第四十話 浮かれる童子
桃塚の長者の宿は貴族の邸宅を模した造りとなっており、最奥の寝殿の南面には"四方四季"という額の掲げられた広間があった。宿自慢の桃園と庭池をまとめて眺望できる、最上格の客間である。
この"四方四季の間"の見所は、南面に広がる季節の景観だけではない。残る三面には屏風が立てられ、それぞれ異なる季節の屏風絵が描かれていた。桃花の咲き誇る春、瑞々しい桃の実が色づく秋、桃の枯れ枝に雪が降り積もる冬――夏が終わり秋を迎えれば、秋の屏風は青々とした桃園を描いた夏の屏風に差し替わる。
巡り行く四季を一度に鑑賞する事で、時を忘れて酔い痴れる仙人の気分を客に味わわせるという、趣向を凝らした一間だった。
そんな奥座敷が今宵開け放たれ、華やかな宴の会場となっている。その上座には、若龍の姿があった。
惜しげも無く燭台を灯して四隅まで昼間のように照らされ、香炉から立ち上る甘い香りに満たされた広い室内で、彼は一帖の畳に座らされていた。
目の前には漆塗りの大きな膳が据えられ、そこには種々様々な美味珍味が所狭しと並んでいる。
雪をよそったかの如く白い山盛りの飯をはじめ、桃塚湖で水揚げされた新鮮な鯉の洗い、旬の山菜のわらびを入れた吸い物やこごみの和え物、鳥の中で最も美味なる雉の干し肉等々――甘味には井戸水で冷やした甜瓜といった果物だけでなく、麦の粉を練った大陸風の揚げ菓子まである。
またそれらを盛りつけた食器は全て、庶民の常用する木椀や素焼き皿などではなく、つるりと光沢を放つ滑らかな磁器だった。異国から舶来した色鮮やかな模様の陶器の数々は、それ自体が値千金の贅沢品である。
だが若竜は目の前の御馳走にがっついたり、芸術的に輝く物珍しい器に目を奪われたりはしていない。彼の爛々とした眼差しは、部屋の中央にいる一人の女に注がれていた。
それは水干を身にまとい垂髪に烏帽子を頂いた、白拍子姿の鈴音だった。凜々しくも麗しい男装の舞人として座敷に立った彼女の背後には、葵を筆頭とする数人の先輩遊女が座しており、鼓や笛、琵琶などの楽器を耳に心地よく奏でている。鈴音は姉分たちの熟練の囃子に息を合わせ、扇を優美にひらめかせて軽やかに舞い歌っていた。
そよ 君が代は 千代に一たび ふる塵の 白雲かかる 山となるまで
(我が君の栄華は、千年に一度降る塵が積もりに積もって、やがて白雲のかかる大山となる悠久の年月と等しく、限りなく続く事でしょう)
「わぁい! 鈴音、お上手!」
若龍は鈴音の舞に拍手喝采しながら、手にした杯をくいと飲み干す。ただし、子供の彼に供されているのは酒ではなく冷やした甘酒である。若龍が杯を空けるとそこにすかさず、待ってましたと言わんばかりに左右から複数の徳利が差し出された。
「主さまに、一献差し上げまする」
「いいえ、わたしが一献差し上げまする」
若龍の傍に侍って酌を争っているのは、鈴音や葵よりもずっと幼い、妹分の見習い遊女たちである。昼間に若龍と遊んだ童女らは、滅多にお目にかかれない同年代の男客にすっかり懐き、大人に混じって一人前のつもりで座敷に参上していた。本来ならば裳着すら済ませていない半人前に接待させるなど言語道断だが、主賓の若竜が一緒に遊んだ少女たちに心を開き、側に召し寄せるの事を望んだのだった。
「はい、主さま。あーんして」
別の見習いが箸を握って鯉の切り身を一切れ摘みあげ、小皿の酢味噌に浸すと若龍の口元に差し出した。若龍はそれにぱくりと食いつき、実に美味しそうに顔を綻ばせる。
「うん、美味しい。ありがとう!」
満面の笑みで頭を撫でられ、給仕した童女は顔を赤らめはにかんだ。
鈴音は目を細めて、童たちのままごとじみたやりとりを微笑ましく思う一方、内心ひどく恥ずかしかった。
何しろ、若龍がこうしていちいち他人に食べさせてもらっているのは、彼が箸の使い方を全く知らないからだった。宿に上げてすぐに簡単な食事として握り飯と味噌汁を供した時、味噌汁の汁だけ先に飲み干して後、椀に手を突っ込んで具を掴もうとしたのには閉口する他なかった。
つきっきりで給仕させているのは手厚い接待というより、行儀の悪い客に醜態を晒させないための配慮だった。
そのような次第だから、同じく若竜と妹分の様子を見守る先輩遊女たちの眼差しには、微笑ましさと同時に幾分かの冷ややかさも混じっている。注目を集めている当の本人が天性の能天気で、気付く素振りも見せないのがせめてもの幸いだった。
「葵姉さま、少しの間だけ……」
若干の居心地の悪さを覚えつつも、舞を一曲終えた鈴音は頃合いと判断し、傍にいる葵に何事かささやいた。耳打ちされた姉分は少し思案げな表情を見せたが、やがて微笑んで頷く。
「ええ、大丈夫よ。でもあまり長居しないようにね」
承諾を得た鈴音は他の遊女仲間にも軽く会釈する。それから文字通り下にも置かないもてなしを受けている若龍の前へ優雅な足運びで進み出ると、膝を着いて恭しく頭を垂れた。
「若様。鈴音は一度、席を外させていただきとうございます」
「うん? 具合悪いの?」
「いいえ。若様は我が宿のもてなしをお気に召したご様子ですが、別の所へお通しした義郎も寛げているか、気になりまして。少しの間だけ、あちらへ訪ねに行ってよろしいでしょうか」
「ふーん。いいよー、いってらっしゃい」
「ありがたく存じ上げます。それでは、ごゆるりと」
「それでは、鈴音に続きましてこの葵が一曲――」
中座を許された鈴音は、入れ替わりに進み出た姉弟子へすれ違いざまに目配せで謝しつつ、そっと座敷を出た。
・「そよ君が代は……」は『梁塵秘抄』より引用。




