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第三十三話 桃源郷へようこそ

 目覚めた義郎よしろうは、周囲の光景に驚いて思わず飛び起きた。

 そこは貴族の邸宅を思わせる屋内の一室だった。広々とした板敷の空間を屏風で仕切って部屋を作り、その内をさらに几帳きちょうで閉ざして畳を敷いた、帳台ちょうだいという貴人の寝台に、義郎は真新しく清潔な単衣ひとえを纏って寝かされていた。枕元には見覚えのある鞘に納められた、自分の刀が置いてある。


「ここは……?」


 困惑した義郎が室内をきょろきょろ眺めていると、その気配を察したのだろうか、一人の女が屏風の陰から覗き込んで来た。


「あら、義郎。ようやくお目覚め? もうお日様昇っちゃったわよ」


 話しかけてきた女の顔と声に、義郎は覚えがあった。鈴音すずね御前である。しかし彼女の恰好を見て、義郎は安心するどころか動揺を大きくした。


 義郎の記憶では、鈴音は水干と立烏帽子で男装した、白拍子の出で立ちをした女芸人だった。

 ところが今の彼女は紅の袴を穿いて、その上から絹の染織物を鮮やかに重ね着した、袿袴うちきはかま――すなわち、公家の姫君の如き装いをしているではないか。一番上に着た丈の短い小袿こうちきは、薄桃色に染め上げた練絹に桃花の文様が錦織りされていて、華やかさを一層強調している。


 鈴音が義郎の枕元に寄って腰を下ろすと、衣の裾と艶やかな垂髪が彼女の背中から床へと扇状に広がる。口元にかざした扇をひらひらとあおぐたび、衣にたき込めた白檀びゃくだんの芳香が室内に漂い、爽やかな匂いが義郎の鼻孔を撫でた。


「鈴音……だよな? そのどこぞの姫さんみたいな恰好は一体? ここはどこなんだ?」


 困惑してせわしなく周囲を伺う義郎の問いに、鈴音はくすくすと忍び笑いを漏らしつつ、扇で口元を隠しながら答えた。


「あら、お姫様だなんて意外にお上手。今さら私の美しさに見惚れちゃった? でも、お勤めには相応しい身なりというものがあるでしょう。お公家さまが官位に定められた色の束帯で出仕して、お侍さんが刀を差して警備するように、遊君はとびきり着飾ってお客様をおもてなしするものよ」

「おもてなしって……それじゃあ、ここは」

「ええ。ここは桃塚の里の、私が奉公している長者さまのお宿。豊瑞穂とよみずほの桃源郷へようこそ、義郎」


 恭しくかしずく仕草を見せながら、いたずらっぽく微笑む鈴音。物慣れぬ場の雰囲気に気圧された義郎は、後ろ首を掻いて気後れを誤魔化しつつ、目覚める以前の記憶を懸命に掘り起こした。


「ええと……俺たちは、出瑞いずみ山の岩屋御所いわやごしょにいたはず……源主みなもとぬしの神託を拒んだら毒で責め立てられて、従う代わりに解毒の神酒を呑んで……それから……」

「ええ、そうよ」


 鈴音が言葉を接ぐ。


「私たちは神酒に酔って気を失った後、若龍王子にゃくりゅうおうじと一緒に船に乗せられて川に流されたらしいの。桃塚の湖に漂着していたところを、私の先輩の葵姉さまに発見されたのが今朝、なんだけど……」

「そうか、出瑞山から中央へ……あれから何日経っているんだ?」

「あの……信じられないと思うけど今、五月ですって。夏の半ばよ」

「……なんだと?」

「お庭を見てごらんなさいな」


 不可解な眼差しを注ぐ義郎を、鈴音が軒下の御簾を巻き上げて縁側へ誘った。起き上がって部屋を踏み出た義郎は、縁側の欄干に身を乗り出しながら外の景色に息を飲む。


 そこには上流貴族の邸宅にもひけを取らぬであろう、見事な庭園が広がっていた。

 広々とした敷地の地面は隅々まで白い玉砂利を敷き、丁寧に平らにならされている。雑草など芽の一本も見つからない一方で、よく剪定の行き届いた木々が植え込まれ、純白の地面に鮮やかな緑を添えていた。

 庭の中央には舟遊びが出来るほどの大きな池が設らえれており、ときおり鯉が跳ねて透き通った水面に波紋を立てる様子がうかがえる。水面から突き出た苔むす岩小島には、松の古木が太い根を張って厳かに佇み、仙人が住むという伝説の蓬莱ほうらい山を想像させる威風を誇っていた。


 そんな見事な庭園を燦々と照らす太陽は、ぽかぽかと陽気に満ちて地上に暑気を生んでいる。光を浴びて生き生きと枝葉を伸ばした庭木には桃が多く、青い未熟な果実を鈴生りに実らせていた。また池の畔には杜若かきつばたが生い茂り、咲き誇る青紫の花が庭園全体をより一層光り輝かせているのだった。

 このような風物を見られるのは、梅雨を目前に控えた初夏から仲夏の頃のはず。出瑞山に詣でた晩春のあの日からすでに一ヶ月以上の時間が経っているのだと、草木が語らずして義郎に教えていた。


「本当に夏だ……俺たちが出瑞山へ詣でたのは三月だったのに……そんなに長い間眠っていたのか? しかし、五十日も寝たきりになれば身体は相当衰えてるはずだ。俺もお前も平気で立ち歩きできるほどに元気じゃないか。一体どういう事だ……」

「私だって、訳が分からないわ」


 頭を抱えて戸惑う義郎に、寄りそう鈴音が首を振って同調する。よくよく見れば、彼女の小袿の下は紫染めの衣を繊細な濃淡順に重ねており、眼前の季節の花をさりげなく意識した取り合わせだった。


わか様に尋ねても『母上のお宮の中にいたから』って、いまいち要領を得ない答えしか返って来ないし……ただ、推測するなら」


 鈴音は顎に閉じた扇を当てながらしばし黙考し、こう呟いた。


「『人間じんかん五十年、下天けてんのうちをくらぶれば、夢幻の如くなり』……という事かしら」

「下天の……なんだそれは?」

「舞歌の一節よ。天界の最下層の一昼夜は、人界の五十年。天界と比べて、人の世はなんと儚く移ろいやすいのか、という意味。世界が違えば、時の流れも異なる……私たちが閉じこめられていた岩屋御所は山奥の洞窟だけど、源主が住まう神の世界よ。それなら、似たような力が働いていたのかも」

「俺たちが岩屋御所で一晩過ごしている間に、世間ではすでに数週間も経っていたというのか? そんな馬鹿な」

「私たちが五十日間も飲まず食わずで眠りこけていたと考えるよりは、馬鹿な想像ではないと思うわ」

「……つくづく俺たちは、人の立ち入るべきでない世界に居たんだな」


 頭を抱えて唸る義郎に、鈴音も同調する。


「ええ、そんな異界から私たちは生還した……いえ、人界に遣わされたのね。源主の神託を帯びた、若龍王子にゃくりゅうおうじ下僕しもべとして」

「そういえば、若龍王子も……わかも、この宿に居るのか?」

「ええ。あなたもあの子も、私のお客として泊めているわ。別の部屋に寝床を敷いてあげて、まだ寝てるはず――」


「あ、僕ここにいるよっ」

「うぉっと!」

「きゃぁ!?」


 突然、足元から聞き覚えのある男の子の声が聞こえたかと思うと、縁側の下から若龍王子がぬっと顔を現した。

『人間五十年……』は幸若舞という舞曲の『敦盛』の一節より引用。織田信長が好んだことで有名。

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