第三十二話 若龍王子の御光臨
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――はっと目が覚める。
気が付くと葵はお籠りしていたお堂の中に居て、龍女菩薩像の前で突っ伏していた。
堂内の灯は絶えているが、締め切った戸の隙間から日の光が差し込んでほんのりと明るい。外から雀のさえずりも聞こえる。念仏行の途中で寝込んで、そのまま夜明けを迎えてしまったらしい。
「今のは……夢? 私ったら、なんて不心得なんだろう。鈴ちゃんの御弔いの途中で眠りこけてしまうなんて……でも、なんだか不思議な夢だったわ。お告げか何かかしら。帰ったら辻の拝み屋さんに夢解きしてもらおうかしら……」
深く自省しつつも、昨夜の夢の光景に引っかかるものを感じて物思いに耽っていた時だった。
――えーん、えーん。
外から子供の泣き声が聞こえる。
「……誰かいるの?」
ここは桃塚湖に浮かぶ無人島である。早朝からこのような辺鄙な所に居るのは、昨夕から参籠している自分だけのはずだが……葵は訝しみつつも、正体を確かめるべく外へ飛び出す。
狭い小島なので、声の出所はすぐに突き止められた。そこは葵が昨夕に下船した平坦な浜とは正反対の方角にある、荒々しい岩石がむき出しになった険しい磯辺。葵が起伏の激しい岩場に難儀しながら波打ち際へ近づくと、岩の上に身なりの良い公家童子が腰掛けて、ひどく泣きじゃくっているのを見つけた。鋭い岩に囲まれているのに、尻餅をついて宙に放り出した少年の足は、何故か裸足だった。
「もしもし、そちらの小君。どうしてこのような場所で泣いていらっしゃるのですか。おみ足もお晒しになって……」
葵は岩の上を仰ぎ見て、貴族と思わしき童子へ丁寧に尋ねる。葵に気づいた男の子は彼女を見下ろし、ぐずりながらたどたどしく答えた。
「あのね、起きたら、母上がいないの。僕が寝ている間に、知らないところへ置いていっちゃったの……」
「まぁ……それはお可哀想に……これで涙をお拭きください。綺麗な御顔が台無しですよ」
葵は懐から手ぬぐいを取り出し、涙でくしゃくしゃになった童子の顔をそっと拭ってやる。
「ありがとう。ぐす……」
童子がしゃくり上げて身体を震わす度、じゃらじゃらと石の擦れる音が生じる。彼の首元には水晶玉を連ねた数珠がかかっており、朝日を返して美しく光っていた。
その数珠を見た途端、葵は奇妙な既視感を覚える。
(夢で、こんな数珠を首にかけた子供が現れたような……いいえ、気のせいでしょう)
昨夜の夢は最後の光景だけが鮮烈に印象に残って、それ以外はおぼろげだった。葵はつまらない妄想を振り捨てて、目の前の男の子について考える。
(捨て子かしら。情の薄い親がいるものだわ。こんなに大きくなるまで育てた子を、寺に預けるでもなく人気のない島へ放り出すなんて……しかも岩場から動けないように、履き物も取り上げてしまうなんて)
目に涙を溜めた幼気な童子に見つめられ、葵は憐憫の情を抱かずにいられなかった。せめて引き取り手が見つかるまでは保護してあげたいと思う。とはいえ、氏素姓の分からぬ小童を桃塚の長者が易々と受け入れてはくれないだろう。
童子が次第に泣き止み、落ち着いてきたのを見計らって葵は尋ねてみた。
「畏れながら、あなたさまのお名前と生国をお尋ねしてよろしいでしょうか」
「僕、若龍……出瑞の、お宮がある御山の子」
(出瑞のお宮の山……出瑞大社の子? 修行者の隠し子なのかしら。何だか複雑な事情を抱えていそうね……)
「ねぇ、ここはどこ? お姉さんは誰なの?」
「ここは中原京の近くの、桃塚の湖の小島です。私は葵と申しまして、湖の畔にある宿場で遊君をしております、つまらぬ女でございます」
「桃塚……じゃあ、ここは鈴音の故郷?」
その何気ない一言に、葵は衝撃を受けて聞き返した。
「小君、いえ、若龍さま。鈴ちゃんを……桃塚の遊女の、鈴音御前をご存じなのですか!? 以前どこかで……もしや、あの子が出瑞のお宮へお参りした折に、お会いになられたことが?」
先ほど、若龍は自分が出瑞大社の者だと告げた。出瑞国の子供が鈴音の名を知ったとすれば、春に出瑞参りへ赴いた時以外に考えられない。鈴音が岩屋御所へ詣でた日に、彼も山上の本宮にいたのだろうか。もしそうならば、失踪直前の鈴音の様子を伺いたい……葵は詳しく尋ねた。
それに対し、若龍の返事は簡潔だった。
「うん。そこのお船にいる」
「船?」
「僕を乗せて、流されてきたお船」
若龍が指さす先を見て、葵はようやくその存在に気付く。磯の岩陰に、一艘の船が座礁していた。巨木をくり貫いて造られた素朴な丸木舟だが、一体どんな激流を越えてきたのか、船体が酷く損壊している。もう水上には出られないだろう。
葵は童子の言葉に半信半疑ながらも、壊れかけの丸木舟に近づいてみる。濡れた岩に足を滑らせぬよう注意しつつ、恐る恐る船底を覗き込んだ彼女は、たちまち「あっ」と声を上げた。
そこには、田舎じみた粗末な衣をまとった侍らしき青年と、都で流行の白拍子の恰好をした少女の、一組の若い男女がぐったりと横たわっていた。男は刀、女は鏡箱をそれぞれ腕に抱いている。
葵が驚嘆したのは、少女の顔に見覚えがあったからである。それはまさしく、葵がこの四十九日間に絶えず後世を弔っていた妹分、鈴音御前その人ではないか。すでに故人と信じていた身内が、予想だにしない形で目の前に現れたのだ。
「鈴ちゃん! 生きているの!?」
葵は鈴音を抱き起こし、肩を激しく揺すりながら呼びかける。鈴音は少しの間、糸の切れた人形のように五体を投げ出していたが、まもなく「ううん」と声を漏らして、ゆっくり目を見開いて葵を見つめる。
「あ、葵姉様……?」
「やっぱり、本当に鈴ちゃんなのね!」
もしや他人のそら似ではという一抹の不安も、自分の名前を呼ばれて完全に打ち消える。葵は紛れもない、正真正銘の妹分をひしと抱きしめ、歓喜に打ち震えた。感激のあまりに嬉し涙が泉の如く湧き上がり、昨日まで彼女を苦しめていた悲しみや憂いは綺麗に洗い流されていった。
「信じられない、奇跡が起こったわ! 死んだはずの人間が、蘇って目の前に現れるなんて! ああ、これはきっと、神仏の尊いお慈悲だわ!」
一方、目覚めたばかりの鈴音は状況が飲み込めず、一人で盛り上がっている先輩遊女にただ困惑するばかりである。目をぱちくりさせながら周囲を見渡し、自分の隣に男が倒れているのに気づく。
「……義郎!」
叫ぶな否や、葵を強引に押しのけて義郎と呼んだ男に覆いかぶさり、先ほどの葵と同じように肩を揺すって懸命に呼びかけ始めた。いきなり振り払われた葵は、呆然と妹分の振る舞いを見守る。
「義郎、無事なの? ねぇ、起きて!」
男は時折「ううむ」と唸るが、一向に目覚める気配がない。呼びかける鈴音の必死な表情は次第に切羽詰まっていき、声も焦燥を帯びていく。
「まさか、毒が……!」
「心配ないよ」
そこへ若龍が岩から飛び降りて、ぺたぺたと歩み寄って来た。足を切るような岩の地面に無防備な裸足を晒しているにも関わらず、危なげのない軽やかな足運びだった。
「若君……」
若龍を見た鈴音が思わずたじろぐが、当人は気にしない。船の縁に寄りかかり、義郎の頬をつつきながら鈴音をなだめた。
「小柄な鈴音が元気だから、義郎も平気だと思う。起きないのは単に悪酔いしてるんじゃないかな。鈴音は母上みたいにお酒強いの?」
「ええ、まぁ、客にしつこく盃を勧められても潰されない程度には……それじゃあ、大丈夫なんですね? よかった、本当に……」
義郎という男の安全を保障された鈴音は、ほっと胸をなで下ろしてその場にへたり込む。そしてしばし放心した後、再び不安げな表情でおずおずと少年に尋ねた。
「あの、最後の記憶があやふやなんですが……私と義郎が生きていて、若君が一緒にいるという事は、つまり……私たちは結局、使命を帯びたという事になるんでしょうか」
「うん……母上が、そう決めたから」
「やっぱり、そうなんですね……」
何やら訳ありげに言葉を交わし、頷き合う二人。そこに葵が割って入る。
「鈴ちゃん……そちらの小君は、一体どちらさまなの?」
「ええと、この方は、若龍さまと言って……なんといえばいいのかしら……うーん、一言で言うと、出瑞童子の正体で、王子神さまなの」
「出瑞童子? 王子神? 何を言ってるの鈴ちゃん? じゃあ、その男の人は?」
「彼は義郎。東国の武芸者で、私の命の恩人で……」
言いよどんだ鈴音は、顔を明後日の方向に向ける。そして少々の沈黙の後、ぼそりと一言呟いた。
「その……大事な人」
その曖昧だが含みのある言葉で、葵は察した。まず、自分を落ち着かせるようにゆっくり深呼吸する。そして鈴音を発見した時よりも、ずっと大きな驚嘆を湖上に響かせた。
「……鈴ちゃんが男を連れてきた!」




