表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/55

第三十五話 招かれざる宿泊客

「まぁ、小君こぎみ。お部屋から見えなくなってどこへお出ましかと思えば、お連れの方をお見舞いしていらしたのですね。お優しい心遣いですこと」

「あ、あおいおねーさん。義郎よしろう起きたよ!」


 宿の廊下に集まっている三人を見つけた葵御前は、元気に手を振ってくる若龍にゃくりゅうに会釈する。静々と廊下を進んで彼らに近づくと、義郎の方を向いて挨拶してきた。


「深山義郎さまですね。私は葵と申しまして、そちらの鈴音すずねと一緒にこの宿でお客様をもてなしている遊君ゆうくんでございます。あなた様のお話は、鈴音から聞いておりますわ。出瑞の御山で危ういところを救って頂いたとの事……まことにありがたく存じ上げます」


 義郎の前で年上の美女が、扇を開げて口元を隠しながらにっこり笑んだ。その容貌は雲間から垣間見る月輪の如く秀麗である。細身に重ね着した衣は藍や紫などに染められて、しっとりした夜空を思わせた。彼女が身じろぎする度、衣に薫き込めた沈香じんこうの甘い芳香が漂って安らぎをもたらしてくれる。鈴音の溌剌さとは好対照の、落ち着いた魅力を放っていた。 


「いえ、そのような……義によって動いたまでです。むしろ拙者の方が、彼女の機転に助けられたくらいで」

「あら、そのようにご謙遜なさらず、もっと胸を張ってくださいな」


 奢らない義郎の態度を葵は一層称揚した。


「昨日今日に知り会った女を助けるために、自ら激流に身を投じたというだけでも大胆不敵ですのに、さらに二人とも五体満足で生還を果たすなど、凡夫の所行ではございませんよ」

「……激流に身を投げる?」


 身に覚えの無い賛辞に、義郎は違和感を覚えて聞き返す。


「とぼけなくても良いじゃありませんか。謙遜も過ぎればかえって卑屈ですよ。山で何があったのかは、私自身が大社の巫女から一部始終を聞いているんですから」


 そこで葵は義郎に対して、あの日参詣を案内していた巫女から直接聞いたという"山で起こった"事について語った。


「あなたと鈴音が偶然道連れとなって岩屋御所へ詣でた帰り路、折り悪く嵐に見舞われ、鈴音が不運にも荒れた川に落ちてしまったとか。そしてあなた様は、溺れる鈴音を助けようと後を追って飛び込み、そのまま一緒に消息を絶ってしまったと……私はそのように聞いておりますわ」


 傍らに立つ鈴音が義郎の袖をついと引き、「そうなってるみたい、世間では」と耳打ちする。


 義郎は失踪していた間に自分たちがどのように取り沙汰されていたのか、葵の説明でようやく把握した。


「当事者の巫女達に状況を詳しく訪ねても衝撃で思い出せない、頭が痛いと繰り返すだけで、子細は分からず仕舞いでしたが……あれから一向に消息が知れず、既に亡くなった者と諦めて後世を弔っていた矢先に、こうして可愛い妹分とこの世で再びまみえる日が来るとは考えもしませんでした。これもあなた様のおかげです。感謝してもしきれません。ただ……」


 平に謝辞を述べていた葵はそこで言葉を切って言いよどんだ。喜色満面から一転して、いささか困ったような、一抹の憂いを含んだ複雑な笑みを顔に貼り付けこのように述べた。


「勝手を申せば、どうしてもっと早く消息を報せていただけなかったのか、何故こんなに間をおいてからこちらに足をお運びなさったのか、それが恨めしゅうございますけれども……積もるお話は、長者様が詳しくお聞かせいただければありがたく思います」


「そういえば、その長者殿……宿の御主人に挨拶したいのですが、どちらにいらっしゃいますか」


 宿の人間の勧めとはいえ、当の主人に一言の断りもなく部屋へ上がっているのは礼を欠くと考える義郎は、”桃塚ももつかの長者”への面会を望む。しかし、葵は申し訳なさそうに首を振った。


「ごめんなさい、長者さまはちょうど留守なのです。先日、古なじみのお客様のお邸にご招待されて、ご遊楽のお相手でここ数日間泊まり込んでいまして。今朝、早馬を出して鈴音の生還とあなた方の来訪をお伝えし、一刻も早くお戻り頂くようお願いしていますが……何分足腰が不自由でいらっしゃるので、こちらへの到着はおそらく夕刻になるかと」

「そうですか……ならそれまで待ちましょう」

「ええ。ですから今は、お身体をゆっくり休めていてください」


 そう締めくくって葵は目線を義郎から視線を離し、かがみ込んで若龍に話しかけた。

 

「さて、それはそれとして、若龍さまをお探ししていたのですよ。お待たせしましたね小君。早朝からあのような荒磯に野ざらしで、さぞやお身体が冷えたことでしょう。ようやくお湯が沸きましたので、お風呂にいれてさしあげます」

「おふろってなぁに?」

「あら……お風呂をご存じでない?」

「知らない。美味しいの?」


 首を振る若龍に、葵は「まぁ……」と驚きと憐れみの混じった眼差しを注ぐ。

 

「確かに、お山での生活は色々不便でしょうし、水浴びが関の山かもしれませんね……湯殿に来ればすぐわかりますよ。さぁ、こちらへ」


 葵に手招きされた若龍は、義郎たちを見上げて意見を求めた。


「行っていい?」

「ええ、葵姉さまについて行って大丈夫ですよ。若様がお上がりになったら、義郎も案内しますから」

「それは有り難い。俺も長旅の垢を落としたかった所だ。若、一番風呂をどうぞ」

「うん、分かった!」


 こっくり頷いた若龍はててて、と元気よく葵へ駆け寄る。見渡す限り清浄な宿は、庭の玉砂利まで掃除が行き届いているのであろうか。先ほどまで裸足で床下に寝転がっていた若龍が廊下を走っても、光るほどに磨かれた床には足跡が残るどころか塵一つ舞い上がらない。

 「それでは、また後ほど」と、葵が若龍の手を引いて退がろうとした時、義郎がその背中を呼び止めた。


「あの、葵御前。その若君のお世話は、くれぐれも丁重にお願いします。にわかには信じられないと思いますが、実は――」

「大丈夫、分かっていますよ」


 葵は足を止めて振り返り、義郎の言葉を遮って返事をした。


「こちらの小君はなんでも、出瑞権現いずみごんげん様の末の男君だとか。立派な神様にお成りになる修行のために、人界へ御光臨なされたのだと、鈴音から聞いております」

「うん、そうだよ! 僕、神様なの!」


 葵は笑顔で答える若龍に軽く微笑んで頷くと、義郎を見ながらこう呟いた。


「そして、あなた様はその御家来――そういう”触れ込み”なのだと」

「……触れ込み?」

「深山さん」


 葵は真正面から義郎をじっと見据えると、顔に和やかな笑みを張り付けたまま、このように語り掛けてくる。


「東人だというあなたが、いかなる事情で出瑞大社の童を保護しているのかは存じ上げませんが、我が宿にご滞在中は私たちが小君のお世話を務めますから、肩の力を抜いて頂いて結構ですよ。うちの者は皆きちんと礼儀をわきまえておりますから、つまらない好奇心でお客様の事情を根掘り葉掘り詮索しませんし、万が一そちら様に不都合な事が生じても、固く口を閉じて絶対に宿の外へ漏らしません。ですからここでは外聞など気にせず、ごゆりと旅の疲れを癒やしてください」


 具体的な言明を避けた、よそよそしい物言い。穏やかな言葉づかいとは正反対の、腫れ物にでも触れるが如きその態度に、義郎は面食らってしまい「は、はぁ」と生返事するしかなかった。


「それでは小君、参りましょう」


 呆然と立ち尽くす義郎を置いて、葵は傍で自分を見上げてくる小さなお客を案内した。


「うん、義郎、鈴音。また後でね!」


 葵に手を引かれてながら後ろを振り向き、空いた片手をぶんぶん振って来る若龍に対して、義郎たちも小さく手を振り返す。先輩遊女と童子が廊下の角へ姿を消した後、残された義郎は隣の鈴音に問いかけた。


「なぁ……何だか若の事、忌み子か何かだと思われてないか? 修行者の隠し子か巫女の父無し子か……あるいは物狂いとか、そういう類いの。俺はさしずめ、親元から引き離して遠国へ連れて行くのを請け負った、人買いの鬼畜生って所だろうか」


 乾いた笑いを漏らす義郎の隣で、鈴音は頭を抱えて「仕方ないでしょう」と彼の見解を肯定する。


「……宿に着いて落ち着いてから、きちんと説明したのよ? でもこちらの童子は神様なんですと言ったって、すんなり信じてもらうのは到底無理だわ。私たち自身が山の事故で頭おかしくなってるとか思われてないだけ、ましだと思ってよ」


 さらに彼女は、自嘲気味にこう付け加えた。


「……まぁ、一番の厄介者扱いされてるのは、今更のこのこ帰って来た揚句、あなたたちを招き入れた当の私らしいのだけれど」

「何言ってるんだ。葵さんは、お前の生還を素直に喜んでいるじゃないか。俺に礼を述べるあの様子は、疑いのない本心に見えたぞ」

「ええ。宿の皆が、行方知れずだった私の帰郷を歓迎してくれてる。でも、いま留守にしていらっしゃる長者様は、どうお考えになるかしら」


 高欄にもたれかかり、庭園の池を遠い目で見つめる鈴音。先程まで若龍に見せていた高飛車な立ち振る舞いとは打って変わって、しおらしい横顔で傍らの義郎に弱音をこぼす。


「なにやら、長者様が私を死んだと早合点したせいで荒唐無稽な噂が持ち上がって、桃塚側もそれに便乗して客寄せしていたらしくて……そこに今さら本人が元気な姿で戻って来たとなっては、長者様の顔に泥を塗るどころか、遊里そのものの沽券こけんに関わるわ」

「……身内の不幸で売名したから、帰って来られては都合が悪いというのか? そんな馬鹿げた話があるか! 芸人の商売の仕方は知らんが、不義は明らかじゃないか! 俺は絶対に認めんぞ!」

「ありがとう。心強いわね」


 本気で憤り、自分だけは味方だと豪語する義郎の愚直さに、鈴音は幾分か慰められたらしい。振り返って見せたその表情は、萎れた花が陽光を浴びて生気を取り戻すかのようだった。

 しかしそれでも楽天家にはなりきれず、顔に憂いを残したまま再び池水に目を移す。


「でも、まだ大きな問題が残っているの」


 義郎も高欄に肘を置き、景色を共有しながら隣の少女の言葉に耳を傾ける。


「今さら隠す事でもないから、打ち明けるけれど……私はここの生まれではないの。四つか五つの頃に口減らしで身売りに出されていた所を、幸運にも長者様に引き取って頂いて……芸能に携わる女には、よくある身の上だけどね。生国や実家は、もう忘れちゃった」

「……そうだったのか」


 重く静かに相槌を打つ義郎に、鈴音はぽつりぽつりと語る。


「私はこの宿で、遊君になるべく育てられたわ。歌や舞を習わせてもらって、女の身でありながら学問を学ぶ機会にも恵まれて。だから育てて頂いた御恩と私を買いとった代金を、遊君として働いてお返ししなければならないわ。その奉公の年季が明けるのは、これからずっと先で……いきなりやってきたあなたと若様に付き従って、桃塚を離れるなんて自分勝手は、きっと許されないと思う」

「……恩を仇で返すことはできないな。さらにその上、借款で縛られているとあっては」

「ええ」

「ううむ……」


 義郎は腕を組んで唸った後、おもむろに呟いた。


「お前をここから連れ出す最善の方法は、俺が身請けして遊女の身を解く事か……」

「えっ……」


 我が耳を疑い振り向く鈴音。しかし当の義郎は、身に纏う絹の小袖――自分のものではない、おそらく宿から貸し与えられたそれを見つめて、空しくかぶりを振る。

 

「だが見ての通り、自分の着物にも事欠く甲斐性無しだ。代金を肩代わりできる財産なんてない……力になれなくてすまない」

「いいえ……気にしないで。安易に他人を当てにしていい事ではないから……」


 どちらともなく庭に視線を戻して、二人は黄昏れる。どちらとも言葉を発せ無い、重い沈黙がしばし場を満たした。


「助けてぇ!」


 若龍王子が絶叫しつつ、どたばたと駆け戻ってきたのはそんな時であった。

 目に涙を浮かべて顔面蒼白で帰ってきた若龍は、鈴音目がけて迷い無く突進すると、彼女が幾重にも着込んでいる衣の裾をばっと勢いよくめくりあげて、袴に包まれた両足の間に割り込んだ。そして鈴音の細い足首をがっしり掴み、屈み込んで縮こまりながらかたかた震え始める。まるで小動物が巣穴に逃げ込んだような有様であった。


「きゃぁっ!? ちょっと、どうしたんですか若様!?」


 いきなり股ぐらに潜り込まれた鈴音は赤面して悲鳴を上げる。はだけられた裾を抑えつつ足下に纏わり付く若龍を無理矢理引きはがそうとするが、対する童子も力の限り踏ん張って頑として動かない。傍らに立っていた義郎は唖然としながらもとっさに首ごと目線を背けて、目の前の痴態を直視しないよう努めた。


「小君、小君! ――若龍様、一体どちらへ?」


 三人が騒いでいると、葵が若龍を探し求めて舞い戻ってきた。


「鈴ちゃん、こちらに若龍さまが来なかった? 急にいなくなってしまって……」


 葵の声を聞いて、鈴音の袴の間から「ひっ」とくぐもった悲鳴が漏れる。


「義郎、そいつを追い払って! 煮殺されちゃう!」

「殺す……!? おい、一体どういう事だ! 若に何をした!」


 幼い主に助けを請われ、不穏な言葉に反応した義郎が葵御前に詰問する。しかし、若龍を追いかけていた当の葵も明らかに状況が飲み込めず戸惑っていた。詰め寄る荒武者に後ずさりしながら、しどろもどろに答える。


「そんな事を言われても、私も何がなにやら……風呂殿にお連れしたら、いきなり『食べられたくない』と叫びながら飛び出してしまわれて……」

「煮て食べられ……あー……」


 何か察したらしい鈴音は、足下で震えている若龍を見下ろしながら、こう教え諭した。


「若様……風呂釜は、お味噌汁を作る鍋ではありませんよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ