第三十一話 葵御前の鈴音供養・下
闇夜の森に迷い込んだ葵が泣き声を辿っていくと、やがて開けた川原に出た。川と森の境目の茂みで立ち止まった葵は、二人の人影が川原に佇むのを認めた。高貴な公家風の身なりの、長身の若い女と幼い童子だった。
女は銭模様を縁取った十二単を身にまとい、いささか風変りではあるが貴婦人と呼ぶに相応しかった。およそ人間離れしたその美貌は、一流の遊女と評判の葵すら尻込みさせるものがある。三十路もまだ遠いであろう外見の割に、物腰はゆったりと厳かで、正面から相対すれば喉元に刃物を突き付けられたような威圧感を覚えるだろう。しかし今は悩ましげに眉を寄せ、地に膝を着いて目の前の童子を相手していた。
童子は白い半尻装束を身にまとい、首に水晶の数珠をかけていた。幼いながらも眉目秀麗で、どこに出しても恥ずかしくない清浄で上品な装いだが、なぜか沓を履かず裸足で地を踏んでいた。
童子は泣きじゃくりながら傍らに立つ貴婦人を見上げて、十二単の袖を両手で強く握りしめている。見かねた貴婦人は荒い石の敷かれた川原に膝を着いて、目線を男の子に合わせて語り掛けた。
「そんなにめそめそと泣いてはいけませんよ。誰でもいつかは親の下から離れるもの。早かれ遅かれ、望もうとも拒もうとも、決して避けられない道なのです。お願いだから堂々と胸を張って、わたくしを安心させておくれ」
「だって母上、お山を降りるの怖いよ……もし外で人間に正体がばれたら、みんなに怖がられて虐められちゃう……」
周囲は川のせせらぎで満ちており、また葵の潜む茂みと川原の二人の間には相当の距離があるにも関わらず、葵の耳には彼らの会話が明瞭に聞き取れた。冷静に考えれば不可解なはずなのに、その時の葵には疑問が浮かばなかった。ただ、二人の憂いと悲しみに湿った雰囲気を感じて、事情は分からないが母と子の別れの場面に遭遇したのだと察した。
「大丈夫ですよ。わたくしの与えたその数珠を肌身離さず持っていれば、人に本性を暴かれる心配はありません。なにより、そなたには頼もしきしもべがいるではありませんか」
「でも、やっぱり母上がいないと寂しいもん……」
子供はしゃがむ母親の膝に乗りあがって顔を胸に埋め、離れまいと懸命に抱き付いた。母親は引き離そうと子供の肩に手を伸ばしたが、必死に母を求めてくるそのいじらしさに思わず躊躇して手を引いてしまう。代わりにそっと後ろ髪をかき上げてよしよしと宥めた。しばらくの間、子供のくぐもった嗚咽が場を満たす。
二人の様子を覗き見ている葵も同情を禁じ得ず、きゅっと胸が締め付けられる思いがする。
「う、うう。母上ぇ……」
子供は母の胸元を涙で濡らした挙句、泣き疲れてぐったりともたれかかる。母親は両腕で我が子を優しく抱き包みながら、こう告げた。
「名残惜しいけれども、いつまでもこうする事はできません。人界まではわたくしのしもべに送らせるから、今一時は別れの辛さを忘れて眠りなさい。そなたの水の如く清き心が豊瑞穂の民草を潤す事を祈り、歌を贈りましょう――」
そう告げた母親は、我が子を慰めるように優しく歌い始めた。
深く罪福の相を達して あまねく十方を照らしたもう
微妙の浄き法身は 相を具せること三十二
八十種好をもって 用いて法身を荘厳せり
天・人の崇め仰ぐ所にして 龍神もことごとく敬い
一切衆生の類にして 尊ばざるものなし
また聞きて菩提を成ぜること ただ仏のみ当に証知したもうべし
我は大乗の教えを開きて 苦の衆生を救わん
(仏陀は罪と福の本質を深く究めて、世界を隅々まで照らしなさる。その清浄な身体は三十二の瑞相と八十の特徴で彩られ、神や人のみならず畜生に至るまで彼を尊ばぬものはない。たった一度の説法で悟りに目覚めた私の心境を、仏弟子たちが蛇だから、女だから、若者だからと否定して拒絶する中で、仏陀だけが濁りのない素直な見識でお認めになられた。私もまた、この広大なる慈悲の教えを人々に教え広めよう)
陰で聴いている葵の記憶が正しければ、それは仏典に記されている龍女成仏の詩歌だった。
(あの若い母君、お経も見ずにすらすら唱えられるなんて、よほど信心深い方なのだわ。それに引き換え、私ときたら今まで写経の一つもせず、鈴ちゃんのためにお経を読むことも出来ないなんて……)
葵が自身の不心得を密かに恥じている間にも、貴婦人は讃仏の詩を子守唄のように低く穏やかな声調で繰り返す。男の子も泣き止んで母の歌声に聴き入った。最初はじっと母親の顔を見つめていたが、やがて安らぎを覚えて静かな寝息を立て始める。
「さて……河刀根はいますか」
「はっ、主さま、ここに」
貴婦人が寝た子を抱いたまま川に向かい呼びかけると、返事と共に川面からざぶりと人影が立ち上がった。
遠目で見ていた葵は目を見張る。月光に照らされたその姿は、明らかに人間からかけ離れた醜悪な異形だったのだ。ぬめぬめと光沢のある暗緑の裸形に亀の如き甲羅を背負い、頭の天辺に丸い皿を頂いて、四肢はひょろ長く指の間に水かきがある。
(まるで絵巻物に出てくる河童だわ)
葵はぼんやりと思った。常軌を逸した怪物を目撃しているのに、恐怖を感じず妙に平静だった。
河刀根と呼ばれた河童は濡れた足でぺたぺたと陸に上がり、貴婦人の前で膝を着くと恭しく頭を垂れる。
女が河童を見下ろしながら告げた。
「面を上げなさい。出発の用意はできましたか」
河刀根は少しだけ目線を上げて、主を仰ぎ見ながら言上する。
「すでに船を造り終えて、川に浮かべております。恥ずかしながら、人の匠どもにはとても及ばぬ出来ですが……」
「かまいません。送った先でそのまま打ち捨てるのですからね。大事なのは、降りてから必要になるものです。あの者どもは乗せましたか。まさか逃げ出していないでしょうね」
「相変わらず眠りこけて、暴れる様子はありません。まとめて放り込んでおります」
「大変結構。それでは都のそばまで丁重に送り届けなさい」
貴婦人は鷹揚に頷いて指示を下す。その振る舞いは先刻までの慈愛に溢れた母親の顔とは打って変わって、他者を従え采配を振るう女主人の威風を放っていた。
「承りました……しかし主さま、一つ気がかりな事がございます」
河刀根は言葉を選んで慎重に具申する。彼の態度もまた、主君を畏怖する従順な下僕以外の何者でもない。このような怪物がどうして柔弱な女人に顎で使われているのか、葵には解せなかった。
「何ですか。申してみなさい」
主人に意見を許された河童は、懸念を申し上げて主の判断を仰ぐ。
「ここ数百年の間に、大国主めが森を切り開いて土を弄りまわし、川下を大きく造り替えてしまいました。川のうねりも分かれ目も、昔とずいぶん勝手が違う故、なんの道しるべもなく下れば思わぬ土地へ迷い込む恐れがございます。いかがいたしましょう」
「ふむ、なるほど。わたくしが許したこととは言え、面倒な事よ……しかし、心配は要りません。都への道しるべならば心当たりがあります」
「ありがたきご配慮。して、何を頼ればよろしいのでしょうか」
「あれです」
断言した貴婦人はおもむろに後ろを振り向き、袖口から白く細い手首を突き出して――葵を指差した。最初からそこにいるのを知っていたような、唐突にして迷いのない仕草だった。
「近頃、あの遊女が都にほど近い桃塚の湖において七夜毎に御堂へ籠り、心地よい音楽を奏でています。あの者の歌声と鼓の音を辿ればよい」
「御意。それでは船を曳いて参ります」
急かされた河刀根は、返事も終えぬうちに立ち上がると川へ飛び込んで水中に消えた。
川原には、幼子を抱く貴婦人と葵だけが残った。
「えっと、あの……」
なんとなく隠れて立ち聞きしていた葵は、すでに自分の存在が気づかれていた事を知って狼狽える。それまでお芝居を観ていた観客が、いきなり役者に名指しされて舞台へ押し上げられたような心境で、頭が真っ白だった。
貴婦人はそんな彼女を深い闇色の瞳でじっと捉えつつ、腕の中で寝息を立てている我が子を見せて、こう告げた。
「では、葵御前。この子たちの出迎えをよろしく頼みますよ」
「あ、ああ……!?」
名を呼ばれた葵は、そこで初めて得体の知れない、身のすくむ恐怖を抱いて――
『深く罪福の相を達して~』は法華経・提婆達多品より引用。




