第三十七話 義郎の神刀検め
鈴音が若龍を湯浴みさせている頃、残された義郎は与えられた部屋に戻って、鈴音の姉分の葵が相手をしていた。
「さて、鈴音が小君を連れてお風呂へ下がってしまいましたので、しばらくは私たちが代わりに深山様のお相手をいたしましょう」
「私"たち"?」
「姉さま方、お出でくださいませ」
葵がぱんぱんと手を叩くと、まもなく宿の奥からさらさらとした衣擦れと軽快な足音が波のように重なって聞こえ、徐々に近づいて来る。そして鈴音と葵よりも年長で、鈴音と葵よりも派手に着飾って、鈴音と葵よりも化粧が濃い遊女たちが十数人、義郎の部屋にどやどや押し寄せてきた。
「葵ちゃん、その人が鈴ちゃんの連れて来た方?」
「東国の人っていうから、もっと毛深いと思ってたわぁ」
「都のお侍さんより体格良いのね」
「あたしはもっとほっそりしている方が……」
「あの子、むさいのは好みじゃないと思ってたけど」
けばけばしい遊女たちは義郎の顔を興味津々に覗き込み、小鳥のさえずるようにあれこれささやき合って寸評してくる。
いきなり年上の女人たちに囲まれて狼狽える男客に、葵が説明してやる。
「梅雨が近い季節柄、今日は他のお客様のご予約もなくて、姉様たちも暇を持て余していたのです。さぁ、どのような遊びをご希望ですか? 歌舞音曲、詩歌朗詠はもちろんの事、双六や囲碁のお相手もできますよ。他にも御入用な物があれば、なんなりと」
「ええと……」
呆気にとられた義郎は少し考えた後、このような要望を述べた。
「それじゃあ、細い竹の棒と小さい木槌に椿油、それときれいな布を二三枚ください」
「竹棒と、小槌と、油?」
意図を量りかねて首を傾げる葵に対して、義郎は屋内ゆえに帯から外して部屋の隅に置いていた自分の刀を指し示し、簡潔に告げる。
「刀の手入れをしたいので、人払いをお願いします」
◆
妹分が連れてきた珍客の物見遊山に来た先輩遊女たちは、目当ての義郎にすげなくあしらわれると「残念だわぁ」と扇をあおぎながら奥へ退いていった。
ただ一人残った葵は「梅さん、梅さん」と名前も容貌も地味な中年の女中を代わりに呼び寄せて、義郎の頼んだ道具を用意させる。当然ながらこの宿には、美しく着飾って客の相手をする遊女以外にも、その裏方として家事雑務を担うごく普通の奉公人もいるらしかった。
「また何か入用な物があれば、なんなりとお呼び申しつけください」
そう言い残した葵が女中を伴って恭しく退室していくのを見届けると、義郎は宣言通り黙々と刀の手入れを始める。片付けた部屋の中央に座した彼は、刀を鞘ごと両手で捧げ持って一礼すると、息や唾のかからないように布を一枚咥えてから作業に入った。
鞘から刀身をゆっくりと抜いて、刃をぶつけないよう細心の注意を払いながら床へ水平に置き、刀身を柄に固定する目釘を細い竹棒で押し出してから、柄を木槌で軽く叩いて刀身を外し……そうして鍔もはばきも払うと、刀は一切何にも覆われていない、人間で言う生まれたままの姿となる。
義郎は裸に剥いた刀身を真白な布で丁寧に拭い清め、さらに先端の鋭利な切っ先から柄に埋まっていた茎に至る末端まで、一寸の傷も錆も見逃すまいとじっくり検分する。
遊びなれぬ身で手練れの遊女たちを追い払う、体の良い口実のように切り出した作業だったが、実際問題、彼は腰の物を一度隅から隅まで検める必要があると、目を覚ましてからずっと考えていたのだった。
出瑞山での戦いで壊れた愛刀を源主に取り上げられた後、かの女神から『直してやった』と言って下賜されたのが、この"朽縄"と号する神刀である。
光を返して輝く刀身は三日月を思わせ、鋒を見れば毒蛇と相対するような寒気を感じ、刃に浮かぶ湾れの刃紋のうねりは蛇の生き生きと這うが如し。鋭利と優美を兼ね備えた神々しい一振りは、若輩の無名剣士が持つには畏れ多いほどの逸物だ。
それなのに実用面で大切な刃渡りや重みは、肌身離さず差していた愛刀――といっても無銘の数打ちだったが――と寸分違わず、全く違和感を覚えない。単なる偶然とは思えないほどよく手に馴染んだ。
(明らかに別物なのに、昔から差していたような一体感がある……いくら神仏の仕業とはいえ、これが俺の刀の生まれ変わりだなんてにわかには信じがたいが……しかし、それよりも気になるのは――)
肝心要の刃先から刃元を隈なく検め、最後に茎へ目を移す。普段は柄の内に隠れているその箇所には、作刀者を明らかにする銘が古雅な書体で刻印されており、それは次のように読める。
"源主作"
そのたった三文字を見て、義郎の胸中は魅力的な刀を手にした踊るような喜びから一転、強い不信感が鎌首をもたげた。
(――果たして見た目通りの、"ただの名刀"なんだろうか)
そもそも彼が若龍王子に仕えたのは、源主の毒牙による祟りで鈴音ともども無理やり神託に服従させられ、しかも若龍が死ねば従者の自分たちも呪い殺されるという、源主の陰険な脅迫がきっかけであった。
望まぬ臣従を強いられた義郎は、源主の悪辣なやり口に今も反感を抱いていた。事が自分一人の問題であったなら、いっそ呪い殺される前に自ら腹を切ってでも、女神への隷属を拒んだだろう。それをせずに恥を忍んで生き長らえているのは、すでに己の双肩に女子供の運命が預けられているからだ。
哀れにも巻き添えとなった鈴音に心中を強いる事はできない。仮に義郎が自己満足で自刃したとして、残された非力な少女は若龍を守り切れず破滅を待つしかないだろう。彼女を生かすには自分も生き延びて、二人に課せられた役目を全うするまで守らねばならない。
それに、若龍には並々ならぬ恩義がある。かの王子神は義郎と鈴音のせいで一度死の淵まで追い込まれたにも関わらず、恨むどころか和解を望んで歩み寄り、図らずも源主の怒りを解いて助命してくれたのだ。それなのに荒神退治という過酷な試練を課せられた彼の窮地を見捨てるのは、人道から外れた不義であると義郎の良心が強く訴えていた。
だから望んだ結果ではないにしろ、鈴音と共に若龍を支える事については十分納得しているし、幼い王子神に忠義を尽くす覚悟は決めたつもりでいる。
ただ、その背後にいる腹黒い母神の行いに全幅の信頼を寄せることはできなかった。
(最初から我が子の護衛にする腹積もりでこの刀を寄越したのなら、よもや俺達を陥れるような仕込みはないだろうが……単に出来が良いだけの、普通の武器かは疑わしい。果たしてこれは、人が振るっていい代物なのか)
考えれば考えるほど疑念は尽きない。とはいえ、今手元にあるのは源主に下賜されたこの"朽縄"たった一振り。好むと好まざるとに関わらず、いざ荒事となれば命を預けるしかないのもまた事実だった。
(――見る限り、不審な点はなし。あとで藁束か竹か、斬って良い物があるか尋ねて切れ味を試すか)
念入りに調べた末そう結論付けた義郎は、刀身に錆止めの椿油を塗ってから柄に固定し直し、手入れを終えた刀を再び鞘に納めようとした。
几帳と屏風で閉ざし宿の人々も遠ざけた静寂な空間に、空気を読まない闖入者が飛び込んで来たのは、ちょうどその時である。
「義郎! お風呂あがったよ――うわぁっ」
乱入してきたのは若龍であった。湯上りで心身共にさっぱりした童子は、いかにも遊里らしい派手な花柄の衣に着替え、結い直したばかりの下げみずらを振り乱しながら満面の笑みで躍り込んできた。しかし、義郎が抜身の刀を手にしているのを見るなり、悲鳴を上げて一目散に部屋を逃げ出してしまった。
足音や気配を全く悟らせず部屋に近づいていた若龍に、義郎も少々驚いた。しかし刃物を怖がって逃げたのを見ると静かに納刀し、咥えていた布を取って口を開く。
「大丈夫ですよ、若。先ほどまで刀の手入れをしていたんですが、ちょうど終わった所です。怖い事はしませんから、安心してお入りください」
若龍が屏風の陰からそっと顔を出して覗き込んでくる。義郎が刀を床に置くのを認めると、安心して近寄って来た。
「うん。ちょっとびっくりしたけど、もう平気。その金物は痛くて怖くて、嫌いだけど……義郎は僕をいじめないって知ってるもん」
「拙者は若の家来ですからね」
「ううん。そうじゃなくて、友達だから。義郎も鈴音も」
そう言いながら、若龍は義郎の懐に潜って膝の上に寝転がる。そのせいで義郎は立ち上がれなくなったが、退けとも言えないので、「恐縮です」と軽く会釈して幼君の為すがままにした。
「そういえば、鈴音は? 一緒に風呂へ行っていたのでは」
「僕の髪を結った後、お化粧を直すって自分のお部屋行っちゃった。待っててって言われたけど、暇だからこっち来た」
「女の支度は長いらしいですからね」
「こっそりお部屋覗いたら、母上の鏡とにらめっこして『お化粧のノリが悪い』ってぼやいてた」
(そういえば、鈴音も鏡を貰っていたな……)
ふと鈴音の賜った神鏡を思い出していると、膝の上にいる若龍が傍らに置いた神刀をじっと見つめているのに気付く。
「刀に触りたいですか?」
「ううん。怖いからいい」
若龍は首を振り、こう続けた。
「でもその金物見てたら、ちょっと義郎に聞きたい事を思いついたの」
「拙者にお答えできる事でしたら、なんなりと」
「本当? じゃあさ――」
若龍は勢いよく身を乗り出し、義郎を見上げる。その大きくて丸い眼を無邪気な好奇心で輝かせ、興味津々に訊ねてきた。
「義郎って、今まで何人殺したの?」




