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第三十九話 見えない雲行き

「――要するに、自分の野心のために人を傷つければ必ずしっぺ返しを食らいます。どうしても止むを得ない時、とりわけ他者を助けるためにこそ刀を用いるべし、というのが我が流儀なのです」

「ふぅん、自分じゃなくて人のため……? あ、そっかぁ」


 若龍は最初解しかねない様子だったが、突然思い出したようにぽんと手を打ってこういった。


「義郎が人殺した事ないのに強かったのは、鈴音すずねを守ろうとしたからなんだね」


 思いがけない発想の帰結に、義郎は面食らった。


「え、いや……確かにあの時は鈴音や巫女たちを助けるために刀を抜きましたが、それで強さや立ち回りが変わるという事は……」

「そんな事ないよ、母上が言ってたもの。人間の中で一番強いのは、自分のために他人を平気で捨てられる奴よりも、他人のために自分の命を惜しまない奴だって。そういうのが死にもの狂いになると、どれだけ怖がらせても逃げようとしないから厄介なんだって」

「母君……源主がそんな事を?」


 あの性根の悪い女神が、人間の善性を評価しているとはにわかに信じづらいものだが……義郎が若龍の主張に疑問を抱いていると、彼等主従の問答に口を挟む声があった。


「きっと、母君御自身の御体験なのでしょう」


 女の声に振り向くと、部屋を仕切る屏風の陰から鈴音がすっと現れ、静々と入室してきた。風呂から上って衣装も化粧も一新したその姿は、爽やかで瑞々しい。


「神代の昔、荒彦さまは故郷の仇討と生贄の賑姫さまをお救いするため、我が身を顧みず源主さまに剣を振るって挑みかかった――神をも恐れずに襲い来る人間は、さぞ脅威だったのかもしれませんね」


 故事を引いて述べた鈴音の見解に、義郎はなるほど一理あると得心する。一方若龍は自分の意見への補足には一切構わず、鈴音を見るなり「遅いよー」とぶんぶん袖を振った。そんな若龍に、鈴音は微笑んで語り掛ける。


「若様、御家来の義郎と親しむのも結構ですが、せっかく我が宿にいらっしゃるのですから、宿の者にも構ってもらえないと寂しゅうございますわ。鈴音の妹分たちが、若様とお近づきになりたいと望んでおりますの」


 と言って部屋の外を指さすと、そこには四、五人の少女たちが屏風の陰に隠れて身を寄せ合いながら、顔をちらちら覗かせていた。五歳から十歳くらいだろうか、皆裳着を済ませていない童女だが、いずれも将来が楽しみな花の蕾を思わせる顔ぶれだ。淡く化粧を施し、色とりどりの鮮やかな衣装で小さな身を一生懸命に飾っているそのなりから、遊女の見習いであろうと義郎にも察せられた。


 童女たちは若龍に好奇の眼差しを注ぐ一方で、義郎と目が合うと慌てて首をひっこめてしまう。同い年の少年に興味津々だが、側近の武人然とした義郎に気圧されている様子だ。


 注目を浴びている若龍は童女たちをぼけっと見つめ返していたが、すぐにそわそわしだして、義郎を見上げて尋ねた。


「あの子たちと遊んでいい?」

「ええ、どうぞご自由に」

「やった! 皆、僕と遊ぼ!」


 義郎が同意した瞬間に膝から跳ね飛んだ若龍は、部屋の外にいる見習い遊女たちの環に突っ込んでいく。童女たちはきゃあきゃあと黄色い歓声を上げて年の近い異性を迎え入れた。


「小さいお殿様だわ! 船着き場の男の子たちよりずっと綺麗!」

「にゃくりゅう様というの? おいくつ?」

「一緒に遊びましょう、あたし貝合わせしたい!」

「駄目よ、女の子の遊びじゃない。お殿様の遊びといえば独楽回しでしょ」

「それより、蔵に絵があるからお見せしましょう!」


 雀のように囀る童女たちの環に飛び込んだ若龍は、「義郎、鈴音、また後でね!」と喜色満面で言い残すと、左右から延びる小さな手に袖を引かれるがまま廊下を走り、何処ともなく遊びに出掛けてしまった。



「全く、明るい内からあんなに女の子を侍らせて、将来有望な色男だこと」


 少年少女を見送りながら、鈴音が呆れて呟く。部屋には彼女と義郎だけが残った。


「立ち聞きしてたのか。いつから?」

「ついさっきよ。若様が『義郎が人殺してないのに強いのは、鈴音を守ったからなんだね』って叫んだあたり」

「お、おう……」


 言葉を濁す義郎に、鈴音はふっと笑みを浮かべて言い添える。


「まぁ、人を斬った事が無い武芸者が化け蛇をやっつけたなんて、確かに意外だけれど。でも、安心したわ。乱暴者じゃないのは良い事よ」


 そこで鈴音は、義郎の傍らに置いてある刀とその手入れ道具に注目した。


「刀のお手入れしてたのね。源主が直したっていう……」

「ああ。神刀なら何か特別な性質でもあるのかと、気になって調べたんだ。使うのがもったいないほどの業物という以外は皆目分からなかったが。そういえば、お前も褒美の鏡を貰ってたよな。 『映真鏡えいしんきょう』とかいう……」

「ああ、そうそう、聞いてよ! あの鏡おかしいの!」


 義郎と同様に下賜された神鏡に話が及ぶと、鈴音はぐっと身を乗り出して憤慨しながら一気にまくしたてた。


「私もさっきお風呂上りにあの鏡を試してみたんだけど、化粧の写りがほんっと悪くって! 顔はよく映って少しも曇ってないのに、いくら白粉や紅を塗っても全く分からないの! 何度やっても上手くいかないから自分の鏡に代えたら、今度は打って変わってずいぶん捗って……岩屋御所で貰った時はとっても素敵な鏡だと思ったのに、いざ使ってみたら肝心のお化粧の役に立たないなんて! こんな欠陥品を御褒美に寄越すなんて、全く良い性格した女神さまよね!」


 頬を膨らませて文句をぶちまける鈴音のお喋りが長引くのを危惧して、義郎は強引に話題を切り替えた。


「た、大変だったな。それはともかく、二人とも風呂あがったのなら俺も入りたいんだが」

「あっと、そうだったわね……そういえば、あなたはお風呂の入り方知ってるの? 山育ちだっていってたけど」

「人里の寺で風呂を庶民に開く施浴せよくの日があったから、先生のお供で通ってた」

「なら大丈夫ね。こっちよ、ついてきて。着替えを出してもらうように私から頼んでおくから、ゆっくりしていって」

「ああ、そうさせてもらおう」


 義郎は手入れ道具を手早く片付けると、刀を手に提げて鈴音の案内に従った。


 ◆


「ふう、手が空いちゃった。どうしようかしら」


 風呂殿の前で義郎と別れた鈴音は、所在なさげに宿の廊下をうろついていた。自室へ戻るか、客間で義郎と若龍を待つか考えていると、廊下の向いから姉分のあおいがぱたぱたと忙しそうに駈けよって来た。


「鈴ちゃん、お風呂あがったの? 深山様と、若龍様のお相手は?」

「若さまは妹たちと遊んでいらっしゃるわ。義郎は今風呂殿まで送った所」

「それではお一人で入浴してらっしゃるのね……鈴ちゃん、お背中流してさしあげなくていいのかしら?」

「なっ……そういう関係じゃありませんからっ!」

「あらそう? うふふ……冗談はともかく、手が空いてるのならちょうどいいわ。夕刻からの宴の支度をして頂戴」

「宴?」

「さっき遣いの者が、長者さまのお文を持って帰って来たの。鈴ちゃんの恩客を是非ともうちにお引き留めして、四方四季の間で歓迎するようにとのことよ」


 客間の名を聞いた鈴音は「まぁ!」と口に手を当てて驚いた。


「四方四季って、うちの最上格じゃないの。殿上人の常連客でもほんの一握りしか入れない場所に、飛び込みの一見さんを上げるだなんて……ずいぶんと手厚い歓迎なのね」


 桃塚の長者が営むこの宿は、旅人の往来が激しい通りから遠く隔たった閑静な立地にあり、門にはそれと分かるような看板を一切掲げていない。本来は特別な口利きがなければ敷居を跨げない、一見客はお断りの場所なのだ。無位無官の義郎と、公家童子風だが血筋の知れない若龍を勝手にあげてしまった咎で叱責を受ける覚悟をしていた鈴音は、思いもよらぬ歓待ぶりにかえって拍子抜けした。

 

「長者様も、鈴ちゃんが帰って来たのがよっぽどうれしいのよ」


 葵も喜色を浮かべてそれに応じる――しかし、すぐに顔をしかめてこう言った。


「ただ、何だか変なのよね」

「変?」

「お文に書かれた指示通りにおもてなしの手配をしてるんだけど、四方四季の間に迎えるのはあの小君だけで、恩人のはずの深山さんには別室で適当に酒と御膳を出すようにって……明らかに小君の方を賓客扱いしているのよ」

「義郎よりも、若様を……?」


 首を傾げる鈴音に対し、葵もまた困惑した表情で問いかけてきた。


「鈴ちゃん……あの若龍という小君は、一体何者なの? 出瑞権現いずみごんげんの申し子……そういう"触れ込み"だとは聞いたし、長者様にもお伝えしたけれど、まさかそれを真に受けたとはさすがに……それは私も、とっくに亡き者だと思っていた鈴ちゃんが無事帰ってきたのだから、これは神仏の御加護に違いないと感謝しているわ。でもだからといって、一緒に現れたあの子が神様の子だなんて紹介されても、にわかには信じられないのよ。たしかに、言動や雰囲気にどこか常人ならざるものがあるというか、その……少し気の触れている感じはするけれども。長者さまが、顔も見ていないあの男の子をどのようにお考えなのか、私には全く分からないわ」


 戸惑いがちに心境を述べた葵に対して、鈴音は疑惑の視線にためらいながらもただ正直に、嘘偽りなく答えた。


「……最初に言った通りよ。源主神が産んだ王子神の末っ子で、最近都でも噂になっていた、出瑞山に現れるという出瑞童子の正体……そうとしか説明できないわ」

「そう……あなたも、深山さんから詳しくは教えてもらってないのね」


 義郎が何らかの事情で出瑞大社の隠し子を引き取り、話を盛っているのだと勝手に解釈してしまっている葵は、鈴音の答えを受け入れないまま追及を諦めてしまう。


「まぁ、とにかくそういう訳だから、夕刻までにお座敷へ出られるようにしてて頂戴ね。それじゃ、私は姉さまたちにもお声をかけにいくから、また後で」

「え、ええ……」


 忙しく立ち去っていく姉分を見送った鈴音は、自室へ向けて歩き出しながら悶々と考える。


(長者様は、若様をどうお考えなの……? 義郎たちを深く詮索しないで、適当に話を合わせているだけ? それとも――)


 ふと廊下から外の景色を見る。先ほどまで快晴だった五月の空に、いつのまにか灰色の雲が垂れ込めて重々しく広がり始めている。先の見通し難い、梅雨の訪れが間近に迫っていた。

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