒むのは自由よ。でも、成金がいくら大金を積んだってお目通り叶わない、桃塚指折りの天女たちをけばけばしいだなんて言って袖に振るなんて……いい度胸してるわねぇ」
鈴音はわざとらしくため息を吐き、肩をすくめてみせた。
「ああ、芸も見せない内に追い出された姉さまたちがお気の毒でならないわ。『鈴音のせいで無粋な田舎者に恥をかかされた』って、後でお叱りを受けたらどうしましょう。不安で不安で、今にも胸が張り裂けてしまいそう」
鈴音は先ほどのつんけんした態度など忘れたかのように、今度は芝居がかった調子でよよよと泣き崩れて義郎をなじる。
だが内心では彼の頑固なまでの堅物ぶりに可笑しみを覚え、忍び笑いを押し殺すのに必死だった。もしここに先輩遊女が同席していれば、他の女に現を抜かさなかった事に内心喜んでいるのを見て取っただろう。
義郎はそのような心の機微に気づくはずもなく、それよりも慣れない遊興の席での不調法をからかわれる罰の悪さから、必死に弁明を行った。
「悪かったな。でも苦手なんだよ、ああいう思わせぶりな物腰で手玉に取ろうとして来る女人は。月やら花を指差して『いかが見ますか』とか訊ねられても、即興で歌を詠むなんて気障ったらしい真似できないし、かといって女人を相手に兵法談義ってわけにも……」
「はいはい」
傍らに腰を降ろした鈴音は珍しく聞き手に回り、相槌を打ちながら言い訳に付き合う。
「……でも、結果的には良かっただろ。こうして宿の人たちの耳目を気にせず、俺とお前の二人きりで話せる」
「えっ……」
思いがけない一言に鈴音は一瞬硬直し、ぱさりと扇を取り落しそうになった。我が耳を疑い、言葉を失う。悪戯好きな猫のような態度はたちまち霧散し、目を白黒させて戸惑いの表情を浮かべた。
「それは、その、えっと……ど、どういう意味?」
扇で顔を覆った鈴音は、上目づかいで義郎を見上げて真意を伺う。その瞳は、期待とも不安とも断定しがたい、複雑な感情に揺れていた。いや、そんなまさか。さっきあれほどそっけなくあしらったばかりなのに、向うから――
「じきに桃塚の長者殿が戻って来るんだろう。対面する前に、どう振る舞うべきか話し合っておきたい」
鈴音はきょとんとした表情で、しばし目を瞬かせる。そして勘違いに気付くと我に返ったようにぱちんと扇を閉じて、何事も無かった様にひらひらと扇ぎながら頷いた。
「……あ、そうね。たしかに大事だわ……」
どことなく気落ちした調子に義郎は不審がるも、特に気にせず話を続ける。
「まず、俺は長者殿のことをよく知らない。どういった人物なのか、詳しく教えてくれないか」
「ええ、もちろんよ」
鈴音は一つ咳払いすると、桃塚の長者について知っている限りの事を余すこと無く話した。
「長者様は文字通り、桃塚で遊君として働く女たちを束ねている、遊君の最長老さまよ。でもその役目は、商人の座頭とは少し違うわね。遊君は借款のあるなしに関わらず、稼ぎの半分を長者様にお納めして、集めた財を皆で平等に分かち合っているの。才覚と時運頼みのお勤めだから、そうすることで仲間の格差を埋めて、互いの嫉み嫉みを和らげるのよ。幼い妹たちを育てて、客の取れなくなった姉さまたちを養うためにもね」
「ほう」
遊女の稼ぎが全員に分配されると聞き、義郎は意外に思った。役人が農民から年貢を搾り取るように、さぞ元締めから一方的に収奪されているのだろうと勝手に想像していたのだが。耕作人と違って安定した収入を確保できない彼女たちは、互いに支え合って生きているらしい。
「遊女全員に飯を食わせて、幼子の教育と年寄りの世話もして……商売の元締めというよりは、大家族の女家長だな」
「そうかもね」
義郎の漏らした例えを、鈴音は微笑を浮かべて肯定する。
「事実、私にとっては産みの親以上のお方だから。身売りに出されていた幼い私を買い取り育ててくださった御恩のある義母であり、遊君として生きていくための技芸を余すことなく伝授して下さったお師匠さまですもの」
我が身を包む水干袴の舞装束を見下ろしながらしみじみ語る鈴音の姿に、義郎は密かに共感を覚えた。武術と芸能の違いはあれど、幼くして捨てられた身を拾われ、育ての親から我が身を頼りに生きる術を教え込まれたという点で、二人の境遇は似通っていた。
「長者様ご自身も、お若い時分に白拍子舞を始めて舞って当たり芸とした、ひとかどの芸達者よ。たびたび朝廷へ参内なさって、儀式の舞姫を務めたと聞いてるわ。その縁で、朝廷の重鎮の方々ともとても顔が広いの。とりわけ、今上の大国主尊さまとは太子時代に見初められて以来の御仲で、特別深い御寵愛を賜っていらっしゃるわ。現役を退いた今も歌舞音曲の師弟の契りを結んで、折に触れて召し寄せられる程に。容色が衰えても色褪せず、なお人々を惹きつける本物の技芸を備えたお方よ」
「ちょっと待った」義郎が思わず口を挟む。
「お前の養い親が政治家と知古の縁というにも驚いたが、それより主尊が……豊瑞穂の頂点に立つ帝王が、太子時代から今日まで遊女を側に侍らせて、あまつさえ師匠と仰いでいるのか? 貴族の常識は俺には分からないが、流石に外聞が悪いんじゃないのか」
義郎は眉をひそめ、歯に物が挟まったような物言いをした。いかに無礼講の酒席で鈴音以外に聞く者などいないとはいえ、我が国の君主の素行に暗愚を疑うのは気がとがめられた。そんな遠慮を察して、鈴音も苦笑する。
「今上の主尊が筋金入りの遊興狂いで、色々と型破りな事は先代の御代から評判だったそうだから……それでもきちんとした御后さまとの間にお世継ぎがいらっしゃるし、御統治も長く安定しているから、表だって非難する人はいないわね。たしかに古風を重んじる方々は渋い顔をしているけど、世間の大半はお上に迎合するのが世の常だし」
「……まぁ、肝心の国を傾けたりしなければ、やんごとなき方々が遊女と戯れた所でご自由にどうぞ、ではあるんだが」
「おかげで私たち桃塚遊君も貴族の屋敷にお招き預かり、ずいぶん稼がせてもらっているしね――そういうわけで、長者様はいわば天下のお許しを得た芸道の第一人者であり、政治の世界に力強い伝手をお持ちの方よ。もしご勘気を被れば、身の安全は保障できないから気を付けて」
「なるほど……長者殿が想像以上の大物なのはよくわかった」
長者の人物像を一通り聞いた義郎は、うむうむと腕を組んでひとしきり頷くと、おもむろに口を開いた。
「……それで、そんな大物に借金抱えてる若い遊女が、山で行きずりの男と一緒に行方をくらまして、一月後にひょっこり姿を現した挙句、『山の龍神さまに息子の旅のお供を命じられたのでお暇を下さい』と申し上げたとして――お許しが下ると思うか?」
「……出瑞詣でに行く前の私だったら、頭がおかしくなったか、足抜けを企む狂言としか思わないわね。さしづめ若様は、どこかで拾ってきた自分を神様と思ってる物狂いでしょう。実際、姉さまたちはそういう目でみてるし」
「俺もそう疑われるだろうと思っていたんだが……今の待遇をみるに、長者殿には違う考えがありそうだな」
頭を抱える鈴音の見解に義郎は同意を示しつつ、しかし実際の状況を踏まえて異論を唱えた。
「なぜ長者殿は、紹介も無く勝手に上がり込んだ俺と若を、こんなに手厚くもてなしているんだ? しかも若は貴人待遇で俺は従者扱いと、まるでこっちの言い分を全面的に肯定している手配じゃないか。神託を受けたなんて荒唐無稽な話を、使者からの伝聞だけで鵜呑みにするような人物なのか?」
「いいえ。そんなおめでたい性格では、嘘偽りの絶えない遊里を取り仕切ることなんてとても無理だわ」
「なら、適当に話を合わせているだけなのか? 自分の養い子が神様を連れて戻って来たとなれば、宿や遊里の名を高めるには打ってつけだろう」
「それも考えにくいと思う……都の有力者とのお付き合いが長いだけあって、身の振り方も慎重で強かよ。降ってわいた与太話に便乗すれば世間を興ざめさせるばかりか、ご自身の立場も危うくなるとご承知のはず。地位のある人物と示し合わせるなら、別だろうけど……」
「それじゃあ一体、長者殿は俺達をどう思っているんだ」
考えに行き詰った義郎は頭をかきむしりながら呻く。鈴音もまた当惑した表情を浮かべていた。
「私も宿の皆も、長者様の意図を測りかねて困っているのよ……命の恩人と紹介したあなたを差し置いて、どこの家の子とも知れない若さまをなぜこれほど贔屓しているのかって。若様が本物の神様だと信じてもらえれば、こんなにぎくしゃくしないで済むのだけれど」
鈴音がため息を吐く横で、義郎は再び腕を組んで思案する。
「どうにかして、宿の人達を納得させられないもんか。長者殿の思惑が掴めない以上、せめてお前の姉さんたちを味方に付けて、口添えを頼みたい所だが。ううむ……」
そしてしばらく黙考した後、突然「そうだ」と思い出したように手を打った。
「神様とまではいかなくとも、常人じゃないことを一目で明らかにする方法があるぞ」
「本当に?」
「いいか、よく聞いてくれ――」
藁にもすがりつきたいという面持ちで見つめてくる鈴音に、義郎は秘策をささやいた。




