第三十六話 蛇神の湯浴み
先刻の騒ぎの後、鈴音は姉弟子の葵に替わって、若龍を宿内の風呂殿へ連れて行った。
初めて風呂釜を見た若龍が、自分を煮て食べるための鍋と勘違いして怯えてしまい、鈴音にしがみついたまま一向に離れないので、安心させるため彼女が付き添って作法を教える運びとなったのである。
「若様、ご入浴の準備はできましたか?」
脱衣所で彩り鮮やかな絹衣を脱いだ鈴音は、水はけの良い麻の湯帷子一枚に着替えた。長い垂髪を手ぬぐいで纏め上げて袖をたすき掛けすると、華の遊女からたちまち質素な湯浴み女へと早変わりしてしまう。もっとも、生来の整った美質はどれだけ味気ない恰好でも損なわれる事がなかった。
「う、うん……」
こわごわと頷いた若龍は、すでに鈴音と同じように湯帷子に身を包んでいる。下げみづらを解いて背中に垂らしているため、一見すると童女と見間違えそうである。
勘違いの錯乱から大分落ち着いた童子は、心を許している鈴音の指示に大人しく従ってくれている。しかし、着ていた半尻装束を脱いだ端から適当に放りだして、床に散らかしてあるのは頂けなかった。
「あらら、御召し物をそんな乱雑にして……ちゃんと籠にしまわないと」
鈴音は呆れつつも一つ一つ拾い上げては丁寧に畳むと、自分の衣をそうしたように、脱衣所の編籠に納めていく。
「その数珠も外しましょう。お風呂に入るなら、余計な物は持ち込んじゃ駄目ですよ」
装束は躊躇なく脱ぎ捨てた若龍だっただが、水晶の数珠だけは首にかけたままだった。鈴音が数珠も脱衣所に置いていくよう促すと、若龍はそれを両手で固く握り絞め、ふるふると首を振って拒否する。
「やだ。母上がくれたものだもん」
「身に付けたままお風呂に入ったら汚しちゃいますよ」
「母上がいつも持ってなさいって言ってたもん……外したくない」
若龍にとって、その数珠は母親――源主神からの餞別の品であり、母元を離れた今となっては心の拠り所なのだろう。
無理に取り上げるのは可哀想であるし、また泣いたり駄々を捏ねられたりしても困ると考えた鈴音は、大目に見ることにした。
「もう、仕方ないですね……それでは、入りましょうか。大丈夫、怖くないですよ」
「ううー……」
鈴音はぐずる若龍の手を引いて浴室へ導く。戸を開くと、室内からもうもうと湯気があふれ出た。湿った熱気が全身にむわっと襲いかかるが、熱が漏れ出ないように急いで入って内側から戸をしっかり閉める。室内をぐるりと見渡すと、間取りはやや狭くて屋根も低く、日中に関わらず薄暗い。室内に熱を閉じ込めるために、窓の無い密室なのだ。
隣の脱衣所と比べて床は一段と高く、中央の床板を外して大きな風呂釜が埋め込まれている。釜はたっぷりの湯で満たされており、床下で火を焚いているらしく、ぐらぐらと煮立って盛んに湯煙を上げていた。
「ひぃ、こんなのに入ったら、茹で上がって死んじゃうよぉ……」
こんな仰々しいものが待ち構えていたら、物を知らない若龍が怯えるのは、なるほど無理からぬ話であった。けれども、その恐ろしい想像を鈴音は笑って振り払う。
「安心してください。お湯に直接入るわけじゃないですよ。上に座るんです。こうして……」
鈴音はぐつぐつ音を立てる風呂釜に簀子で蓋をして床板を作り、さらにその上に火傷を防ぐための風呂敷を敷いた。
「さぁ、ここへお掛けになって、湯煙を浴びてください」
「僕、煮るんじゃなくて、蒸し焼きになっちゃうの……?」
「食べませんってば……そんなに怖いなら、私が先に入って見せますから」
どこまでも及び腰な幼君に呆れた鈴音は、まず自分が簀子を踏み、膝を曲げて楽な姿勢で座り込んで見せる。
「ふぅ……」
そのまま佇んでほっとくつろぎ、湯煙の温もりに身を委ねる。しばらくそうしていると蒸気に撫でられた身体がぽかぽかと熱くなり、頭髪から爪先に至る全身から玉の汗が浮き出て、しとどに濡れた湯帷子が肌に張り付く。滴る汗が垢だけでなく旅の疲れも落としてくれる感覚がして、身も心も癒された。
そうして鈴音が身をもって安全を示していると、若龍はようやく警戒を緩めた。鈴音の手招きに従っておっかなびっくり歩み寄ると、風呂敷の上にちょこんと尻餅をついて膝を抱える。さらに身を縮こめて固く目を瞑り、未知の体験にじっと身構えた。
「しばらくそのままでいてくださいね。御髪も洗いましょう」
若龍が決死の覚悟で温浴に挑んでいる間に、鈴音は浴室の隅に予め用意してあった、米のとぎ汁の入った桶を引き寄せた。桶を抱えて童子の背後に回り込むと、みずらを解いた髪を桶に浸して手で濯ぎ洗いしてやる。米とぎ汁で髪や顔を洗うと、汚れがすっきり落ちるのみならず艶が出るのだ。
もっとも、若龍の髪はいざ触れてみると、洗う必要が見いだせないほど清潔だった。いくら濯いだ所でふけも虱も見つからないし、枝毛も癖毛生まれてからずっと出瑞山で隠れ育ったというが、山育ちとはとても思えない。
(容貌も人並み外れて綺麗だけど、やっぱり神様だからかしら)
「んん……」
そうしている間に若龍はたっぷりと汗をかいて、あれほど怯えていた事などすっかり忘れて寛いでいる。強張っていた表情は恍惚して緩み、縮こめていた身体も四肢を投げ出して気だるげに広げていた。終いには身体の芯まで骨抜きになってしまったように、背後の鈴音にくたりともたれかかってしまう。
洗髪を終えた鈴音が、頃合いを見計らって声をかける。
「そろそろ上がりましょう」
「うー、もうちょっと……」
「湯あたりするから駄目です」
「ああん」
気の抜けた抗議を上げる若龍だが、鈴音に抱き上げられても身体は猫のようにだらんと伸びきって無抵抗だった。浴室から若龍を引きずり出した鈴音は、脱衣所の隅の水瓶の傍に童子を立たせる。
「たっぷり汗をかいた後は、水できれいに洗い流しましょうね。最後にお身体を拭いておしまいです」
そう言って手桶で水を掬い、びっくりしないように手足から胴へと少しずつかけてやる。
「ひゃあ、冷たいっ」
冷水を浴びせられた若龍が悲鳴を上げるが、嫌がる様子はなかった。蒸し風呂で暖められた身体には冷気がむしろ心地良いようだ。
「えーい、お返し!」
冷水を二度三度浴びた若龍はたちまち元気はつらつとなって、隙を見つけて鈴音から桶を奪い取り、反撃とばかりに勢いよく浴びせ返した。
「きゃあ! あはは、こっちもお返し!」
娘と童が水をかけあい、楽しげな声が風呂殿に響く。凍えぬうちにほどほどの所で済ませると、鈴音は若龍の湯帷子を脱がして、濡れた小さな身体を手拭で拭ってやった。
「お風呂って初めて入ったけど、気持ちいいね。また入りたい」
「ご満足いただけて何よりです」
生まれて初めての文化を体験して満足げな若龍の感想に、鈴音も笑みをこぼす。
「それにしても、さっき御髪を洗った時も思ったんですが、驚くほどお身体が綺麗ですね。たっぷり汗をかいたのに、脱いだ湯帷子に全然垢が付いてないですよ。肌を擦っても出ないし……神様だから、いつも清潔なんですか?」
「うーん、そう? 汚れてないのは、皮を脱いだばかりだからかなぁ」
「……皮を、脱ぐ?」
発言の意味が飲み込めず、鈴音は手を止めて眉をひそめる。若龍が言葉を付け足した。
「僕が皮脱ぐ所、鈴音も見たじゃない。初めて会った時に、御山の滝の前で」
「初めて会った時……出瑞山の滝で……」
鈴音は言葉を繰り返しながら記憶を振り返り――突然、落雷の如き衝撃が走る。出瑞山で若龍と遭遇した時の情景が鮮明に、強烈な負の感情を伴って脳裏に蘇った。
岩屋御所の滝裏で義郎に見つかり、さらに集まってきた鈴音と巫女達に追い詰められたこの神の童子は、人に見つかった咎で母神に叱られるのを心底恐れていた。そして器物を壊してしまった子供が破片を隠して誤魔化すのと同様に、自分を見た人々を一人残らず始末しようと衝動的に襲ってきたのだ。
その時、無害な幼子に見えた若龍王子は文字通り化けの皮を破って、恐るべき国神の正体を現したのである――爛々と輝く丸い目で獲物を睨み、大きく広げた口から刀の如き牙を剥き出して、太く長い身体を白銀と鮮血色の銭模様に染め上げた、見るもおぞましい大蝮の姿を。
(ひっ……!?)
身の毛がよだつ化け蛇を唐突に思い出し、しかもそれが目の前の童子であると再認識した鈴音は、本能的な恐怖で反射的に身を退いた。
(今は無邪気な子供にしか見えないけど、これは人を欺く仮初めの姿……本当は蛇神の子で、恐ろしい化け物なんだ……)
目の前の童子の何気ない一言から、彼の得体の知れなさに改めて気付いた鈴音は、しばし言葉を失って硬直してしまう。しかし裸のまま放置されていた若龍が大きなくしゃみをした事で、ようやく我に返った。
「鈴音、どうしたの? 風邪ひいちゃうから早く拭いてー」
「え、ええ。そうですね……」
促されて鈴音は、再び若龍の身体を拭き始める。けれどもその手つきは先ほどまでの丁寧さを欠き、居眠りしている虎か熊に触れるが如く怖々としてぎこちない。
湯上がりの身体は未だほかほかと熱気を放っているのに、その芯では冷え冷えとした悪寒が生じているのを、自覚せずにいられなかった。
・補足
現代の私たちは風呂と言えば直接浴槽に入る温水浴を想像しますが、江戸時代に銭湯が普及する以前はサウナのような蒸し風呂(蒸気浴)が一般的でした。ただし、湯が自然に供給される温泉では奈良時代以前から湯に浸かっていた模様。




