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第三十四話 桃塚宿の誓い

 若龍にゃくりゅうは、床下から元気な声で返事をしながら、ぬっと這い出てきた。真上の高欄に寄り掛かっていた義郎よしろう鈴音すずねがぎょっと驚いてたじろぐのにもお構いなく、玉砂利を裸足で蹴って廊下に這い上がり、起きたばかりの義郎に気さくに話しかけてくる。


「義郎、お寝坊さんだよ。今朝ここに着いてすぐに朝餉あさげを出して貰えたのに、ずっと起きないから義郎の分も僕が食べちゃった」

「ああ、そうだったのですか。すみませんね若君……」

「僕ね、お味噌汁っていうの食べたよ。お味噌を溶かした熱いお汁の中に具が入ってるの。見た目は白い泥水みたいだけど全然泥臭くなくて、良い匂いがするんだよ。味はしょっぱいけど少し甘くて……」

「白くて甘い味噌? 拙者の故郷じゃ味噌は赤くて塩辛いんですが……都だと違うのかな。美味しかったですか」

「うん! あんなの初めて! 巫女や坊主が食べてるのを遠くから覗いたことあるけど、お社のお供え物には上らないから、あんなにあったかくて美味しいなんて知らなかった! 人間ってお菓子以外にも、美味しい食べ物をいっぱい作れるんだね!」


 興奮気味に感想をまくし立てる若龍に、義郎が相づちを打ち、他愛無い会話を交わしていると、鈴音が恭しくお辞儀して口を挟んだ。


「急な事でしたので、宿の者が食べているまかないしかお出しできませんでしたが、お気に召して頂けたようで安心しました。若様が我が宿のお味をお喜びでしたと、厨房の者にもお伝えいたしましょう」


 馬鹿丁寧に謝辞を述べるも、矢継ぎ早にじと目で詰問する。


「ところで若さま、なんで床下にいたんですか」

「ここでお昼寝して、義郎が起きるの待ってたの。鈴音もずっと近くにいたみたいだし」

「ちゃんとお部屋を作って寝床も敷いたんだから、そこで休んでくださいよ! こんな所に潜り込んで寝ころばないでください!」

「だって、この下に居ると落ち着くんだもん」


 鈴音に注意されても、若龍はあくびれる事無く返事する。しかし、その無邪気な笑顔にいきなりふっと陰が差した。ゆっくり面を俯け、首にかけた水晶数珠を握りしめて、ちりりと鳴らしながら寂しげに呟いた。


「暗くて、狭くて、湿っぽくて……目を瞑ると、母上のお宮を思い出すから」

「……若……」


 その寂しげな一言に、義郎と鈴音ははっと胸を突かれた。

 一見無邪気に振る舞う若龍だが、その胸中では思慕する母神に突き放されてひどく傷心し、生まれ育った山を追われた望郷の念が早くもわだかまっているようだった。そんな幼子に、どんな慰めの言葉をかければ良いのだろう。


 義郎たちがためらっていると、若龍は二人を見上げて、気づかわしげにこう訊ねてくる。


「義郎、鈴音、身体は平気? 母上の御神酒を飲んで、痛いの治った?」


 問われた二人は、改めて自分の体調を確認して答えた。


「私は大丈夫ですわ。まだ疲れは感じますけど、あの焼けるような毒の痛みはすっかり消え失せて、まるで最初から何も無かったみたいです。未だに信じられませんけれど、源主さまの神宝である変若水――身体の時間を戻すという、若返りの水の力なんですね」

「拙者も平気です。若君と戦った時の打ち身は残ってますが、見ての通り普通に立ち歩きできますし、心配はいりませんよ」

「本当に何ともない?」

「ええ、本当に。毒の後遺症は残ってません」

「……二人とも、ちょっとしゃがんで」


 すっかり元気だと答えても、若龍はなお疑わしげな眼差しをむけてきた。義郎たちは首を傾げながらも指示に従い、廊下に膝を着いて屈む。


「首の辺り見せて」


 すると若龍がいきなり両手を伸ばし、二人の襟元をはだけてそれぞれの首に手をかけた。


「きゃ……」

「むっ……」


 鈴音がとっさに悲鳴を上げ、義郎も思わず身構えたが、首にかけられた手に力は入っておらず、むしろ締め付けないようにと慎重でさえあった。若龍の意図を測りかねるものの、害意が無い事を確信して様子を伺う。

 一しきり首筋を撫でた若龍は手をひっこめると、俯いて嘆いた。


「やっぱり……母上の咬み痕だけ残ってる」


 その言葉に、義郎と鈴音ははっとして己の首筋をなぞり、お互いの同じ個所を見る。

 自分のものは視界に入らず、相手のものは衣の襟に隠れていて今まで気付かなかったが、義郎と鈴音の首筋には、蛇の咬み痕のような痣が浮かんでいた。


 それは岩屋御所の滝の前で源主に牙を突き立てられ、毒を流し込まれた時の咬み傷。変若水の力で完治したはずの肉体にただ一点、その咬み痕だけが刻印の如くはっきりと残っているのだ。


「母上が言ってたんだ。もしも僕がお勤めを果たさないうちに死んじゃったら、母上はとても悲しくなって義郎と鈴音を溶かし殺しちゃうから、二人にも気を付けるよう伝えなさいって……母上は今も、毒で祟ってるんだね」

「溶かし殺す……毒ですって!? 話が違うじゃない! お神酒を飲んだら、毒は消えるって!」


 狼狽える鈴音の横で、義郎は己の首筋を撫でながら思案し、努めて冷静に女神の意図を推測した。


「いや、確かに治るとは言ったが、解毒するとは言ってなかった……おそらく毒に侵された身体は元通りでも、肝心の毒液は俺たちの中で、源主の意思で眠っているんだろう……俺たちが人界に戻ってから裏切らないように、見えない首輪を掛けたということだな」

「そんな! あんな恐ろしいものが、まだ身体の中に流れて私たちを縛っているの? 若さま、解毒の方法は……祟りを解く方法は、ないんですか!?」


 己の両肩を抱いて震える鈴音に、若龍は沈痛な面持ちで首を振る。


「母上は、僕が無事にお勤めを終えられたら――僕が悪神を退治して、立派な神様になったら、しもべの二人の祟りも解いて、ご褒美をあげるって言ってた」



「……結局私たちは、母君の言いなりとなって、若さまにお仕えするしかないわけですね。己の意思とは無関係に」

「進めば荒神の待つ地獄、引けば源主の天罰か……」


 義郎達の失意を感じ取り、若龍の身体がびくりと震わえる。ぽろぽろと溢れ出す涙を懸命にこらえながら、目の前の二人に訴えた。


「義郎、鈴音、ごめんね。僕が弱くて頼りない神様のせいで、母上の思い付きに二人を巻き込んじゃった……でも僕、二人を助けたい。だから改めてお願い。僕が荒神を退治して、立派な神様になるためのお務めを手伝って欲しいんだ。もう母上に祟られていて断れないのに、ずるいお願いだと思うけど……でも、僕が死んだら義郎たちが、大事な友達が死んじゃうなんて、そんなのいやだもんっ……!」


 ぺこりと頭を下げて真摯に頼み込むその様は、母親とは似ても似つかない誠実な態度だった。

 神の童子が下げた頭を見下ろしながら、義郎と鈴音は互いの目を見て意思を確かめ合う。そしてまず、義郎が口を開いた。


「……拙者は正直言って、あなたの母君であられる源主さまの理不尽な仕打ちには思う所があります。ましてや祟りの事を聞かされた今、母君の都合の良い駒として働かされるのは甚だ不本意です。が、しかし……自分を頼って来る"友達"の窮地を見捨てるのは、義理人情の無い、武士にあるまじき行為だとも考えております」

「そうね。現世の"友達"が心配のままじゃ、死んでも未練が残ってお彼岸へ渡れないわ」


 頭上からかけられた優しさを含んだ言葉に、若龍ははっと面を上げる。

 若龍の前で、義郎は頼もしげに腕を組み、鈴音は扇を開いて不敵に微笑んでいた。


「母君の激流に抗えぬなら、ここはあえて流れに身を任せ、死中に活を拾う覚悟を決めましょう。いかな障害も恐れず突き進み、死ぬ時は前のめりに倒れるのが武士の心構えというものです」

「私は天性の舞人ですからね。神が躍る馬鹿をご所望なら、たとえもう見たくないと言われようが自分の気の済むまで演じ切ってやりますわ」


 大蛇と化した若龍を死力を尽くして打ち負かし、怒り猛った源主を命がけで鎮め、九死に一生を得る凄まじい体験を経た、武と芸の技に通じた若者たち。今や彼らには、理不尽な運命を前にしても打ちひしがれる事無く、己の業を頼みに奮起する胆力と活力が芽生えていた。

 彼らの意思がどうであれ、やるべき事は実質何も変わらない――しかし、他者に無理強いされてやらされる事と、自らが納得して行う事は、当事者にとって大きく異なる。人は、やり甲斐の無い事に全力を出せないのだ。

 二人は揃って若龍にかしずき、宣言する。


「若君、拙者たちはすでに一蓮托生です。あなたが母君の言いなりとしてではなく、ご自分の意思で艱難辛苦かんなんしんくを乗り越えたいと望んでおられるなら、その想いに応えて尽力しましょう」

「そうですとも。鈴音は祟りの恐怖ではなく、友達思いのあなた様の、お優しい御心にお仕えしたいと思います」

「二人とも……ありがとう! 僕、頑張るから!」


 若龍は快く協力を申し出た二人に勢いよく飛びつき、小さな身体にみなぎった喜びを全身で表現する。その笑顔は、陰鬱な雨の後にやってくる快晴の青空のように朗らかだった。

 女神から一方的に突きつけられた運命に翻弄されつつも、一柱の神童と二人の若者たちは手を携えて逆境を乗り越える決意を固め、心からの一致団結を誓うのだった。


小君こぎみ、小君――若龍さま。どちらにいらっしゃいますか」

 

 鈴音の姉弟子のあおい御前が、寝室から姿を消した若龍を探しにやってきたのはそんな頃合いであった。

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